「リィン」


 呼ばれて顔を上げると、紙袋を抱えたクロウが隣に立っていた。このうちの幾つかは今夜の夕食として使うつもりの材料だ。卵が安いからオムライスにしようと決めたのはつい先程のことである。


「ありがとう」

「何を真剣に見てるんだ」

「これか? 少し前に発売した人気小説だな」


 へえ、と言いながらクロウもリィンが見ていたのと同じ本の山へと視線を落とした。今話題の新作、と手書きのPOPで紹介されているその内容を赤紫の瞳が追う。
 暫くして、クロウは小さく息を吐いた。


「運命の赤い糸によって結ばれた二人、ってまたベタな展開だな」

「王道で好まれるから人気なんだろ」


 とある街の中で偶然出会った二人は、実は運命の糸に結ばれた者同士だった。運命の糸によって引き寄せられた二人の物語が今、ここから始まる。
 若い女子を中心に大人気というだけあって、この紹介文も恋愛に興味津々な年頃な女の子たちのハートを射止めるにはピッタリだといえる。やはりいつの時代でもこういった物語が好きな女の子は多いのだ。


「買うのか?」

「いや、待っている間に見てただけだ」


 くるりと体を動かせば、クロウもゆっくりと足を動かす。カランという音の後に「ありがとうございました」と店主に見送られ、二人はどちらともなく夕焼け色に包まれた世界に踏み出す。

 暑い夏が過ぎ去り、青々としていた街の木も徐々に色づき始めていた。まだ日中は暑さが残っているけれど、朝晩は大分涼しくて過ごしやすくなってきた。
 なんだか懐かしいな、と思ったのはこの街の雰囲気がどことなく学生時代を過ごしたトリスタの街に似ているからだろう。漸く士官学院での生活に慣れてきた頃、編入してきた一つ上の先輩。その先輩ともこれくらいの季節には随分と打ち解けたものだが。


「どうした」


 唐突に尋ねられて「何がだ?」と聞き返したら赤紫の瞳がいつの間にかリィンを映していた。何か楽しそうだと思ってよ、と言われてリィンはああと静かに瞳を閉じる。


「昔のことを思い出してたんだ」


 あれから、気が付けば六年という月日が流れた。
 留年の危機に瀕していた先輩も無事に士官学院を卒業し、その一年後にリィンも士官学院を卒業した。そして現在、自分たちは遊撃士という職に就いて各地を飛び回っている。
 クロウから遊撃士を目指すと聞いた時は意外な気もしたけれど、面倒見のいい彼の性格を考えればそこまでおかしくもないかと納得した。お前も一緒に目指すか、と笑ったクロウを追い掛けるように遊撃士になった時は「まさか本当に遊撃士になるとはな」と言いつつもクロウは嬉しそうだった。


「昔って、学生時代の話か?」

「クロウがⅦ組に編入してきた時は驚いたな」

「そこには深刻かつデリケートな事情があったんだよ」

「ただ授業をサボって単位を落としたんじゃなかったか?」

「……そういうことははっきり覚えてなくていいんだ」


 一時は本当に卒業が危うかった本人としては忘れて欲しいことかもしれないが、こちらからすれば忘れられるわけがない出来事の一つだ。あの時は誰もが一年のクラスに編入した彼に驚いた。
 けど、忘れられない一番の理由はそれが他の誰でもない、クロウのことだからだ。そう話したらまた、溜め息を吐かれた。


「お前は変わらねぇな」

「クロウだって変わらないだろ」


 あの出来事がなければ自分たちはこれほど親しい関係にはならなかっただろう。他の先輩よりも交流する機会は多かったけれど、きっとここまで打ち解けられたのは同じクラスの友人として付き合っていた時間があったからだ。
 それと、自分たちの関係を変えた出来事はもう一つ。


「……クロウはベタだって言うけど、俺はああいうのもいいと思う」


 運命の赤い糸。ロマンチックなそれが現実にも存在していたら、と少女たちはあの小説を読みながら考えるのかもしれない。
 自分にもこの世界のどこかに運命の相手がいるのではないかと夢を馳せる。そういった部分も含めて楽しめるのが本のいいところだ。いずれ巡り会った相手とこれは運命だったのかもしれない、なんて話して幸せを分かち合うのもいいだろう。


「運命の相手なんて本当にいると思ってるのか?」


 だが、クロウはリィンとは対照的なことを口にする。けれど、それを聞いたリィンはくすりと笑みを零した。


「少なくとも俺にはいたよ」


 持ち上げた右手の指に赤い糸はない。しかしあの頃、この指には確かに赤い糸が結びついていた。そしてそれは、今隣を歩いているこの恋人の指に繋がっていた。
 あの頃、突然見えるようになった例の糸はクロウと付き合うようになって暫くしてから急に見えなくなった。まるで小説に出てくる運命の赤い糸と呼ばれるものにそっくりだったそれが本物の赤い糸だったのかは分からない。でも、それが自分たちを繋いでくれたことはこの恋人という関係が証明してくれている。


「俺たちの関係が全部、運命によって決められたことだとは思ってないけど」

「当たり前だ。俺はそんなものに関係なく、ただお前に惹かれたんだからな」

「それは俺も同じだ」


 言い合って、ぶつかった瞳にどちらともなく笑った。
 自分たちにとってあの赤い糸はこの関係のきっかけになったけれど、それが全てではなかった。そのことは自分たちが一番よく知っている。

 不意にぶつかった指先をなんとなく離さないでいたらぎゅっと指先を絡められた。いつもなら外なんだからと口にするところだが、たまたま今日は人がいなかったから。


「リィン」


 赤紫の瞳が見つめる。そこに宿る熱はいつだってあたたかくて、優しい。あの頃から変わらない、リィンの好きな色。


「今度休みは久し振りにどこかへ出掛けるか」


 恋人からの誘いにリィンは頷く。


「それなら本も買っておけばよかったな」

「たまには何も考えずにふらっと列車旅もいいと思うぜ」


 それもそうだな、と歩く影が指先から一つに繋がった。夕焼けに包まれながら歩く帰り道で幸せだなと心から感じる。あの頃も、今も。きっとこの先の未来もずっと。







今日もまた、そこには幸せの一頁が刻まれた