視界に映り込んだカレンダーを見てふと気がつく。そういえばと思いながら視線を動かし、口を開いたのは間もなくのことだ。


「そういや今日はキスの日らしいぜ」


 今し方思い出したことを言葉にすると視線の先でコーヒーを入れていたトワの動きが一瞬止まった。
 程なくして、黄緑色の瞳がクロウを映す。その頬はほんのりと朱色に染まっていた。可愛いな、と思ったのはごく自然なことだろう。


「き、急にどうしたの?」

「ただの世間話だって」

「ただの世間話って……」


 ひとつの知識として頭に入っていただけで思い出したのは今さっきだ。最初からそのつもりで訪ねてきたわけではない。
 それでも、ただの世間話で片づけられないのは内容が内容だったせいだろう。クロウも本当にただの世間話として話題を振ったわけではないし、トワもそのことに気づいているからこそ視線を彷徨わせているのだろう。意識をしてくれているのは間違いない。


「…………クロウ君は」


 ここからどうしたものかと考えていたところで小さな声が耳に届く。


「やっぱり、そういうことしたい……って、思う?」


 耳まで赤く染めながらトワが言う。
 そういうこと、とはもちろんキスのことだろう。


「まあ、思わないわけじゃねぇな」

「そっか」

「だが俺たちは俺たちのペースでいいとも思ってる」


 えっ、と声を漏らしてトワが顔を上げる。それならどういうことなのかと言いたげな視線にクロウはふっと目を細めた。


「好きだからな」


 だからこそそういうことをしたいとも思う。でも、今こうして一緒に過ごす穏やかな時間も幸せで特別だと思っている。
 無理して先に進む必要はないけれど、その先を望んでいないわけではない。
 それが今のクロウの気持ちだった。そして多分、その気持ちはトワも同じだろう。お互いはっきりと言葉にしたことはないものの一緒にいればなんとなく分かる。けれど。


「お前は?」


 あえて尋ねたのは、言葉にしないと伝わらないこともあるから。偶然ではあったがきっかけには丁度いい話題だと思ったのだ。
 ここまでくればトワもクロウの意図には気づいただろう。二人分のコーヒーを持って戻ってきた彼女はコトリとカップをテーブルに置いて腰を下ろした。


「わたしもクロウ君が好きだよ」


 柔らかな声でトワは告げる。そのあたたかさは心の奥まで伝わる。


「そういうことも考えたことがないわけじゃないけど……正直なところそこまで気にしてもいない、かな」

「そうか」

「でも」


 茶色の髪が揺れる。どことなく幼さも残っているけれど出会った頃よりも大人びた表情をしたトワは真っ直ぐにクロウを見つめた。


「相手はクロウ君がいい」


 予想をしていなかった言葉にぱちりと目を瞬かせる。けれどすぐに笑みが零れた。


「俺も、はじめてはお前がいい」


 近くにあった彼女の手に自分の手を重ねる。あたたかいな、と思うのは何度目だろう。このあたたかさに何度も助けられてきた。
 もう二度と離すつもりもない――なんて言ったら、こっちの台詞だと言われるだろうか。だけどそれは紛れもない本心だ。


「……なあ、トワ」


 そういうつもりで話したわけではないけれど、全くそういう気がなかったかと言えばそれも嘘になる。想いがあふれそうになった時。


「いいよ」


 柔らかな笑みを浮かべてトワが受け止める。まだ何も言っていないけれど言葉は不要だった。その表情を、瞳を見れば伝わってくる。
 多分、自分も同じなんだろうなと思いながら目を閉じる。
 程なくして唇がそっと重なった。触れ合ったその場所から微かに熱が混ざる。


「……あったかいな」


 ゆっくりと瞼を持ち上げて視線が交わった刹那、自然と零れ落ちた言葉にトワは微笑む。


「おかえり、クロウ君」


 彼女が口にした何てことのない一言が胸の内に広がる。そんなつもりでもなかったというのに全く敵わないなと思う。


「ただいま」


 たったそれだけのやりとりにあたたかさを感じるのは、何てことないようなそれが実は特別であると知っているから。


「そういえば今度はどこに行くの?」

「レミフェリアだな。今回はあまり時間はかからないと思うが」

「そうなんだ。クロウ君なら大丈夫だと思うけど、無理はしないでね」

「お前こそ仕事抱え込みすぎんなよ」


 分かっていると答えるトワはきっと様々な仕事を引き受けるのだろうが、学生時代からそうだったように心配せずとも上手くやるのだろう。彼女の周りには頼りになる仲間がたくさんいる。


「近くにきたらまた連絡してね」


 待ってるからと笑うトワに「おう」と頷く。
 いつもならこの手の話はここで終わるのだが、ふっと口の端を持ち上げたクロウは徐に口を開いた。


「今度戻ってきた時はデートしようぜ」


 予想外の発言だったのだろう。驚きの声を上げたトワの頬にまた朱が差す。
 たまにはいいだろ? と問いかけたクロウにトワは少しだけ考える素振りを見せた。けれどすぐにクロウへと視線を戻すと首を縦に振った。


「うん、楽しみにしてる」


 そう答えたトワの表情につられるようにクロウの頬も緩む。
 忘れんなよと言えば、忘れないよと触れ合った手を握り返される。そうしてまた目が合って、どちらともなく笑い合った。







(君の隣はまるで日だまりのよう)