ああ、これは駄目だな――それを見た瞬間、そう思った。
 ちらっと視線を向ければ絶句に染まった顔は青白い。だけど無理もない。どちらかが死なないと出られない部屋、なんてそもそもどういう原理なのか。


「リィン」


 びくっと肩が揺れる。それからゆっくりと、青紫に瞳がこちらを映した。その瞳に浮かぶ色に、やっぱり無理だなと感じた。

 どちらかといえば、冷静にそう考えているこちらの方がおかしいのだろう。しかし、ここまでぶっ飛んでいると逆に落ち着いてしまう。
 目が覚めたらこの場所にいたことも、別々の場所にいた自分たちが同じ部屋にいることも。ここに出入り口がないことも、現時点で提示されている脱出方法も、何もかもがおかしい。


(さて、どうしたものかな……)


 いつもの武器もなければARCUSもない。唯一あるのは一本のナイフと例の紙だ。要するにそういうことなのだが、自分たちをこの空間に呼び寄せた第三者がいるのなら相当趣味が悪い。


(正直、結論は出ているわけだが)


 多分、いや絶対に納得しないだろう。それでも他に方法がないのなら、というのも厳しそうだ。説得できる気もしない。
 最悪の場合は、仕方ないと思っている。
 ただこちらにそれをする理由はないから、共にここで終わることになるのだろうか。それもそれで、と考えている時点で今更だ。


(こいつは今、何考えてるんだろうな)


 俯いてしまったから表情は見えない。少なくとも、自分とは全く別のことを考えているのではないだろうか。この部屋を出るために手をかける、なんて考えているとは思えない。

 ふう、と静かに息を吐く。
 これもこれで成功する気はしない。けれど、試す価値くらいはあるか。


「クロウ……?」


 こんな状況でも気配には敏感らしい。
 それはもう条件反射だったのだろう。カラン、とナイフが床を滑った。


「そういや、八葉一刀流には無手の型もあったな」


 ふと思い出して呟く。確か剣を失くした時に使う型だったか。リィンにそんな意図はなく、ただ反射的に止めただけだろうが。


「何、を……」


 困惑が伝わってくる。わざわざ説明するまでもないだろうと思うけれど、きっと理解したくないんだろう。
 リィンの気持ちも分かる。分かっても、それをよしとしてやれる状況ではないのが現実というだけの話だ。こっちだって本当にそれを望んでいるわけでもない。ただ。


「言った方がいいか?」

「……っ」


 リィンが息を飲む。やはり、こちらの意図は伝わったらしい。納得はしていないだろうけれど、この状況で納得できることなんてあるだろうか。


「…………それなら」

「駄目だ」

「……まだ、何も言ってないだろ」

「聞かなくても分かる。お前、自分の立場を考えろよ」

「それを言うならクロウだって……!」

「リィン」


 その言葉を遮るように名前を呼ぶ。言葉に詰まったリィンはそっと視線を落とす。
 客観的な意見を言っているはずだが、納得してもらえるとは思っていなかった。当然、逆はこっちが認めない。それなら相手を、というのもこいつにはまず無理だ。つまり、堂々巡りだ。


「……クロウは、分かってない」


 ぽつり、リィンが呟く。
 その声は、微かに震えている。


「俺が、俺たちが。どれだけクロウのこと――」

「それはそっくりそのまま、お前に言えることだ。つーか、お前の方が」

「そもそも、比べることが間違ってる!」


 それについてはリィンの言うとおりだ。だが、それを比べなければいけない状況だろう。この状況を打破するにはどちらかを選ばなければならない。もしくは。


「…………なら、諦めるか?」


 え、と小さく零した唇を塞ぐ。掴んだ手がびくっと反応したのは最初だけだった。
 程なくしてそっと瞼を持ち上げる。僅かに呼吸が乱れたのは、息苦しさのせいだろう。そこに浮かんでいたのもまた、困惑だ。


「ここでこのまま、二人だけで生きるか?」


 実際、水や食料がないのだ。脱出を諦めるのであればそう長くは持たない。
 今ある選択肢としてはどちらか一人を選ぶか、どちらも選ばないか。
 こちらとしては、リィン自身を選ばせるわけにはいかない。それなら後者の方がマシ――というより後者でも、と思ってしまう時点で歪んでいる。


「……やっぱり、クロウは分かってない」


 そう答えたリィンが手の拘束から逃れたかと思うと、その手をこちらに伸ばした。唇が触れたのは間もなくのことだった。


「クロウがいてくれるなら、このままでもいい」


 想像していなかった答えに驚く。
 ――いや、ある意味では納得の答えとも言えるのだろうか。気づいていなかった、といえば嘘になる。気づかない振りはしていたけれど。


「……少しは大人になったと思っていたんだが」

「それが大人になるってことなら、俺はずっと子供のままだろうな」

「自分で言うのかよ」

「何度でも言うよ。俺には、クロウが必要だから」


 これは勝てないな、と思う。もっとも、そういう意味で勝ったことなんて今まで一度もない。何せ、先に落ちたのはこちらだ。

 ふと、何かの音が耳に届く。


「今、何か……」


 同じタイミングでリィンも気がついたらしい。
 例の紙が突然、視界の端で燃えたのはそれからすぐのことだった。


「出るぞ」

「え、出るって……」


 どこから、という疑問には答えずにその手を引く。根拠はない。ただなんとなく、今なら出られると思った。
 そこに踏み込んだ瞬間、覚えのある感覚がした。そして、どこか見覚えのある景色が目の前に広がった。


「……帝国北西部、精霊信仰に縁のある場所か」


 道理で似たような感覚だったのかと納得する。それとこれとは全くの無関係だろうが、何かしらの力が働いたのは間違いない。
 何が条件になったのか。そもそもあの空間は何だったのか。気になることは山ほどあるが、その答えを知る術はない。


「……戻ったのか?」

「みたいだな。元の場所にとはいかなかったみたいだが、まあいいだろ」


 どうせ考えたところで無駄なのだ。はあ、と溜め息とともにそれらを吐き出す。
 とりあえず、街へ移動する方がいいだろう。自分たちの感覚ではそれほど時間は流れていないが、情報収集をするにしても何をするにしてもここにいては何も始まらない。


「一先ず移動するか。ここからなら――」

「クロウ」


 呼ばれて視線を向ける。
 同時に、分かってしまった。本当はもっと前から分かっていた、それに。

 迷ったのは、ほんの僅かな時間だった。
 そっと頬に触れると、青紫の瞳が瞼の裏に消えた。


「……好きだ」


 熱が離れたところで静かに告げる。
 その言葉に、リィンは柔らかな笑みを浮かべた。


「ったく、こんなつもりじゃなかったのに」

「俺は嬉しいよ」

「これじゃあ格好がつかないだろ」

「その気持ちも分かるけど、俺はクロウがいればそれでいい」


 少し前にも聞いたようなことを言われる。真っ直ぐなその想いに今度は別の意味で小さく息を吐く。やっぱり、こいつには一生勝てないかもしれない。


「お前、急ぎの用事は?」

「急ぎってほどのことはないと思う」

「なら行くぞ」


 どこにとは言わなかったが、こちらが歩き出すとリィンも隣に並ぶ。
 ここから一番近い街と、近くにある大きな都市。どちらに行くか迷っていたけれど、吹っ切れた。街に着いたら改めて話をしよう。

 緩やかな風に乗って潮の香りが運ばれてくる。
 それに導かれるように懐かしい場所へと足を向けた。







fin