たとえそこに運命と呼ばれるものがあったとしても、運命は絶対ではない。
この世界の全てが運命に定められているなんて有り得ない。人はその時折で数多の選択肢から自分で道を選び、進んでいる。そこに巡り合わせがあり、これも運命かもしれないと考えるくらいならいい。だが、それは決して空の女神によって定められた絶対的なものではないはずだ。
だからこれも変えられないことはないはずだと、そう思っていた。
――つい一週間ほど前までは。
(運命の赤い糸、とはよく言ったものだな)
そもそも運命とは何か、なんて哲学的な話をするつもりはない。けれどこんなものが見えるようになって、嫌でも考えるようになったのは事実だ。
これが物語に出てくるあの糸そのものなら、この糸の先にも運命によって結ばれるべき相手がいるのかとよくある展開を想像して心が波立った。どこの誰とも分からない運命の相手とやらはいつあいつの前に現れるのか。数年後、下手したら数十年後。そこまで待ったとしても本当に結ばれると言い切れるのか。そんな相手のために身を引くなんてやってられないだろ。
(だが、これがなければ吹っ切れなかったか)
淡い恋心を自覚したのは数ヵ月前。きっかけはほんの些細なことだった。俺はこいつが好きなのかと自覚して、すぐに叶わぬ恋は胸の奥にしまっておくことに決めた。この関係を壊してまで想いを告げるより、今の関係を大切にしたかった。人に甘えることが下手な後輩が俺にだけ見せてくれる色んな表情が好きで、嬉しかった。
しかし、こんなものが見えるようになったら秘めようとしていた気持ちがふつふつと沸き立つようになった。見えなければ、また違っただろう。叶わない恋を自覚していても想い人の小指に毎日こんなものが見えていたら小さな感情は日に日に募っていくというものだ。出会ったこともないヤツより俺の方がこいつのことを分かっている。たとえ本物の運命の相手がいたとしても、その前に奪ってしまえばいいのではないかと。
「そういえば、一つ気になっていたことがあるんだけど」
太陽が西の空へ傾き、一面の青は赤に染められた。夕焼けの中でも目立つ深紅の制服に身を包んだ後輩は暫し視線を彷徨わせた後に、意を決したようにこちらを見た。
「もしかして、クロウも見えてるのか?」
何が、とは言われなかった。けれどそれが何を指しているのかは考えるまでもない。
「見えてたら、どうするんだ?」
「どうもしないけど……いつから知ってたんだ?」
「ついさっきだな」
え、と驚くリィンにそりゃあそうだろと笑う。突然見えるようになったこれは全ての人に見えているわけではない。それが分かっていたらリィンにも見えていないものだと考えるのは当然だ。
「それなら何で分かったんだ?」
「それはこの糸の話か? それともお前の気持ちの話か?」
尋ねたらリィンはほんの僅かに視線を逸らした。暫くして両方と答えた想い人の頬にはほんのりと朱が乗っていて、可愛いなと思ってしまったのは仕方がないだろう。
同時に、本当に好きなんだなと感じて愛しさが広がる。そのきっかけもこの糸だ。散々振り回されもしたけれど、きっかけがなければ多分俺たちはお互いに踏み込まなかった。そういう意味ではこの糸に感謝している。この、運命の赤い糸とやらに。
すっと手を上げると、その糸が揺れた。小さな波はリィンの小指まで伝わり、ゆらゆらと赤い糸が二人の視界に飛び込む。
自然と、視線は目の前で揺れる糸を追い掛ける。その様子にクロウは微かに口元を緩めた。
「普通は見えないモンでもそうやって見てれば分かるだろ?」
指摘してやれば隣から「あっ」と小さな声が聞こえてきた。見えない人間ならまず気付かない。けれどクロウにはこの糸が見えている。他の人には見えないはずのものを同じように追い掛けていれば、その可能性を考えるには十分な理由だ。
「言われてみればそうだな」
「ま、二つ目の質問も同じような理由だけどな」
「え」
固まるリィンににやりと口角を持ち上げる。
「お前はどうして自分の糸が俺と結ばれてるって気付いたんだ?」
俺たちに見えているものが同じならリィンも最初はその糸の先にいる相手のことを知らなかったはずだ。もちろん、俺の糸がどこに繋がっているのかも分からなかっただろう。分からなかったから、見ず知らずの相手に対する苛立ちが徐々に募っていた。
だが、それはこの糸が意味することに気付いていなかったからだ。物語に出てくる赤い糸は運命の相手と結ばれているというものだ。故に、これもそういうものだという先入観があった。しかし、自分たちが見ていた赤い糸はそれとは少し違っていた。
「それは、いつの間にか…………」
言っている途中で気付いたのだろう。みるみる赤くなっていく友の表情に思わず笑いが零れた。
そう、これはいつの間にか見えるようになったわけではない。ある条件を満たしたからこそ、見えなかった糸の先を見ることができるようになったのだ。
「……そんなに見てたか?」
「そこはお互い様だと思うがな」
けど、確信したのは別の理由だ。それはたまたま、本当に偶然聞いてしまっただけの独り言。本人だって意図していたか分からないような一言だった。
『…………クロウ』
放課後。いつの間にかすっかり西の空へ傾いていた太陽に気が付いて屋上から降りた時。そのまま下まで降りず、何となしに二階の廊下を歩いた。
その廊下の一番端、Ⅶ組の教室の前で足を止めたのはそこに見慣れた黒髪を見つけたからだった。また今日も残って生徒会の手伝いをしていたのかと、思った矢先に聞こえてきた声に話し掛けるタイミングを完全に失った。
「お前が俺を好きだって知ったから、俺はこれが見えるようになった」
視線は時々、感じていた。だけどそこに深い意味なんてないと考えるのは普通だろう。もしかしたら同じではないかと考えるのは自分に都合のいい解釈だ。こんなものが見えるようになって変に考えすぎているだけだろうと思った。
けど違ったのだと自分たちを繋ぐ糸が教えてくれた。そこでこの糸の真実も知った。これはお伽噺のように決められた相手と結ばれているものではなく、両想いである人同士が結ばれるものだと。
「他人の糸は知らなくても見えるのに自分の糸は違うってのもよく分からねぇ話だが、そこは考えるだけ無駄だろう」
「……そういうものか」
「そういうモンだろ」
まずこの糸が見えるようになった理由だって分からないのだ。明日にはまた急に見えなくなっていたとしても不思議ではない。とにかくこの糸は自分たちの知っている赤い糸とは少しだけ違った、けれどやはりそういったものを具現化した糸だった。これが事の真相だ。
「どうしてこの糸が見えるようになったのか、ずっと考えていたんだけど」
不意に、自分の小指に巻きつく糸を見つめながらリィンが呟いた。それは俺も気になっていた点ではあるが、所詮は答えの出ない疑問だろう。そう思ったのだが。
ちら、と青紫がこちらを見る。それからふわり、リィンは柔らかな笑みを浮かべた。
「クロウと出会うためだったのかな」
予想外の発言に驚きで言葉を失う。俺達が出会ったのはリィンがこの学院に入学したばかりの頃だ。しかし、この糸がなければ俺がリィンの気持ちを知ることも、リィンが俺の気持ちを知ることもなかっただろう。
だから運命の相手として、この糸が自分たちを結んでくれたのではないかと。そう話す友人に暫くしてからゆっくりと、大きな息を吐いた。
「……本当に、お前はよくそういうことを恥ずかしげもなく言えるな」
えっと聞き返した後輩に「そういうところも好きだけど」と言ってやれば「クロウの方がよっぽど恥ずかしいことを言ってるだろ」と目を逸らされた。
俺はお前がやったのと同じことをしただけなんだが、まあいいかと空を舞う赤色を眺めながら思う。人間というのは単純なもので、少し前までは苛立ちの原因となっていたこの糸も今では心を穏やかにさせてくれる。でも、その一番の理由は――。
「なあ、このまま本屋に寄って行かねぇか?」
「それはいいけど――」
「じゃあ今度のデートの予定を立てようぜ」
はっきりとした言葉を口にした瞬間に頬を紅潮させる恋人に自然と頬が緩む。付き合うなら一緒に出掛けることは即ちデートだろうと続けたら「それはそうかもしれないけど……」と段々語尾が小さくなっていった。
そうやって恥ずかしがるところがまた可愛いのだが、やっぱりこいつは俺の想像の一歩も二歩も先をいく。僅かに視線をずらしたリィンはやがて、こちらを見ると。
「その、クロウのとっておきの場所にも行きたい」
ついさっき、話したばかりのそれを想像以上に楽しみにしていてくれたらしい友人にきょとんとして、それから笑いが込み上げた。
「心配すんな。そっちもちゃんと案内してやっからよ」
本当はただリィンを誘うための口実だったのだが、そこまで期待されているのならそっちはそっちで考えることにしよう。同じ気持ちでいてくれたことが嬉しくて、堪らないのも多分同じなんだろう。
「ありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃねーよ。それより、お前は行きたいとことかねぇのか?」
それは顔を綻ばせたリィンを見れば一目瞭然だ。そんなリィンを見て好きだなと思うのが何度目になるのかなんて覚えていない。だが、それはもう一方通行ではないのだと思うと、それだけで心が満たされた。
学院からの帰り道。十分にも足らない時間は十分すぎるほどの幸せを運ぶ。
赤い糸のその先
それは俺たちが作る、ハッピーエンドの物語
(お前が隣にいる、ただそれだけで幸せなんだけどな)