「クロウ」


 後ろから掛けられた声に足を止める。聞き馴染みのあるその声にこっちの名前を呼ばれるのはいつ振りだろう。といっても、実際は言うほど久し振りでもないのかもしれない。
 立ち止まり、振り向くと友人は真剣な顔でこちらを見つめていた。


「俺に何か用か」

「一応、釘を刺しておこうと思ってね」


 抑揚のない声で友が言う。わざわざ考えなくても友が口にする言葉は想像に容易い。何せ、クロウ自身も似たようなことをしてきた。
 他の友人たちにはどうこう言う資格もあるだろうが、自分にその資格がないことも分かっているし、だからこそその点をとやかく言うつもりはない。仲間を裏切ったのはどちらも同じだ。裏切ったのではなく、最初からそのつもりだっただけの話だ。それこそ、お互いに。


「聞くだけなら聞くぜ」

「それは聞かないと言っているようなものじゃないか?」

「好きに受け取ればいい」


 お互い、たとえ表面上の関係だとしても浅い付き合いをしてきたわけでもない。それは三年前の特別実習を通して証明されていることだ。最初こそ失敗ばかりだった戦術リンクが成功したことこそが全てである。
 もっともリンクブレイクを多発させていたのはクロウとアンゼリカだったが、テスト段階のARCUSは今ほどの性能を有してはいなかった。いずれはどんな状況下でも互いの行動を把握して連携できる戦術オーブメントとして活用することを目的としていたものの最初は個人的な適性の差が大きかったのだ。もちろん、戦術リンクの精度にしてもテスト用のARCUSは今と大分違っていた。初めのうちはそれで何度も衝突しかけた。


「それで、お前は俺に何を言うつもりでこんなとこで待ってたんだ」


 たかが三年ほど前の話なのに今となっては懐かしいものだな、と思いながらクロウは話の先を促す。生憎、昔話に花を咲かせるような時間はない。それも多分お互い様だろう。
 そしてクロウがここを通ることを分かっていたから、ジョルジュはここで待っていたのだろう。待っていたのは、用があるのはどちらなのか――なんて考えるだけ無意味だなと琥珀を見据える。


「……何も言わないんだな」

「俺は言わねーよ。あいつらには色々言われるだろうが」

「アンのことなら君も知っているだろ」

「ああ。お前がここで俺を待っていた理由と同じくらいにはな」


 嘘や偽りだけのはずだった学院生活。それがどうしてこんなことになったのかは考えるだけ無駄だ。もはやそれは理屈ではない。


「……全く、やり辛いんだかやりやすいんだか分からないな」


 それはおそらく記憶の話をしているのだろう。記憶を封じられていた時には分からなかったことも今となっては色々と納得した。ジークフリード、と偽りの名を呼びながらも時折もう一つの名を口にしようとしたこともあった友が見せた表情の意味も今なら分かる。
 そして幾らか、それについては身に覚えのある話でもあった。いや、幾らか程度のものではないからこそクロウは今ここにいるのだろう。


「くれぐれも妙な気は起こさないでくれよ、クロウ」


 それは妙な気を起こして欲しいのか、欲しくないのか。どっちなんだなんて聞くつもりはないけれど。


「俺は今も昔も自分の目的のためにしか動くつもりはないぜ」


 何年もずっと、そうやって生きてきた。今更生き方なんて変えられない。変えるつもりもない。たとえその先にあるのがどんなに深い闇だとしてもこの道を歩くと決めた。祖父がいなくなった、あの日から。
 ……ただ、こんな自分にいつまでも手を伸ばそうとするヤツがいて。そいつが今、とんでもない闇の中に落ちてしまったのなら。

 閉じた瞼を持ち上げて、友をその瞳に映したクロウは口の端を軽く持ち上げる。間もなくして静かな空間に零れた溜め息はやや呆れを含んでいた。


「そういう奴だったね、君は」

「悪いな。だが話が早くて助かるぜ、ジョルジュ」


 手を振り、歩みを止めていた足を再び動かそうとした時のことだ。


「クロウ」


 再び名前を呼ばれたクロウは斜め後ろを振り返って先に口を開く。


「そうそう、あいつらに怒られる時は覚悟しとけよ? 容赦なく殴ってくるヤツが一人いるからな」


 全く手加減ってモンを知らねぇからな、いつかの出来事を思い出しながら話したクロウにジョルジュは「……肝に銘じておくよ」と困ったような笑みを浮かべた。



□ □ □



 人気のない通路を進み、辿り着いたその場所には見知った気配がある。
 見知った気配、ではあるが向こうはこちらのことを知らない。こっちのことどころか自分自身のことさえ今は覚えていないのだ。あんなにも大切にしていた仲間たちのことも一切、彼は覚えていない。

 小さく息を吸って、吐く。厳重に掛けられた部屋のロックはかなり複雑だったが、クロウは何とかそのロックを外すことに成功した。たくさんのフェイクを噛ませた先に隠されていた穴はおそらく意図的に仕組まれたものだ。仕組んだ人間はおおよそ見当がつく。
 多くの人間の思惑が入り混じった世界は一体どこへ向かおうとしているのか。それを見届けるためにはまず、立ち上がらなければならない。そして、世界が進む方向が間違っていると思うのなら自ら立ち向かう必要がある。立ち向かう力を、こいつは持っているはずなのだ。


「…………誰だ」


 真っ暗な部屋に廊下の明かりが僅かに差し込む。その光を辿って赤い瞳がこちらを捉えた。


「いつまでそうしてるつもりだ」

「……放っておいてくれ」

「そうはいかねぇな。こっちにはお前に貸しがある」

「そんなものは知らない」


 自分に覚えがないことを言われたってどうすることもできない。それもクロウはよく知っていた。何を言おうが、何を言われようがそんなものは無意味だ。
 それでも、取り戻そうとぶつかってきたヤツがいた。覚えていないはずなのに不思議と出たあの言葉は、記憶の奥底に残っていたのだろう。フェイクだったはずの学院生活は自分でも思っていた以上に心の底まで浸透していたらしい。それなら、心からあの時間を大切にしていたこいつが本当に何もかも忘れているわけがない。


「言っただろ。利子は返すってな」


 その言葉に、赤い瞳が微かに揺れた気がした。


「知らないと言っている……!」

「なら勝手に返させてもらうだけだ。ともかく俺と一緒に来い」


 部屋に入り、その手を掴む。いつまでもこんな場所にいてはいけない。お前のいる場所はここではない。このまま世界の闇に飲まれてはいけない、飲み込まれさせたりしない。


「リィン」


 捕まれた手から逃げようとしていたリィンの動きが止まる。そして見上げる瞳に浮かぶ色にはどことなく覚えがあった。


「俺と来い、リィン。今度は俺がお前を取り戻す」

「やめろ! 放っておいてくれ……!」

「人のことをどこまでも追い掛けてきたのはどこのどいつだよ」

「知らない! 何なんだ、お前は」

「俺はお前の悪友だ」


 取り戻した記憶の中にある大切な記憶を呼び戻す。大切にしまっていたその鍵を再び開ける日が来たのも、全部。


「あく、ゆう……?」

「ここにいても意味はない。後悔するのはお前だ。俺のことが少しでも信じられるなら、俺と来てくれ」


 時間がない。終焉へと向かい始めた世界を止めるためにも、ここを脱出するにもタイムリミットが迫っている。ここでリィンを説得できなければ、何もかもが終わりだ。
 じっと赤い瞳を見つめる。困惑と躊躇い。リィンの顔に漸く拒絶以外の色が浮かんだ。


「…………でも、俺は」

「お前がどうしたいかだ。リィン」


 余計なことは考えるな。
 そう伝えるとリィンはぎゅっと目を閉じる。そして、やっとその瞳が真っ直ぐにクロウを見た。それを答えと受け取ってクロウが手を引くと、リィンはゆっくりと立ち上がった。


「信じて、いいんだよな」

「約束する」


 もうお前を裏切らねえよ、と告げるとリィンの表情が微かに和らいだ気がした。


「行くぞ」


 世界の行く末を見届けるために。自分たちの未来を掴むために。
 立ち止まってはいられない。ここまできたらもう進むしかないのだ。俺も、お前も。この先に何があろうと、どんな結末が待ち構えていようと。

 今度は隣で、その先を見届けよう。