誰でもいきなり明日この世界は滅びます、なんて言われて信じたりはしないだろう。確信はないというのにこの世界の殆どの人々は当たり前のように感じている明日が来ることを疑わない。もしかしたら突然の異常気象、天変地異が起こるかもしれないというのに。
 だが、ほぼゼロに等しいそれを気にしていたらやっていけないのもまた事実だ。それでも、当たり前の日常なんてどこにもない。それを改めて実感したのは――。


「クロウ」


 聞き慣れた声が耳に届く。コンコンとノックをして入ってきたソイツは今や有名人である灰の起動者。彼自身というより灰の騎神が有名だと言った方が正しいだろうが。


「どうした。何か用でもあったか?」


 なかなか出てこない次の言葉を待つべきかとも思ったが結局こちらから聞いてしまった。この後輩がどこか遠慮がちに話し掛けてきた理由は考えるまでもない。その理由は全部俺にある。だからこちらから用件を尋ねることにした。いつも通りを装って。
 その今までと何ら変わりのない問い掛けに、リィンは戸惑いの色を濃くした。瞳を左右に彷徨わせ、その目がクロウを見るまで数秒は掛かっただろうか。


「あ、ああ。クロウ、怪我してただろ?」

「何だ、そのことか。別にあんなの大した怪我じゃねぇよ。それを言うならお前だって同じだろ」

「俺はもう手当てしたけどクロウはまだだろ」


 それでわざわざ俺を探してきたのか、とリィンがこの場にやってきた訳を知る。お節介な奴だと思ったが、元からコイツはこういう性格だったなと思い直す。


「だから大したことねぇって。お前が気にすることじゃねぇよ」


 一緒に居たのだから怪我をしたことについては否定しない。けれど、手当を必要とするような大怪我でもない。傷が痛む訳でもなければ、放っておいても治るようなものだからこう言っただけ。
 しかし、クロウの言葉にリィンはむっとした表情を見せる。


「大したことないわけないだろ。クロウはそうやってすぐ無茶をする」

「してねぇよ。あと、その言葉はそっくりそのままお前に返すぜ」


 どういう意味だか本気で分かっていないような顔をするけれど、リィン・シュバルツァーという人間を知っている人に聞いたら全員が全員同意してくれるだろう。自分のことは顧みず、人の為に動くような人間だ。彼と同じⅦ組の連中なら無茶をするなと言いたくなったことくらいあるだろう。
 とにかく大丈夫だとこちらが主張するのに対し、駄目だと食い下がる後輩。本人が平気だって言ってるんだからという理屈はコイツには通用しないんだろう。はあ、と溜め息が零れる。


「いいから、他に用事がないならさっさと休めよ。お前だって疲れてるだろ」

「クロウが怪我を見せてくれたらな」

「ったく、何度も言わせんなよ。ただの掠り傷程度のことでそこまで騒ぐな」

「掠り傷程度ならちょっと見せてくれれば済むだろ」


 どうしてここまで引かないのか。心当たりがないとは言わない。だけどそれはコイツがこんなに気にすることでもない。結局のところは俺の力不足だ。
 それをこうも気にするのはやっぱりその性格のせいか。真面目すぎるのも困ったものだ。


「つーかよ、いつまでもこんなところに居て良いのか?」


 今までと同じ調子で言ったけれど、そこに含んだ意味にはちゃんと気付いてくれたらしい。俺の言葉を聞いた後輩は言葉に詰まったようだ。

 別に、俺はもうコイツ等と敵対している訳じゃない。それでも、俺が帝国解放戦線というテロ組織のリーダーであった事実は変わらない。実際、鉄血宰相を撃ったのもこの俺だ。
 それなのに、お人好しの目の前の後輩をはじめ、ここにはこんな俺を受け入れてくれる奴がいる。だけど俺のしたことに変わりなんてないし、ここにいる全員が俺を信用している訳じゃないのは当たり前だ。むしろそれが普通で、おかしいのはコイツ等の方だ。

 かといって、それならコイツ等を裏切る気があるのかといえば答えはノー。裏切るつもりならこんなところに戻ってきたりしない。そもそも戻ってくるつもりもなかった。
 けれど、俺は今ここにいる。その理由は――――。


「……クロウ、少し外に出ないか」


 たっぷりと時間を要して、後輩が次に口にしたのはそんな言葉だった。コイツはまた何を言っているんだと思ったが、ちらりと見た青紫は真っ直ぐにこちらに向けられている。


「今何時だと思ってんだよ。用があるなら明日にしとけ」

「用がある訳じゃないんだ。ちょっと外の空気でも吸いに行かないか?」

「……行きたきゃ一人で行け。俺が付いてく必要なんてねぇだろ」


 幾らかトーンが落ちる。コイツが俺の言おうとした意味を理解した以上、取り繕う必要もないだろう。もっとも、それ以前からコイツは気付いていただろうけれども。


「クロウも一緒じゃなくちゃ意味がないんだ」


 だけど、何故か引かないリィンは一人では意味がないと続ける。それには思わず「はあ!?」と聞き返してしまった。何を言っているんだ、というか何がしたいんだ。大体、ついさっきまでは人の怪我の心配をしていたんじゃなかったのか。
 いや、それはこのまま忘れてくれて構わない。しかし、また突然どうしてそういう話になったのか。


「それくらい一人でも良いだろ。まさか夜一人で出歩くのが怖いとか言うんじゃねぇよな?」

「それで良いから来てくれないか」

「俺は良くねぇんだよ。頼むなら他を当たりな」


 お前が声を掛ければ大抵の奴は付き合ってくれるだろ。俺が付いていく必要がどこにあるとクロウは思ったが、どうやらリィンの言う相手は他ではいけないようで「少しだから」と手を引かれた。それに「おい」と静止を掛けるが聞き入れてはもらえず、手を引かれるままに部屋を出た。



□ □ □



 外の空気を吸いに行かないかという言葉通り、リィンが向かった先はカレイジャスの後方甲板だった。時間が時間なだけに人もおらず、船内の騒がしさもここでは一切感じられない。二人の視界の先に広がるのは真ん丸に輝く月と無数の星々。
 誰もいない甲板を歩き、その手すりに掴まって空を見上げる。ここに着いた時点で掴まれていた腕を放されたクロウは、リィンのその様子を出入口付近で見守りながら、同じようにその瞳を空へと投げた。


「……で、お前さんはこの俺をここまで連れてきて何がしたかったんだ」


 ぽつり。
 クロウが言ったそれを聞いたリィンは、視線をそのままにゆっくりと口を開く。


「最近、というわけでもないけど。クロウはここに来てからあまり外に出たりしてないだろ?」

「何言ってんだ。今日だって普通にお前等と出てただろ」

「それは戦う為で、それ以外にクロウが部屋から出ることは殆どないじゃないか」


 それは、と続く先の言葉は飲み込んだ。何を当たり前のことを言っているんだ、とクロウは思う。けれど、そのことを口にしたということはリィンはそうだとは思っていないのだろう。
 お人好しで甘い奴だということは知ってる。士官学院に通っていた頃も、敵として対峙していた時でさえ感じていた。何度も指摘したことだってある。
 だけど、リィンはその考えを貫いてここにいる。だからこそクロウもここにいる。


「クロウがどう思っているかは分からないが、ここに集まった人達はみんなクロウのことも分かってる。勿論、細かい事情まで全員が知ってるわけじゃないけれど、それでもクロウのことを仲間だと思ってる」


 あの時、クロウは学院生だった自分はただのフェイクだと言った。Ⅶ組で過ごした時間も、トワ達と過ごした時間も、学院祭のステージも何もかもが全部偽りだったと言った。
 けれど、彼は確かにトールズ士官学院の生徒だった。たとえクロウにとっては偽物だったとしても、間違いなく自分達は士官学院生として同じ時を過ごしていた。

 共に過ごした日々が偽物だったなんて誰も思っていない。この船の仲間はみんな知っているのだ。
 ――そう、知っている。


「だから気にするなって、言ってもそう簡単な話じゃないのかもしれないけど。クロウが思っているほど周りは気にしてないっていうか……もっと気楽にして良いんじゃないかと思うんだ」


 クロウの近くにいた人達は特に分かっている。彼が徐々に変わっていたこと。彼が偽物だと言った言葉に偽りがあったこと。分かってしまうのは、彼とそれだけ親しい間柄だからこそ。
 くるり。振り返った瞳は真っ直ぐに赤紫を見て微笑む。


「あまり頼りないかもしれないけど、俺達のことももっと頼ってくれ」


 一人ではないのだから。自分達は仲間なのだから。

 ああ、本当にコイツは何を言ってるんだと頭の中で思う。
 帝国全土を巻き込んだ戦争の最中で、それを引き起こした張本人に言う言葉だろうか。真っ直ぐすぎるそれが、とても眩しい。


「……ははっ、まさかお前にそれを言われるとはな」


 ――そういう時はお兄さんに頼れば良いんだよ。何でも一人でやろうとするな。
 いつだったか。いや、それほど前のことではないだろう。彼等と士官学院で過ごしていた頃、一人で無理をするような後輩に言ったことがある。
 どこか危なっかしくて放っておけない。最初はそんな印象だったというのに、たかが数ヶ月で随分と成長したものだ。……いや、成長しなければ遥か遠くに行ってしまったクロウに届かなかったから。

 口元に小さく弧を浮かべ、徐にリィンの方へ向かって歩く。そして目の前までやってきたところでクロウはその手をそっと黒髪の上に乗せた。


「そんじゃあ頼らせてもらうか。改めてよろしく頼むわ」


 頼りないなんて思ったことはないけどな、と笑えばリィンは仄かに頬を朱に染めた。でもそれは紛れもない本心だし、きっとⅦ組の仲間や他のみんなも思っている。


「なら早速ブレードで勝負でもするか。掛け金は――」

「そういうのはなしだ」


 まだ最後まで言い終わっていないというのにあっさりと却下されてしまう。元々賭け事なんていけないという真面目な奴だから分かってはいたけれど、わざとらしく「頼って良いって言ったじゃねぇか」と言えば「それとこれとは別だ」と返される。


「普通のブレードならやっても良いけど、その前に医務室に行くぞ」

「お前、まだ諦めてなかったのかよ」

「当たり前だろ」


 ほら、早くしろと話す後輩はいつもの調子を取り戻したようだ。そんな後輩に「しょうがねぇな」と言いながらクロウも諦めて医務室に向かうことにする。どうせ言ったって聞かないのだ。


「一応言っとくけど、別にお前のせいじゃねぇからな。怪我したのは単に俺の力不足だ」

「でも、元はと言えば……」

「一度に相手できる数なんて決まってんだろ。何の為にパーティ組んで戦ってんだよ」


 言えば一瞬きょとんとして、けれどすぐに小さく笑みを浮かべてそうだなと相槌が打たれた。それを聞いたクロウは前を見て更に続ける。


「ま、強くなりゃ良いんじゃねぇの。俺もお前も、これから一緒にな」


 強くなれば人に心配を掛けることもない。強くなれば、誰かに守られることもなくなる。
 そう言って横を見た赤紫と青紫がぶつかる。それからリィンも「ああ」と頷いた。同じことを繰り返さない為にも、もっと強くなると。


「けど、お前は無理しすぎないようにな」

「それはクロウもだろ」


 俺がいつ無理したんだよと尋ねて今日だと返したリィンをクロウは即否定する。そうやって繰り広げられる会話はいつもと何ら変わりはない。
 雰囲気も、何もかもがあの頃のまま……。




(繋いだこの手は、もう二度と離さないと心に決めた)