さーと小波が音を立てる。見上げれば蒼空、見下ろせば蒼海。広く、どこまでも続く蒼は海上交易で栄えてきたこの街の生活に欠かせない。ここに暮らす子供たちが色といわれて真っ先に思い浮かべるのが蒼であるのもそれだけ生活に溶け込んでいることを考えれば必然だろう。
 そんな蒼を見つめる瞳もまた、どこまでも真っ直ぐで穏やかな色をしていた。


「すごいな……」


 揺れる水面を見つめたままリィンが呟く。その視線を追い掛けた先でゆったりと白い山が押し寄せては引いていく。何度も、何度も。心地良いリズムを刻みながら。


「気に入ったか?」

「ああ、もちろん」


 即答したリィンに思わず笑みが零れる。長い間離れていたとはいえ、自分の故郷を気に入ってもらえるというのは嬉しいものだ。潮の香りが通り過ぎるのを感じながらクロウもまた変わらない景色を眺める。


「そりゃあよかった。今日一日、案内した甲斐があったぜ」

「ずっと、ジュライには行ってみたいと思っていたんだ」

「そういや初めてだって言ってたか。まあ帝国の端にある街だ。お前の故郷はもちろん、トリスタやリーヴスからも結構掛かるからな」


 この帝国は広い。いくら各地に鉄道が走っているといっても端から端まで移動しようと思えばかなりの長旅になるだろう。飛空艇を使えばその移動時間を短縮することもできるとはいえ、なかなか訪れる機会がなかったというのは別におかしくもない話だ。


「それもあるけど」


 そう考えていたところで言葉を区切ったリィンの視線が蒼い海から外れる。青紫を追い掛けた先で交わる、二つの瞳。
 瞬間、リィンはふわりと優しい微笑みを浮かべた。


「クロウと一緒に来たかったんだ」


 だから今日、この街に来られてよかった。
 真っ直ぐな言葉がたくさんの想いを乗せて胸に届く。リィンのそういうところにどれだけの人間が心を動かされているのか。先輩として、友人として。その様子を幾度となく目にしてきたが、人のことはいえないかと思ったクロウも軽く口元を緩めた。


「本当、お前は変わらねえな」

「クロウだって変わってないだろ」

「今も昔も頼りになるって先輩ってか?」

「今はもう先輩じゃないけどな」


 先輩と後輩という出会った時の関係はなくならない。だけどそれ以上に友として過ごしてきた時間の方がいつの間にか長くなっていた。
 そのことは予想外でもあったのだが、今の関係を悪くないと思っているのはクロウの本心だ。そうでなければ一緒にここまで来ることもなかっただろう。人生何が起こるか分からないというが、死んだり生き返ったりとこれほど何が起こるか分からない人生はそう多くもないだろう。もちろん、自分の選んだ道に後悔はしていないが。


「前にクロウは言ったよな。友達は大事にしろって」


 不意にリィンが問い掛けた。言われて頭に浮かんだのは、ぱちぱちと音を立てながら赤く揺らめいた篝火と空に広がる無数の星々。貴族も平民も関係なく、皆がただそこにある時を楽しんでいた。今となっては懐かしい学生時代の記憶だった。


「お前の場合、言うまでもなかったみたいだな」

「学生の頃も実感してたけど、卒業してからの方がよりそう感じるよ」

「よかったじゃねぇか。信頼できる仲間にたくさん出会えてよ」


 そうだな、と頷きながらリィンが静かに目を閉じる。思い浮かべたのはⅦ組の仲間たちのことだろう。 本当にそう思うよと柔らかな口調で話しながらゆっくりと瞼を持ち上げたリィンはふっと、目を細めた。


「トールズに入学して、クロウに出会えてよかった」


 そうして告げられた言葉にクロウは驚く。
 この流れでそういう発言が出てくるなんて――相手がリィンなら有り得るのかと、考えている間にもリィンは「あの時も言ったけどさ」と更に続けた。


「俺はクロウのことも大切な友人だと思ってるんだ」


 友人というより悪友の方がしっくりくるけどな、とあの日の言葉を繰り返してリィンは笑う。真っ直ぐすぎる想いは波のように一気に押し寄せる。
 ただし、波と違って引くことはなく想いは募っていく一方だ。また一つ、嵩を増したそれにクロウは僅かに視線を落とした。

 先輩として出会い、クラスメイトになり。敵対して、仲間に戻って、別れて。再び見えた時も味方ではなかった。
 それでもリィンはずっと、たった一人の友を追い続けた。裏切った人間のことなんか忘れてしまえば楽だっただろうに、忘れるどころかずっと想われていたことを視線を向けられ続けていたクロウは知っていた。馬鹿だな、と胸の内で呟いたそれが誰に向けたものだったかもとっくに分かりきっている。


「……絶対に裏切らないヤツを見つけろって言った気がするんだがな」

「裏切らないだろ?」


 裏切らない。裏切るわけがない。それだけははっきりと言い切れる。
 けれど自分は一度裏切った人間だ。あの時の言葉の意味も――などと、今更言うまでもないだろう。リィンは全部理解した上で、確信を持って尋ねたのだ。

 交わった青紫の深さに逃げ道なんてなかった。尤も、逃げる気もない。目を逸らしてきたそれから逃げる必要はもうないと互いに分かっていた。そう、きっかけは何でもよかったんだ。


「ったく、敵わねぇな」


 先に惚れた方が負けとは誰が言い出した言葉なのか。惚れた弱みと言うこともあるが、どっちにしても好きになってしまったものはどうしようもない。何せ気がついていた時には落ちていたのだ。


「それをクロウが言うのか?」

「俺はお前のように天然タラシじゃねーよ」


 正直にいえば、この気持ちが苦しくなったこともある。けれど、人はそれを恋と呼ぶのだろう。
 叶う日がくるとは思わなかった、胸の奥底に閉じ込めた小さな願いは二年と数ヶ月という年月を経て手を伸ばせば届く距離にある。ここまできたらやることは一つしかない。


「リィン」


 ゆっくりと息を吸って、吐いて。呼んだ名前に青紫の双眸が応える。透き通るようなその瞳は出会った頃よりも深く、熱い想いを宿していた。
 そして、想いは溢れる。


「愛してる」


 伝えた言葉にリィンは一瞬だけきょとんとした。しかしすぐに顔を綻ばせると徐に口を開いた。


「俺も、愛してるよ」


 夕日に照らされてほんのりと染まる頬。緩やかな風に髪が揺れ、小波が音を立てた。
 手を伸ばしたのがどちらかなんて最早どうでもいいことだった。長年抱き続けた想いが実った今、求めたのはどちらも同じ。好きという言葉では足りないほど想いは胸の中で大きく育っていた。

 やっと届いた想いに重なる唇。互いの熱が混ざり合って、溶けた。

 数秒の後にそっと離れて、静かに瞼を持ち上げた先で赤と青の紫が絡む。微かに熱を帯びた二つの瞳の色は殆ど変わらなかった。そんな瞳にどちらともなく笑みが零れた。


「おかえり、クロウ」


 程なくして伝えられた言葉に、本当にこいつには敵わないと心の中で呟く。
 懐かしい音の中で幾つかの意味が込められたそれを受け止め、その想い全てに応えるようにもう口にすることはないと思っていた言葉を確かに紡ぐ。


「……ああ。ただいま」


 大切な故郷に、大切な人。かつては立ち止まってしまった場所から再び、次は明日に向かって歩き始めよう。一人ではなく、二人で。

 やがて、空を飛ぶカモメの声を合図に帰るかと切り出したクロウにリィンも頷く。それから一歩、足を進めながらさり気なく取った手は間もなくしてぎゅっと握り返された。
 綺麗な砂浜に二人分の足跡が増えていく。繋いだ手のぬくもりに心が満ちる。真っ赤な夕日に包まれて、深紅に染まった二人は当たり前のように肩を並べて歩いた。








だから今度こそ、共に未来へ





「(クロリン)匿名小説企画」様に「愛している」のお題で参加させて頂きました。