家に帰って鞄を置き、制服から着替えてリビングに戻るとそこにはクロウの姿があった。ついさっきまではリビングにいなかったはずだが、気配はあったからどこか別の部屋にいたのだろう。リィンが帰って来たことに気が付いてここに来たのかもしれない。


「おかえり」

「ああ、ただいま」


 改めて挨拶をしたリィンはとりあえず洗い物を片付けようとしたのだが、それよりも先にクロウに手を掴まれた。そのため、踏み出そうとした足はそのまま止まってしまった。


「今日は人間の世界では何をしてもいい日なんだろ?」


 唐突に言われてリィンの口からは「え」と間抜けな声が出た。一体どこからそんな話を聞いたのか。当たり前だが今日はそのような日ではない。そもそも何をしてもいい日なんて存在していない。
 しかし、じっと赤紫の瞳は座ったままリィンを見上げている。何をしてもいい日、つまりお前に何をしてもいいんだよなと。


「……待ってくれ。どこで聞いたかは知らないが、今日はそんな日じゃ――」

「今日は悪戯してもいい日だって聞いたけど」


 悪戯、と言われてリィンは漸くこの白猫が言いたいことを理解した。
 今日は十月三十一日、ハロウィンだ。大学でも昼休みに友人たちと何気なく今日はハロウィンだという話をした。街でもあちこちでオレンジや黒を基調としたコーナーが設けられ、きっと外ではこのイベントを楽しむ人たちで賑わっていることだろう。要するに、この白猫が言いたいのは。


「それは何をしていい日じゃなくてハロウィンっていうイベントの日だ」


 何をどう解釈してハロウィンが誤解されたのか。考えられるとすれば、お菓子か悪戯かというあの決まり文句の最後の部分だけをどこかしらで聞いたとかだろうか。
 仮にそうだとしても何故そうもピンポイントで誤解をしてしまったのか。それともわざとなのか――という可能性は「ハロウィン?」と聞き返された時点でないと見ていいだろうか。


「小さい子がお菓子を貰う日だ」

「そんでもって悪戯をする日か」

「……とりあえず悪戯からは離れて欲しいんだが」


 お菓子にするか悪戯にするかといった意味の言葉を言いながら大人にお菓子を貰うイベントだとリィンは誤解をしている白猫に説明する。だから断じて悪戯をする日ではないと。
 それを聞いたクロウは「へえ」と相槌を打つ。これで分かってくれたかと思ったのも束の間、じゃあ悪戯をしてもいいんだなと切り返すのだからリィンは思わず溜め息を吐いてしまった。


「だから悪戯をする日じゃないって言ってるだろ」

「お菓子か悪戯なら悪戯でいいだろ」


 いや、そういうことじゃなくてとリィンは更に説明を加える。お菓子にするか悪戯にするかという質問はあくまでもお菓子を貰うための合言葉なのだと。決して悪戯をするというための免罪符ではない。
 そう説明しているのだが、どうにも伝わっている気がしないのは気のせいではないのだろう。


「とにかく、お菓子が欲しいならこれをあげるから」


 そう言ってリィンがポケットから取り出したのはハロウィンだからと貰った飴の一つだ。ほぼ間違いなくクロウは飴が欲しいわけではないだろうけれど、洗い物を済ませたいリィンはこれでこの話を終わらせようとした。
 ――が、やはりクロウは飴玉では納得してくれなかったらしい。リィンが渡したそれを受け取ってはくれたものの相変わらず掴んだ手はそのまま。暫く飴を見ていた瞳もすぐに青紫に戻った。


「俺はこんなモンじゃなくてお前がいいんだよ」


 はっきりとそう言い切る白猫はじっとリィンを見つめた。それからくい、と掴んでいたその手を一際強く引いた。そのせいでバランスを崩したリィンの唇を何かが掠める。


「お菓子がないなら悪戯してもいいんだよな?」


 驚くリィンを余所にクロウは続ける。結局、今日がハロウィンであるかどうかはクロウにとって大した意味はないのだろう。この白猫が言いたいのはただ一つ、リィンに悪戯がしたいだけ。
 倒れ込んだ体を抱き留めたクロウはそのまま目の前にあったリィンの首元に舌を這わす。ぺろ、とざらついた舌に舐められてリィンは僅かに肩を揺らした。


「ク、クロウ。待ってって――」

「待てない。つーか待ってもどうせ悪戯は違うとか言うんだろ」


 これまでの発言からクロウがそのように言えば「それは……」とリィンは返す言葉に詰まった。また他人の臭いをさせてるし、と呟いたのはどうやら本人には届かなかったらしい。
 だが「本当に少しだけ待ってくれ」と言われてクロウは渋々ではあるものの一度リィンを見た。クロウが話を聞く気になってくれたことを確認したリィンは小さく息を吐く。


「分かった。洗い物は五分もあれば終わるからちょっとだけ待っていてくれないか?」


 貰い物ばかりで悪いけれど、と言いながらリィンは先程の飴以外にもクッキーなどのお菓子を幾つか取り出してテーブルの上に並べた。
 これでも食べて待っていてくれということだろうか。次々と並べられるお菓子へと視線を落としたクロウは、いくらお菓子が貰えるイベントといっても多いだろうと内心で呟く。それからぽつり、思わず零した。


「道理で他人の臭いがするわけだよな……」

「え?」

「わーったよ。待っててやるから早く終わらせろよ」


 どこか怒っているようにも聞こえるそれに「クロウ?」と疑問を投げ掛けたところで「何だよ、今でいいのか?」と聞き返されるだけ。クロウのことは気になったけれど、教えてくれそうにない様子に仕方なく早いところ洗い物を済ませることにしたリィンは弁当箱を片手にキッチンへと向かった。

 そんなリィンにクロウは小さく溜め息を吐く。そしてどこまでもお人好しだな、と愛しい黒髪を見つめながら思う。


(本当に欲しいって、言ってくれたら良いのにな……)


 なんて流石に我儘か、と思ったクロウはそれらの思考を頭の隅に追いやる。五分待てば好きにしていいというのなら五分くらい待つとしよう。
 リィンが聞いたなら好きにしていいとまでは言っていないと言われそうではあるが、何をしようかと頭を切り替えたクロウは一人この後のことを考え始めるのだった。







(ではなくハロウィンという日らしいが)
(優しいお前はきっと付き合ってくれるんだろう)