小鳥の囀ずりを耳にしながらゆっくりと目を開ける。そこにあるのは見慣れた天井、ではあったが「お、起きたか」と声が聞こえてきたのは予想外だった。
驚きながらも視線をベッドの下へと向ければ、そこには紅い制服姿の先輩――今は向かいの部屋を使っているクラスメイトの姿があった。
「Trick or Trick. さあ、好きな方を選んで良いぜ?」
「…………突っ込みどころが多すぎるんだが、何でここにいるんだ」
まだ十月の初め。トリスタの木々もゆっくりと色付き始めた季節だ。ハロウィンにはひと月近く早い。そもそもハロウィンのお決まりと言えば“Trick or Treat”である。どちらも悪戯では選ぶも何もない。
何故いきなりハロウィンなのか。そもそもどうしてクロウがここにいるのか。少なくとも急ぎの用事ではなさそうだが状況はさっぱり飲み込めない。
「何でって、今日は自由行動日だろ。たまにはぱーっと遊びに行こうぜ」
要するに遊びの誘いということだろうか。確かに今日は自由行動日で窓の向こうは青く澄んだ空が広がっている。夏ほどの日差しもなく、出掛けるにはぴったりの天気といえるだろう。だが。
「せっかくだけど、トワ会長から――」
「あ、そうそう。トワから伝言を預かってんだよ」
依頼があるかもしれない、と言おうとしたリィンの言葉を遮ってクロウは口角を持ち上げた。
「今日は仕事も少ないからたまにはゆっくり遊んでこいってさ」
自由行動日といえば生徒会の仕事の手伝いをすることがリィンにとってはお決まりとなっていた。部活動にも所属していないからと引き受けたことではあったが、今では生徒会の手伝いにやりがいも感じている。
だが、いつも多くの依頼が集まる生徒会にも時々今回のように依頼が少ないタイミングがある。そういう時は依頼の確認に行った先でトワから今日は大丈夫だと言われるのだけれど、どうやら今日はそれより先にクロウが話を聞いていた――いや、もしかしたらクロウの方から聞きに行ったのかもしれない。
「つーわけだから、さっさと着替えて出掛けるとしようぜ」
善は急げだと話すクロウはただ遊びに行きたいだけなのか、それともこれも彼なりの気遣いなのか。どちらにしても今は同輩である先輩がリィンを気に掛けてくれたことに変わりはないのだろう。
生徒会の依頼があればそれを手伝おうと思っていたけれど、それがないとなると他に予定もない。つまり特別断る理由のないリィンはそのまま「出掛けるって言ってもどこに行くんだ?」とクロウの提案に乗ることにした。尋ねるとそうだなとクロウが呟く。
「何でも今日はケルディックで収穫祭が開かれるらしいぜ。あとは帝都にも新しいカフェがオープンしたらしいな」
少し早いかもしれないが紅葉を見に行くのも有りか、とクロウの口からは次々と候補が挙げられていく。考える素振りを見せていたが、始めから近隣の情報を仕入れていたのだろう。こういうところは抜かりがないのだ。
へえと相槌を打ちながら話を聞いていると最後に「んで、お前の行きたい場所は?」と質問される。幾つも候補を挙げられていた時点で察してはいたが、行き先は初めからリィンに決めさせるつもりだったのだろう。
「クロウが気になるのはどこなんだ?」
「俺としてはレースで一発当てたかったとこなんだけどな」
「まだ馬券は買えないだろ」
買えたとしても、とその先を言うのは止めておいた。本人曰く夏至祭ではたまたま読みが外れたらしい。傍から見ていると毎度外れているわけではないにしても勝率は五割ほどに見えるのだが、トリスタの人達と競馬の予想をしている彼を見ているとそこにはそこの面白さがあるのかもしれない。
競馬に詳しくないリィンにはその辺りの面白さは分からないけれど、どちらにしても二人で行くに相応しくないその場所を挙げたのはお前の好きな場所を選べという意味でもあるのだろう。リィンとしては出掛けるにしても特に見たいものはないからクロウに希望があるならそちらに合わせようと思ったのだが、どうやらそうはさせてくれないらしい。
「……そういえば、最初のあれも何だったんだ」
どこにしようかと考えている最中、リィンは聞きそびれていた疑問の一つを思い出して尋ねる。
最初のあれ、というのは勿論クロウが初めに投げ掛けてきたあの台詞だ。まだそのイベントには随分と早いのだが「ハロウィンだろ」とクロウは当然のように答えた。けれど、大多数の人間は今日の時点でハロウィンが出てくるのはおかしいと思うだろう。言うまでもなくリィンもその内の一人だ。
「まだハロウィンには早すぎるし、そもそも普通はお菓子か悪戯を選ぶものだろ」
「まあ細かいことは良いじゃねーか。一足早いハロウィンってのもなかなか乙だろ?」
どこがだと呆れるリィンに一ヶ月も早ければ菓子だって用意してないだろと自信有り気にクロウは言う。時折見せる子供っぽさは年上であることを疑いたくもなるが、いざという時はこの二年の差を痛感することもある。時にその差に助けられ、また時には――。
人生をリィンより二年多く経験している先輩。もっと年配の方々からすれば自分達は大差ないのだろう。
けれどこの二年、クロウとの二つの差は思っていた以上に大きいのだと知ったのは、もうずっと昔だったような気がするとリィンは目を伏せた。
(結局、辿り着くところは同じなんだろうか)
どんなに足掻いても結末は変わらない。世界はそうやって出来ている。小さな変化は所詮世界にとっては殆ど何ににもならない微々たるもの。それでも、足掻くことを止められないのはただのエゴだろうか。
自由行動日をどうやって過ごすか。生徒会の手伝い、部活動、勉強、買い物。何をしたところでたったそれだけの違いが世界に与える影響はないに等しい。けれど、このタイミングで遊びに誘うのはこちらのためか、または何かしらの思惑があるのか。疑うこと自体が本来ならば間違いなのだろうと思いながらリィンは溜め息を吐いた。
「それにしたって最初からお菓子がないと決めつけるのはどうかと思うんだが」
「へえ? じゃあ持ってんのか?」
どうせ持ってないんだろという視線を受けたリィンは机の引き出しを開けて小さな包みを一つ、取り出してクロウに差し出した。
「これで悪戯はなしだ」
「ちっ、持ってたか。けど残念だったな。悪戯と悪戯の二択だからこいつじゃ意味ねーぜ?」
「……まだ言うのか。大体、お菓子をくれなければ悪戯をするという意味の言葉をそう言い換えたところで意味なんてないだろ」
そっくりそのまま意味を入れ換えるのならば、こちらが悪戯をしなければ悪戯をされることもない。そもそもクロウがいきなり言い出したひと月も早いハロウィンに付き合う理由もないわけだが、こうでもしなければハロウィンがやってこないのだとすればそれも有りかとリィンは心の中で思った。
――何せハロウィン当日、十月の終わりにはもうこの穏やかな日常は崩れてしまっている。一週間ほど前に起こる、帝国の内乱によって。
「そこは悪戯されるかと悪戯されるかでお前が選んでくれれば万事解決だろ」
「何も解決してないし、そういうクロウはお菓子を持っているのか?」
だが、そのことを知っている人はこのトリスタには殆どいない。トリスタどころか帝国に住む大半の人々が知らない。近々そうなるだろうと予想していた者達は確かにいるのだろうが、貴族派と革新派の対立がそこまでいっていると気付いていた人は少ないだろう。そして目の前の友人はそれを知っている側の人間だ。
そう思いながらも表面上はリィンも何も知らないことになっている。だからひと月早いハロウィンを本日決行すると言い出したクラスメイトにそれなら自分にもあの台詞を言う権利があると口を開いた。
「Trick or Treat」
お菓子か悪戯か。正しい文句でリィンは問い掛ける。
するとクロウは目をぱちくりさせ、それからククッと喉を鳴らした。
「飴くらいなら俺も持ってるが、悪戯を選んだら優等生のリィン君は何をするつもりだ?」
悪戯と悪戯の選択を迫った友人はお菓子と悪戯で後者を選ぶと言う。それもクロウらしくはあるが、優等生ではないと突っ込むのは面倒でリィンそのまま質問に答えた。
お菓子と悪戯の二択で悪戯を取るというのなら。それがたとえ自分らしくない答えだとしても、所詮その程度の歪みなど世界は物ともしないのだから。いっそのこと。
「クロウをここから出さない」
そうすればいつまでもここに、なんてことは有り得ない。そもそもここに閉じ込めることだって出来やしないのだ。閉じ込めるつもりだって本当にあるわけじゃない。
しかし、そのリィンの回答にクロウは珍しく驚きを隠さなかった。こういうことを言っても普段ならすぐに茶化してきそうなものだが。
「…………それはまた、随分と物騒だな」
やや遅れてからそう言ったクロウの瞳は明らかに普段とは違う色を浮かべていた。どこか冷めた印象のあるその瞳をリィンは見たことがある。
最初は全く気付くことも出来なかったけれど、いつも明るいこの友人にも背負っているものがあったのだと今のリィンは知っていた。知っているのに知らない振りをしなければならないというのは不思議な話だが、思い切って持ち掛けてみた時も一瞬だけ驚いた後は軽くかわされてしまったのだから仕方がない。結局、そういうものなのだ。
「悪戯を選んだのはクロウだろ」
「いやー流石にそこまで愛されているとは知らなかったな」
「知っていたら聞き入れてくれるのか」
「何だ? 聞き入れて欲しいのか?」
ここで肯定しても否定しても意味なんてない。薄く開きかけた唇を結んだリィンは考える。あの結末を望まない自分がこの世界で出来ることは何なのかと。どうすれば、彼を動かすことが出来るのか。彼を動かしたところで世界も動かさなければ結局は無意味だけれど。
「……俺は、こうやってクロウと。みんなと過ごしていたいよ」
世界が変わらないというのなら、何故この世界は繰り返しているのか。その謎の答えを知る術はない。物知りなこの友人ですら世界の根源たる部分については何も知り得ないだろう。
でも、こうして繰り返すことに意味があるのなら。そこには違った形の未来があるのだと信じたい。何度伸ばしてもこの手が届かないなんて、そんな現実はもう――。
「…………なら、海でも見に行ってみるか」
唐突に投げ掛けられた言葉に顔を上げる。すると、真っ直ぐ見つめる赤紫とぶつかった。
また急だなと言ったら「ここからだとなかなか行けないだろ」と意外とまともな返答が来る。それにしたってこんないきなり行くような距離ではないが、今すぐに鉄道に乗ればなんとか戻って来れないこともないのだろうか。本当にただ海を見て戻って来るだけの旅行になりそうなものだが、突然の提案はハロウィンのことにしても同じだ。今更驚くことでもない、と思った。今、この時までは。
「お前がどうしても、俺との未来を見たいって言うなら」
その根源を断たなければ意味はない。
クロウの言葉にリィンは固まる。何故、クロウがそれを言うのか。丸くなる青紫をじっと眺めていたクロウは「どうする」と静かな声で問う。浅く息を吸って、胸が詰まる。この僅かな時間で口の中が乾き、次の言葉が見つからない。でも何か言わなければ、とリィンは自分を映すその瞳を見た。
「…………良い、のか」
「さあ、どうだろうな」
自分で言ったことなのにクロウは曖昧な返事をする。けれどその目は冗談を言っている風ではなかった。どこか諦めにも似た目をしながら微かに浮かべた笑みは自嘲にも感じられるような苦笑いだった。
「だが、お前はそれを望んでるんだろ?」
それなら、そういう選択も有りかもしれない。そう話すクロウは本当にこの帝国の裏事情を知っているだけなのか。そうではないことをリィンは本能的に理解していた。
思えば、どうして自分だけが繰り返される世界にいるのかずっと不思議だった。他は誰も何も知らない、覚えていない。当たり前といえば当たり前なのかもしれないけれど、リィンにだけ以前の記憶があるのには何かしらの理由があったはずだ。それがもし、目の前の友人と同じく《起動者》であることが鍵だったのだとすれば。
「……クロウは、それで良いのか」
相手がクロウなら、悔しいけれど何も変わらない日常を演じていたと言われても納得が出来ないわけじゃない。でも、そうだとしたら繰り返していたのは世界の意思ではなく……。
いや、クロウがリィンの手を取ったところで結末は変わらなかったのだからそうとも言い切れないが、だとすればどうするつもりなのか。何にしてもクロウは自分の目的を捨ててしまっても良いのか。再度問い掛けたリィンにクロウは小さく笑った。
「何度も言わせんな。お前こそ、迷ってんのか?」
「そうじゃない、けど」
「なら俺も手伝ってやるよ。それが正しいのか、それでも世界が同じものを求めるのかまでは俺にも分からないけどな」
正解なんてどうせ誰にも分からないのだと、クロウは言った。それを知っているのは空の女神だけ。結末なんて保証は出来ないけれどそれでも良いというのならば。
「……ありがとう、クロウ」
「何でそこで礼を言うんだよ。まだ何も始まってないし、何も終わってねぇだろ」
確かにその通りだが、帝国の内戦が起こるよりも前にクロウがリィンの手を取ってくれたことは今まで一度だってなかった。あの内戦はどうやっても避けられなかったのだ。もし、この内戦を避けることが出来たのなら世界は――未来は変わるのだろうか。分からなくても試す価値はある。
ぽん、と優しく頭に手が乗せられる。あたたかい。クロウのその手がリィンは好きだった。手放したくなかった大切なものは、まだここに在る。
「……俺もこの世界にはうんざりしてたし、もう一つの大切なモンを選ぶのも悪くないかもしれないって思っただけの話だ」
大切なもの。
クロウの言うそれは故郷のジュライや大好きだった祖父のことを言っているのだろう。いつか白銀の船上で聞いた話を思い出しながらそれならもう一つは何だろうと考えるリィンにクロウは溜め息を吐いた。
「お前、さっき自分で言ったことを忘れたわけじゃないよな?」
さっき? と疑問で返してしまったのはわざとではなく本当にすぐには思い当たらなかったからだ。だがそんなリィンを見たクロウは何やら面白そうに口角を持ち上げた。
「愛してくれてるんだろ?」
その言葉でリィンはクロウの言おうとしたことを全て理解した。
「いや、あれは……!」
「言葉の綾、ってか? 残念だな。俺はこんなにリィン君のことを愛してるのに」
深い意味があったわけではないと否定しようとしたリィンはクロウの台詞に「え」と気が付けば間抜けな声を零していた。
いつもの冗談、からかっているだけ。その考えを中断させたのはそれからすぐのことだった。クロウの瞳はじっと、リィンを見つめていた。そして彼は落ち着いた声で言う。
「あいつ……オルディーネなら話せばきっと分かってくれる。騎神が起動しなければかつての獅子戦役を再現することは出来ない」
あの内戦の裏で行われていた《蒼の騎神》と《灰の騎神》の衝突による獅子戦役の再現。それには二つの騎神と二人の起動者の存在が必要不可欠だ。リィンがクロウとの未来を望むのであれば、残された方法は何度も自分達に力を貸してくれた伝説の騎士をこのまま目覚めさせない他ない。つまり。
「お前がいればきっと、オルディスの地下遺跡をもう一度封印することも出来るはずだ」
そこに根拠は多分ないのだろう。だからクロウも言い切らなかった。でも、選ぶならやるしかない。そしてクロウはもう決めたのだろう。
「どうだ。今から俺と一緒に、ちょっくら海を見に行ってみるか?」
騎神がいなくなったとしても貴族派と革新派の確執がなくなるわけではない。どの道内戦は遠くない未来に起こるのだろう。これまで何度も共に戦ってきた大切な仲間の一人と出会うこともなくなる。クロウにとっては、ここまで共に歩んできたはずの相棒を失うことにもなる。
それでも、内戦の結末が変われば大切な友を失うことはなくなる。目の前の友との未来を掴むことが出来るかもしれないのだ。全てを手に入れることが不可能であることはとっくに理解していた。
「行こう、クロウ」
海を見に、《蒼の騎神》のいる海港都市へ。
決して迷いがないとはいえない。迷いならいつだってあった。迷いながらも自分の進むべき道を探して、大切な友との未来を求めて歩き続けた。この先にあるのは光か、それとも闇か。たとえ先にあるのが闇だとしても立ち止まることだけはしてはいけないのだと、教えたのは。
リィンが言うと瞳を閉じて「そうだな」とクロウはゆっくり立ち上がった。
「行くか」
再び現れた赤紫は柔らかな色でリィンを映した。瞬間、とくんと鳴った心臓にあれ? とリィンは僅かな疑問を胸に抱く。
「…………ま、今はそれでも良いか」
「……何の話だ?」
「こっちの話」
早くしないと戻って来れなくなるぞと急かされてリィンも漸くベッドから降りる。その様子に「じゃあ後でな」と言ってクロウは自分も制服から着替えるために自室へと戻った。まあ最悪オルディーネに道を繋げて貰っても良いが、というのは彼の騎神に申し訳ないから早いところ準備を済ませることにしよう。
それにしても。何度も同じ道を通ってきたけれど、クロウがこんな風に話してくれたのは初めてだ。多分クロウもリィンと同じだけこの道を通ったのだろうが、そのクロウがこれまで選んでこなかったもう一つの大切な物とは。
(――聞いても教えてはくれないんだろうけど)
大切な友。大事な仲間。それだけではないと思う。でも、だったら何かと言われたら返答に困るかもしれない。
ただ、特別な人であることは間違いない。今は同輩である先輩は同じ起動者でもあるがそれも違う。好きなのは確かだ。だからあの時、ああ答えた。
「好き……?」
その言葉に、何かが引っ掛かった気がした。だけど今は時間がないことを思い出してリィンは一旦それらの思考を頭の片隅に追いやることにした。
今度こそ。そう思いながら自室を出ると見慣れた赤紫が優しく細められた。それを見たらまた、何かが動いたような気がした。
明日を求めて
二人でなら届かなかった未来を掴めるはず
そう信じて、俺達は進む