機会がなくてまだ飲んだことがないと聞いたのはつい一週間ほど前。
 酒が飲めるようになったんだからと片手にワインを持って言えば、明日が休みということもあって相棒も乗り気とまではいかないが了承はしてくれた。それから適当につまめるものを用意し、飲み始めたのは三十分前のことだった。


「……大丈夫か?」


 そこまでアルコール度数が高いものではないはずだが、と思いながらクロウは目の前の友人に尋ねた。頬はいつもより赤く染まり、どことなくぼーっとしているように見えるのはまず間違いなくアルコールの影響だろう。
 アルコールの味がする、と一口飲んで言われた時は当然だろうと答えたけれど、それがお酒に弱いが故に出た言葉だとは思わなかった。初めて飲んだのだから本人も強いか弱いか分からなかったとはいえ、これだけで酔ってしまうとは正直考えていなかった。先程の問いにリィンは大丈夫だと頷いたけれどあまりそうは見えないよなとクロウは自分のグラスを傾ける。


「…………クロウ」

「おう」

「隣がいい」


 唐突にそんなことを言い出した友人は上目使いでクロウを見た。――というのも座っていても多少の身長差があるためにそう見えるだけなのだが、頬を染めながらそれは反則ではないかとクロウは心の中で呟く。
 しかし「ダメか?」と首をこてんとされて駄目などと言えるわけがない。分かったよとクロウの方が席を立ったのはリィンを歩かせるのに少なからず不安があったからだ。そしてクロウが隣まで移動するとそれだけでリィンは嬉しそうに笑った。外に飲みに行こうと言わなくて良かったと心底思う。


「クロウだ」

「そうだな」

「クロウ、あったかい」

「お前の手の方が温かいだろ」


 体温は元々リィンの方が高いけれどこれも酒が入っているせいもあるのだろう。まだ眠くはなさそうだがおそらくそれも時間の問題だ。
 クロウ、と柔らかな声が呼ぶ。まるで確かめるかのように呼ぶ青紫は手元に落とされたまま。


「ちゃんと、ここにいるんだな」

「……当たり前だろ」


 良かった。リィンはクロウの手を包むようにしながらそっと目を閉じた。
 その言葉の意味するところは深く考えるまでもない。ただクロウにはクロウの目的があった、それだけの話だ。それだけの一言で片付けられる話ではないけれど、ここでそれを蒸し返す必要はないだろう。だからクロウはリィンが求めていると思われる答えだけを口にした。


「俺はどこにも行かねーよ」


 どこに行くつもりもない。今のクロウにとってはリィンのいるところが自分の帰る場所だ。一緒に準遊撃士の資格を取って暫く、そのまま二人で各地を回っているということ以上の理由は今のところない。けれどその言葉に嘘がないのは確かだ。
 それを聞いたリィンは「うん」と静かに頷いた。分かっているのかいないのか。怪しんだのはアルコールのせいだ。しかし、もし明日になったら忘れてしまうのだとしてもリィンの言葉にあるのは真だけ。それは間違いないのだろう。


「なあ、クロウ」

「何だ」

「どうやったらクロウは手に入るんだろう」


 相変わらず視線は落ちたまま、リィンの手の中にはクロウの左手が握られている。唐突な発言に思わずクロウが固まったことに気付かない友人はその手に触れながら「クロウが欲しいんだ」と呟くように声を落とした。


「……今だって一緒にいるだろ?」


 欲しい、の意味を理解しかねたクロウは無難だと思われる問いで聞き返す。だがリィンはふるふると首を横に振って違うと否定した。それからもう一度、クロウが欲しいと繰り返す。


「クロウはすぐ逃げる」

「逃げねーよ」

「だからクロウが欲しい」

「俺が逃げないなら良いのか?」

「それも違う」


 いまいち会話が噛み合わないのは酒が回っているせいだろう。しかしリィンは自分に何を求めているのか。考えていたところで「でも」と声が零れるのを聞いた。そしてぽつり、小さな声が続く。


「今のままでいいんだ」


 百八十度変わった意見にクロウの頭上に疑問符が浮かぶ。そのまますぐに「クロウはここにいてくれるから」と付け加えられたそれが理由なのだろうか。
 そう思った時、今度は嫌われたくないと言われてクロウは横の黒髪を見た。


「誰もお前を嫌いになんてならねーよ」


 何があってもリィンの家族もⅦ組の仲間もこの心優しい青年を嫌いになどならない。勿論他にも多くの人達が、言うまでもなくクロウだってリィンを嫌いにはならない。
 だがリィンには何か思うところでもあるのか、分からないだろうと微かな笑みを浮かべた。それを見たクロウは「少なくとも俺は絶対に嫌いにならねぇよ」と付け加える。嫌いになる理由もない。
 むしろどちらかといえば――と考えかけてやめる。どうやらリィンは酔うと甘えたになるようだがどこまでが本心なのか。いや、今のリィンにとってはどれも本心なのだろうけれど、この友人がとことん鈍いと知っているクロウとしては自分の頭に浮かんだそれが間違いである可能性を否定出来ずに言葉を探す。


「……クロウは優しいな」

「それはお前だろ」

「俺よりもずっと、クロウの方が優しいよ」


 それはないと否定したところで酔いの回っている友人は聞く耳を持ってくれないのだろう。優しいなんて殆ど言われた覚えがないし、それよりは意地悪だと言われることの方が多い。自分は優しいかと知り合いに聞いたら全員が口を揃えて否定してくれそうなものだ。
 くいっとグラスを傾けるとフルーツのさっぱりとした味わいが口の中に広がる。こちらのグラスはもうなくなるけれど向こうのグラスはこれ以上減ることはないのだろう。
 次に飲む時は少し考えないとなと思っていると不意に顔を上げた青紫とぶつかる。そしてふっと頬を緩めたリィンは言った。


「そんなクロウが好きだ」


 とくん、と心臓が鳴る。また。初めてではないそれが何度目かなんてもう覚えていない。だがこの友人はただ酔っているだけだ。それに好きにも色々な意味がある。冷静になれ、と傾けたグラスからワインが喉を通り過ぎる。
 いっそのことこっちも酔ってしまった方が良いのではないか、とは考えた瞬間に否定した。それこそ色んな意味で怖い。尤もクロウがこの程度の酒で酔うことはないのだけれど。


「ほら、クロウは優しいだろ?」


 何も答えないクロウにどこか悲しげにも見える笑みを浮かべながらリィンが問う。だから今のままで良いと、続けられた意味は。


「……別に俺は優しくなんかねーよ」


 リィンは何を求めているのか。どこまでがアルコール抜きの本心なのか。
 現状それを知る術はないけれど、もしもこれも酒が回ったせいでリィンの口から零れた本心なら――と考えるのが正しいのかは分からない。ただ、少なからずアルコールを摂取しているという点についてはクロウにしても同じだった。

 そっと伸ばした手がリィンの頬に触れる。最初は不思議そうにクロウを見た青紫が細められたのはそれからすぐのこと。駄目だ、と思ったのもすぐだった。


「嫌だったら全部酒のせいにしろよ」


 この言葉の意味を今のリィンが正しく理解したかは定かではない。けれど全てを酒のせいにすることにしたクロウはリィンの顔を上へ向けるとそのままほんのりと赤い唇を奪った。
 初めて触れたそこは想像以上に柔らかく、熱い。時間にすれば一秒にも満たなかったかもしれない。それでもその一瞬、確かに二つの熱が混ざり合った。


「く、ろう……?」


 酔っ払いの戯れに青紫が大きく開かれていたことに気が付いたのは唇が離れてから。信じられないといった顔で見上げる瞳にクロウは小さく笑い掛ける。


「優しくなんてなかっただろ?」


 やっちまったな、と冷静な頭の隅で零す。でも今なら酔った勢いでもいけると何の根拠もない言葉が続けて脳裏を過る。
 どうせこれだけ酔っていればリィンの方は何も覚えていない。分かっていてやっているのだから酷い話だが、まあそこはこっちも酔っていたからでいけるはずだ――などと考えていると、先程までリィンの頬に触れていた手がいつの間にかまた温かな両の手に包まれた。


「リィン?」

「やっと、届いた」


 ちゃんと届くんだな、と笑うリィンにクロウは目を丸くする。


「好きだ。好きなんだ、クロウ」


 だからクロウが欲しい。そう話す目の前の友人の好きがどういう意味かはもう考える必要もないだろう。たとえそれが酔っているせいで出た言葉だとしても今この瞬間、リィンが言った好きの意味はクロウが長年抱いていた好きと同じだ。


「……お前が明日になっても覚えてたらやるよ、全部」


 朝起きたリィンが今夜の出来事を覚えていて、これらがたまたま一緒に飲んでいた相手に出た言葉ではなくクロウ自身に向けられたものだったのなら。


「約束だからな」


 クロウの言葉にリィンはふわりと笑った。そこで何かが切れたのだろう。ゆっくりと落ちた瞼はそのまま持ち上がることはなく、代わりに規則正しい呼吸が重みを増した左肩の辺りから聞こえ始めた。
 どうやらとうとう眠気に勝てなくなったらしい。やはり時間の問題だったなと思いながらクロウの瞳にはすぐ傍の想い人が映る。


「ああ、約束する」


 自由になった左手で柔らかな黒髪に触れながらクロウは一人約束を交わす。


(もし、明日になってもお前が俺と同じ気持ちだったら)


 今度はちゃんと俺の方から言う。覚えていなかったら覚えていなかったで良いし、酔った勢いだったというのならそれも良いだろう。
 でも、そうじゃないのかもしれないとクロウは何となく思った。それはクロウ自身もアルコールが入っているせいかもしれないけれど、明日起きてそうじゃないと分かったら――。


「俺もお前が好きだよ」


 そっと抱き寄せるようにして呟く。もうリィンには聞こえていないだろうけれど今はそれで良い。本当にこの想いを告げるのはお互いお酒の入っていない時でなければ意味がないのだ。
 静かに椅子を引いたクロウはそのままリィンの体を抱きかかえてベッドまで運ぶ。








その真実は大地を照らす太陽の目覚めと共に