『海に行かないか?』


 たまたま立ち寄った帝都で見覚えのある姿を見つけたのは数時間前のことだった。
 久し振りだなとありきたりな挨拶をした後、帝都に買い物かとこれもまたありきたりな会話を続けて。それじゃあと立ち去ろうとしたところで「クロウ!」と呼び止めたリィンが口にしたのが冒頭の台詞だ。

 時間があるなら食事でも一緒にしないか、と誘われるのならまだ分かる。百歩譲ってここが海の近くならばこれもありだろう。
 しかし、帝都から海を見に行こうと思ったらどれほど時間がかかるのか。どう計算してもちょっと付き合ってくれというレベルの話ではない。

 ――付き合ってやることにした俺も大概だが。





「それで、何でまた急に海に行きたいなんて言い出したんだ」


 ざくざくと砂浜に足跡をつけながら問い掛ける。
 空に浮かぶ太陽はすっかり西の空に傾いていた。その傍らには一番星と思われるまばゆい光が輝く。


「なんとなく、ってさっきも言っただろ」


 そう答えるリィンが砂を踏みしめる音もすぐ後ろから聞こえてくる。そこに混じる波の音が耳に馴染むのは、物心がつく前から身近にあったためだろう。
 どことなく懐かしい気持ちになりながら「まあな」と相槌を打つ。曖昧な返答を疑っているわけではない。実際、いきなり海に行きたいなんて思いつきの発言だろう。

 けれど。
 立ち止まって振り返れば、もう一つの足音も止まった。


「別にどんな理由でも呆れねえよ」


 そうでなければこんな場所まで付き合わない。
 だからそろそろ本音を聞いてもいいだろう。それこそ理由なんて分かり切っているようなものだが、ちゃんとリィンの口から聞きたかった。
 青みがかった紫を見つめて間もなく、その瞳がそっと細められた。綺麗だな、と思ったのは今目の前に広がっている全てに対してだ。


「海に行きたいと思ったのは本当だ」

「だろうな」

「もっというなら、クロウと一緒に海に行ってみたかったんだ」


 ジュライにも海があるだろう?
 予想通りの答えに思わず口元が緩む。なんとなくそうだろうなとは思っていた。こいつはそういうヤツだ。


「言えばよかっただろ?」

「なかなか言う機会がなかっただけだよ」


 クロウも忙しかっただろうという言葉は否定しないが、言わなかった理由はそれだけではないだろう。
 距離も距離で時間も時間だったため丁度いいタイミングでやってきたオルディス行きの飛行船に乗ったが、リィンが本当に行ってみたかったのは、きっと――。


「そういや、そっちも落ち着いてきたって話だったよな」


 本校も分校も漸く落ち着いてきた。それが今日会った時に聞いたリィンの近況だ。
 だからリィンは当然、肯定を返す。


「ああ」

「ならスタークと相談してそのうち連絡してくれ」


 きょとん、とした表情を浮かべたリィンは間もなくして小さく笑みを零した。どうやら主語を抜かした先程の言葉はしっかりと伝わったようだ。


「それならクロウから連絡した方がスタークも喜ぶんじゃないか?」

「どうせすぐ会えるだろ」

「すぐ会えるとしても嬉しいと思うけど」

「会おうと思えばいつでも会えるんだから気にすることねえだろ」


 そう、会おうと思えばいつでも会える。
 帝都からオルディスという長距離も飛行船を使えばこうして短時間で来ることができる。いつかの特別実習のように鉄道を使うのも悪くないし、近場なら導力バイクという手もある。方法なんていくらでもあるんだ。


「そうだな」


 だから気にすることなんて何もない。俺の言葉に頷いたリィンは近いうちに連絡をすると続けた。
 緩やかな波の音がいったりきたり。それを何度か繰り返した頃、リィンはぽつりと呟いた。


「……なあ、クロウ」


 優しい声色が鼓膜を震わすと同時にふわりとリィンの髪が潮風に吹かれて揺れた。お揃いも悪くはなかったがこっちの方がよく似合う。そう思った。


「俺は」

「リィン」


 話を遮るように名前を呼んだ俺を青紫がゆっくりと映す。そこには出会った頃から変わらない、透き通るような瞳がある。
 この瞳に惹かれたのはきっと、あの時からだった。
 一度下ろした瞼をさーと音を立てるさざ波に合わせて徐に持ち上げる。夕焼けに煌めく蒼は、どこまでも深く、広がっていた。

 ――ああ。やっぱり俺は。


「多分、お前が思っているよりずっと。俺はお前が好きだ」


 恋は落ちるもの、とはよく言ったものだ。気がついた時には落ちていた。
 裏切っても、記憶を失くしても、全てをぶつけ終えた時も。決して諦めることなく手を伸ばしてくれたお前がずっと、好きだった。

 どこまでも深い恋心をさらに深く深く沈めたつもりだったけれど、それでも溢れてしまったものは仕方がないだろう。


「……俺も、クロウが思っているよりもずっと。クロウのことが好きだよ」


 そう告げた唇が緩く弧を描く。
 俺たちは互いに分かっていた。そうする理由が何もなくなったことも、何もかも。


「もう、いいよな?」


 柔らかな声とともに伸ばされたリィンの手をぎゅっと掴んで引き寄せる。この手を拒む理由は何一つない。


「やっと、つかまえた」

「つかまった、の間違いだろ?」


 言い合ってからどっちでもいいかと二人して笑い合う。つかまえたのもつかまったのも間違いではない。

 誰もいない浜辺でどちらともなく伸ばした手が頬に触れる。
 そうして、いつしか唇が重なった。







(漸く届いたこの手をもう離さない)