今週は絶好のお花見日和となるでしょう。
 ひらひらと桜が舞うテレビの中でお馴染みのアナウンサーがそう話すのを聞いたのは今朝のことだ。先週頃から咲き始めた桜は満開、週末の天気はどちらも晴れ予報。きっと今度の土日はどこもたくさんのお花見客で溢れることだろう。
 この大通りに植えられている桜も満開を迎え、地面には白い絨毯が敷かれていた。ひらり、舞い散る花弁に忙しなく行き交うこの場所でも時折足を止める人の姿を見掛ける。リィンもまた、その一人だった。


(綺麗だな)


 日本の象徴とされている桜は昔から人々に愛されている。桜が蕾をつけ始めると春が近づいているのだと季節を感じる人も多いのではないだろうか。去年は例年より早く春がやって来たため各地の桜祭りが葉桜になってしまったが、今年は例年より少し遅い見頃となった。


(前にもどこかで、似たような景色を見たことがあるような気がするんだが)


 あれはいつのことだったのか。リィンは桜を見つめながら考える。ちらっと脳裏に浮かんだ景色は駅前だったが、駅周辺に桜の木が植えられている場所など全国各地に数えきれないほどある。
 普通に考えれば昔、どこかの駅で見た景色が記憶に残っているというだけの話だろう。しかし、曖昧な記憶にも関わらずそれは違うような気がした。さらに付け加えると白い花も桜ではなかったと思う。でも桜と同じく門出の季節に相応しい、白い――。

 きらり。
 視界の端で何かが煌めいた。瞬間、とくんと心臓が大きな音を立てた。

 そしてリィンの体は考えるよりも先に動いていた。人並みを掻き分け、ただひたすらに走る。理由は分からないけれど、追い掛けなければ、捕まえなければいけないと本能が感じた。
 もう、届くはずだった手が空を掴むのは、嫌だ。
 無我夢中で伸ばした手の横で眩しいほどの白銀が揺れた。こちらを振り返ったのは、深紅のように赤い瞳だった。


『   』


 一瞬、脳裏を過った何か。重なる二つの光景。銀糸を揺らして振り向いたその人は、口元を緩めて何を言ったのか。

 考えようとして、リィンは自分に注がれている視線にはたと気がついた。
 そういえばこの人のことをいきなり引き留めるだけ引き留めておきながら自分はまだ何も言っていない。これでは不審がられるのも当然だと慌てて口を開く。


「あの」


 何か言わなければと思うのに次の言葉が出てこない。自分でも彼を引き留めた理由が分からないのだ。あなたを見たら衝動的に引き留めてしまいました、などと正直に告白するわけにもいかないが何も言わないのもおかしい。
 道に迷った、落し物をしたから探すのを手伝って欲しい――というのは少々厳しいだろうか。それでも何も言わないよりはまだいいだろうか。そんなことを考えていた時のことだ。


「なあ」


 突然男の方から声を掛けられて、顔を上げる。すると、よく見ると紫も混じった赤い瞳が真っ直ぐにリィンを映していた。その視線にとくんと心臓が再び大きな音を立てる。男が言葉を続けたのは間もなくのことだった。


「ちょいと五十円を貸してくれねえか?」

「えっ?」


 砕けた口調で尋ねた男はふっと口角を持ち上げて笑った。銀が揺れる。白い、桜の花弁の中で。


『よ、後輩君』


 耳に馴染む声が響く。緑の制服に身を包んだ先輩は夕焼けの中で問い掛けた。
 そして、一枚のコインが空を舞った。


「あ……」


 それがはじまり。白い、ライノの花が咲く季節のことだった。


「心配しなくても今度はすぐに――」


 そうだ、あの日。俺たちは出会ったんだ。
 そう理解した刹那、リィンの体はまたも勝手に動いていた。大切な存在を確かめるように、ぎゅっと抱きついたリィンを彼は大きな腕でしっかりと受け止めてくれた。


「……元気そうだな」


 やがて、ぽつりと呟くような声が上から降ってきた。その声にリィンは小さく頭を動かした。


「ああ」

「やっぱりお前は黒髪が似合うな」

「……そうか?」

「お揃いも悪くなかったけどな」


 とくん、とくんと鼓動が伝わる。抱き締めた身体があたたかい。そのことに胸が熱くなって、溢れそうになる。
 生きている。
 生きて、ここにいる。そんな当たり前のことに酷く安心する。何せ彼にとって、それは決して当たり前などではなかった。あの日の感覚を、あの時偶然知ってしまった友の秘密も全部、思い出した。本当に久し振りに、このあたたかさに触れた。


「リィン」


 優しい声が呼ぶ。まだ名乗っていないはずの名前を。初めて会ったとは思えないような声で。


「おかえり」


 ――いつかきっと戻ってくる。
 ここではない、別の世界で大切な人たちに告げた最期の言葉。またと口にした約束が叶わないことは俺も分かっていた。だから以前のように必ず戻ってくるとは言わなかった。
 それでも、彼らは最期まで俺に付き合ってくれた。旅は道連れだと言って。きっと、戻りたいと。一緒にいたいと願った、大切な。


「……ただいま、クロウ」


 とうとう想いが溢れて、頬を伝う。
 震える声で答えたリィンの涙をクロウはそっと指先で拭った。


「随分と長い旅になったな」

「すまない」

「そこは素直にありがとうでいいだろ」


 付き合うって言ったろ、といつかの言葉をクロウは繰り返した。細やかな、けれどこれ以上ないあたたかな約束を思い出して体の中心からじんわりと熱が広がる。


「ありがとう、クロウ」


 実際に今、クロウはリィンの目の前いる。たとえ生きる世界が変わっても同じ場所にいてくれる相棒に胸がいっぱいになる。そして、想いが込み上げるままリィンの口は開いた。


「クロウ、俺」

「リィン」


 零れかけた言葉を遮られたかと思うと唇を柔らかな何かが掠めた。程なくして、リィンの顔を映した赤紫の瞳がそっと和らいだ。
 それを見た瞬間、ああ、と全て納得した。
 いや、本当はお互いにずっと前から知っていた。出会い、別れ、再会して。共に世界に諍うために戦っていたあの頃から。お互い、自分の未来を予感していたから決して口にはしなかったけれど。


「もう、いいよな」


 問い掛けたクロウにリィンは静かに頷く。込み上げる想いは全部、クロウが受け止めてくれた。リィンもまた、伝わるそれを全身で受け止める。
 この世界は、この国は、平和だ。かつての自分たちが掴み取ろうとした世界がここには広がっている。戦う理由も、その手を取れない理由も、ない。今の俺はどこにでもいる普通の学生だ。この世界で暮らしているクロウもきっと。


「今度は絶対、逃がさないからな」

「逃げねーし、逃がさねえよ」


 決して離さない。そう心の中で誓ったのは同じだったのかもしれない。目が合った瞬間になんとなく感じ取って、どちらともなく笑い合った。たったそれだけのことに心はこんなにも満たされる。
 今までだってたくさんの幸せを感じてきたけれど、それとは比べものにならないほどの幸せが胸を占める。こうして生まれ変われていたということ以上に、ここにはクロウと共にいられる未来があるということが何よりも嬉しい。


「またよろしく、クロウ」

「おう。こっちこそな」


 やんわりと体を離して微笑む。今更だが、ここが往来のど真ん中であったことを思い出して恥ずかしさに顔が熱くなる。
 でも、時を越えて再び巡り会えた大切な人を前に、人目を気にする余裕なんてなかったのだ。それほどまでにあの日、出会ってからの想いは日に日に募り、大輪の花を咲かせるほどに大きくなっていた。


「そういえば、五十円を貸すなら利子の方はどうなるんだ?」


 恥ずかしさを誤魔化すように最初の問いを持ち出したリィンに、一瞬きょとんとしたクロウは間もなくして吹き出した。


「すぐ返すっつったのに利子取る気かよ」

「そうしたら会いに来てくれるだろ?」

「だったら直接取り立てに来る方が確実だぜ?」


 俺の家まで。さらっと言ったクロウは「何なら今から来るか?」とウインクをした。
 全く変わらない友人に心の中で敵わないなと呟いたリィンは、どうすると差し出された手に自分の手を重ねた。ここまできたらと開き直ったそれに見せた友の珍しい表情にリィンはくすりと声を漏らした。


「行こう、クロウ」


 そして心から想う。好きだな、と。


「……っとに、お前ってヤツは」


 はあと溜め息を吐きながらも晴れやかな顔でクロウもリィンの手を握り返した。そうして二人はいつかのように白い花弁が舞う中を並んで歩き始めた。







見つけた奇跡を掴み取って、新しい軌跡を共に描こう
(かつて願った数十年先の未来まで)