「あれ?」


 呟いたエリオットが首を傾げる。その声に近くにいた友人たちが一斉にエリオットを見た。


「どうかしたのか?」

「いや、何か今甘い香りがしたような……」


 友人の発言にリィンはどきっとした。
 まさか、と内心で焦る。どくどくと心臓が五月蝿くなるのが自分でも分かった。どうする。どうすればいい。頭の中をぐるぐると同じ疑問が駆け巡る。


「それってもしかしてこれのことか?」


 その時、どこからともなく降ってきた声に顔を上げた。
 みんなの視線が集まった先に立っていた年上の同級生は、ラッピングされた小さな袋を持っていた。


「さっきそこで会ったトワにもらったんだよ。調理技術だったらしいぜ」


 ほら、と机に置かれたそれに「え?」と思わず零すと「クッキーだってよ」と中身を教えてくれた。そういう意味で聞き返したわけではないのだが、そう思ったことが伝わったのか。そんなに数はないけどよかったらみんなで食べてと言われたのだとクロウは補足した。
 そういうことならとみんなで一つずつそのクッキーを頂くことになった。それが昼間の出来事。

 放課後。みんなが部活に行くのを見送ったリィンは一人教室に残っていた。
 何か手伝うことがないか、生徒会室に行って会長に聞いてみようか。そう思う反面で、昼間のことが頭から離れなかった。
 あの時はクロウが持っていたクッキーが甘い香りの元だったようだが、もし、今後同じような状況になったら。その時、自分は冷静に対応できるのだろうか。ちゃんと対処しなければいけないことは分かっているけれど――。


「考え事か?」


 不意に聞こえてきた声にリィンはまたも顔を上げた。そこには昼間と同じくクロウが立っていた。確かHRが終わった時点でさっさと教室を出て行ったと思ったのだが、忘れ物でもしたのだろうか。


「クロウ、帰ったんじゃなかったのか?」

「ちょっとな」


 言いながらクロウは隣の席に座った。その視線は真っ直ぐにリィンに向けられている。


「クロウ……?」

「余計な世話だとは思うが、お前、もう少し危機感持った方がいいと思うぜ」


 え、と声が零れる。言葉の意味がいまいち飲み込めなかった。
 いや、頭が理解をすることを拒んだのかもしれない。危機感という単語が昼間の出来事とリンクする。また、心臓が早くなっていくのをリィンは感じていた。

 まさか。やっぱり。
 でも、それじゃあクロウは?

 ギィ、と。微かに椅子が音を立てた。最悪の可能性を考えて反射的に体が距離を取ろうとする。
 だがその時、クロウの手がリィンの手に重なった。瞬間、どきっと心臓はひと際大きな音を立てた。


「落ち着け。俺は違う」


 分かるだろ、と優しい声が諭す。
 赤紫の瞳を見つめながらリィンはできるだけ冷静になるように努めた。

 ――確かに、特別何か感じるものはない。
 それを理解したリィンは目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。そうすることで心臓は徐々に落ち着きを取り戻していく。それからやっと、リィンは瞼を持ち上げた。


「すまない、もう大丈夫だ」


 リィンが言うとクロウもそっと手を離した。多分、違うことを直接分からせるためにリィンに触れたのだろう。少なくともクロウはアルファではない。


「お前、一応ベータってことにしてるんだろ? 誤魔化す方法を考えておかないといずれバレるぜ」

「……そうだな。薬を飲んでいれば大丈夫だと思い込んでいたのかもしれない」

「それである程度は抑えられるだろうが、ここは名門と呼ばれる場所だからな。分かるヤツには分かる」


 名門にはそれだけアルファも集まる。オメガであるリィンにとって、それはとても大きな問題だった。それでもこのトールズに進学することを決めたリィンは薬をきちんと飲み、いざという時のために休む言い訳は考えていた。だがもっと自衛が必要だったのだと今回のことで思い知った。
 つまり、昼間のあれはリィンのことに気がついたクロウが代わりに誤魔化してくれたのだろう。知らずのうちに助けてくれていた友にリィンは胸がいっぱいになった。


「本当にすまない」

「別に気にすることはねーよ。こういう時はお互い様だろ」


 さらっと言ってくれるクロウにありがとうとリィンは感謝の気持ちを伝えた。今後はもっと気をつけなければいけない。薬のことも医者に一度相談してみよう。
 そこまで考えたところでふと、リィンはあることに気がついた。


「クロウは、アルファじゃないんだよな?」


 オメガのフェロモンが分かるのはアルファだ。あまりにもフェロモンが強いとベータにも分かることがあるが、リィンの場合は薬を飲んでいるのだからある程度は抑えられているはずだ。昼間のみんなの反応を見た感じでもそこまで強いフェロモンが溢れていたとは思えない。
 だが、クロウはそんなリィンのフェロモンに気がついた。アルファでないことは感覚的に分かったけれど、それならどうしてクロウはリィンがオメガだと気がついたのか。
 リィンの質問にクロウはきょとんとした表情を浮かべた。それから彼はあっさりと言った。


「俺はお前と同じだぜ?」


 そうじゃなきゃ分からないだろ、と。当然のように言われたが、それは全く当然のことではない。


「え、でもオメガ同士は……」

「フェロモンを感じなくてもあの状況を見れば分かるだろ」


 アルファとベータが不思議そうにしている中で一人だけ反応が違っていた。甘い香りと聞いて最悪の可能性を考えるのはオメガだろうとクロウは話した。そう言われるとその通りだ。
 それでクロウはリィンがオメガだと気がついたのかと納得はしたが。


「……クロウもオメガだったんだな」


 ベータが大多数を占める世界でアルファとオメガの割合は少ない。その数少ないアルファがこの学院には集まっており、特に隠す必要のないアルファの存在は周りも大抵知っている。
 逆にオメガは第二の性を隠すことも多く、リィンも学院には本当のことを伝えているものの周りにはベータだと偽っていた。だから他にオメガがいたとしてもその人もリィンのように隠している可能性は高かったし、そもそもこの学院には自分の他にいない可能性もあった。でも、まさかこんな身近にオメガがいるなんて思いもしなかった。


「俺もお前がオメガだとは思わなかったぜ」

「そうか。意外だったけど、俺だけじゃなかったってことに少しだけ安心した」


 故郷のユミルにはアルファもいなかったが、オメガもリィンしかいなかった。割合的にあまりいないと分かっていても自分以外のオメガにはじめて出会って、どことなくほっとした。自分一人だけではなかったんだ、と。割合が少ないだけで当たり前のことだが、そのことを漸く実感したような気持ちだ。


「なら先輩の忠告は素直に聞いて、今日のところは真っ直ぐ寮に帰れ。いいな?」


 そう言って立ち上がったクロウは「ほら行くぞ」とリィンを振り返る。
 その気遣いに感謝しながら「今は先輩じゃないだろ?」といつものように返せば「そこはいいんだよ」と軽く流された。それから鞄を持ったリィンはクロウと一緒に教室を後にするのだった。





心臓がとくんと鳴った、その意味は――