厳しい暑さが徐々に和らぎ、緑の葉は少しずつ色づき始めてきた。半年前には目新しさのあった街の景色も今ではすっかりお馴染みのものとなり、トリスタでは穏やかな日常が流れている。
――しかし、時間の流れとともに変わっていくのは季節だけではない。
多くのものが少しずつ変わっていく。いいことも、悪いことも。様々な思惑が入り交じりながら世界は動いている。
「ク、ロウ……?」
とはいえ、ただの一学生にどうこうできることは何もない。今日もいつもと変わりのない一日を終えて寮へと戻ろうとしていたところで不意に名前を呼ばれて振り返る。すると、そこには一人の青年が立っていた。
白いロングコートを身に纏ったその人はどことなく見覚えがあったが、記憶の中に一致する人物はいなかった。けれど名前を呼んだということは向こうはこちらを知っているのだろうか。
「俺に何か用ですか? それとも学院に用事?」
気になることは多かったがとりあえず話を聞こうと口を開く。自分を訪ねてくるような人に心当たりはないが、目の前の人から感じたのは驚きや困惑といった感情だった。
少なくとも殺気は感じられない。獲物を持っているから武術の心得はあるだろうがそれはこちらも同じだ。その獲物も、気にはなっているのだが。
「……学院?」
「トールズ士官学院」
聞き返されて答えると青年は目を見張った。トールズの名前は帝国でも有名だが、この反応は何だろうか。
「トールズってことは、トリスタか?」
「そりゃあ……」
「それじゃあ、本当にクロウ……なのか?」
何かがおかしい。そもそもこの人は何の目的で自分に声をかけたのか。
――いや、その前提からおかしいのかもしれない。目的があって呼び止めたというより、街で知り合いを見つけて思わず名前を呼んだという方が近いだろうか。
知り合い、ではないはずだが。よく似た知り合いならいる。おそらくは今日も生徒会の仕事を手伝っているか、たまたま会った誰かの手伝いをしていると思われる友人が。
「そういやこの先の街道で魔獣が出たらしくてな。これから向かうところだったんだが、ちょっと付き合ってくれねぇ?」
「え?」
「見たところ腕が立ちそうだからな。ま、無理にとは言わねぇが」
乗ってくるだろうと思っての提案は「分かった」とすぐに受け入れられた。こちらの意図を察したというよりは単純に魔獣を放っておけないのだろう。
有り得ないとは思ったが世の中には自分の知らないことが山ほどある。コイツだってそうだろうけれど、俺よりは知ってることが多そうだ。それがいいことか悪いことかは分からないが、この国の動きを考えれば後者の可能性の方が高いのかもしれない。
(だとしても、何も変わらないか)
所詮は些細なこと。小さな歪みは結局元に戻るだけ。何かが変わるとは思えない。
変えるつもりもないが、変えたところで変わることもないだろう。それもまた些細なことに過ぎないから。
◇◇◇
「それで、アンタは何の目的でここにきたんだ?」
トリスタからある程度離れたところで足を止めて振り返ると、アイツと同じ青紫の瞳とぶつかった。
軽く辺りを見回した青年は今度こそこちらの意図をしっかりと理解したようだ。少しばかり視線を彷徨わせたのちにその瞳は再びクロウを映した。
「……目的はない、というか俺も気づいたらここにいたんだ」
嘘を言っているようには聞こえない。それが本当なら最初の反応も納得はできる。
「俺のこと、知ってるんだよな?」
「それは……」
「今更隠しても遅いだろ」
「いや、正直なところまだ状況がよく飲み込めていないんだ」
これもまあ本心だろう。これが嘘ならば役者にでもなれるのではないだろうか。トールズ卒業後の進路は多岐に渡るから有り得ない話ではないとはいえ、あまり想像はできないけれど。
「事情は分かった。なら詳しいことは聞かねぇけど、当てはあるのか?」
「……信じてくれるのか?」
「疑う理由はねぇしな。まあアイツがどうしてるか、確認してみてもいいかもしれねぇが」
あえて名前は出さなかったが誰のことを指しているかは伝わったらしい。小さく口元を緩めた青年はやがて徐に口を開いた。
「どうして俺がここにいるのかは分からないけど、こうして俺たちが出会ったことにも意味があるのかな」
原因も分からない状況ではっきりしたことなんて何も分からない。けれど、そこに意味があるのだとすれば何だろうか。
青年の言葉で自分たちが出会った意味を考えてみるがなかなか思い浮かばない。というより、もしそこに理由があるのだとすれば――。
『ク、ロウ……?』
青年と出会った時のことを思い出す。あの反応からして理由は彼の方にあるのではないだろうか。
目の前のこの人がどこからきたのかは知らない。見た目からなんとなく、ここより先の未来からきたのではないかと想像しているだけだ。それまでの時間にあったことなんて当然分からないが、これから起こることはなんとなく予想できる。
「あまり考え過ぎんなよ」
「え?」
「何があったかは知らないが、アンタは自分の信じた道を進めばいい」
余計なお世話かもしれない。
そう思いつつも口にした言葉に青年は眉を下げた。
「でも、その道が正しいとは限らない」
「それなら周りに相談すればいい」
相談できる仲間はこの学院生活を通じてたくさん得ただろう。もっとも、そんなことは言われずとも分かっているだろうけれど。その仲間たちがいれば、きっと。
「…………クロウは」
静かに届いた声に顔を上げる。
しかし、青年は目を閉じると緩く首を振った。
「いや、確かにそうかもしれないな」
飲み込んだ言葉は何だろうか。聞かなかった振りをするのが正しいのかもしれない。それでもつい、口を開いてしまった。
「リィン」
呼びかけた瞬間、青紫がこちらを映した。やはりそういうことらしい。
言うべきではない、聞くべきではないことがあるのはお互いさまだ。だが出会ってしまった時点で今更なところもあるだろう。だから。
「大丈夫だ」
微かに瞳が揺れる。動揺が伝わる。
「お前は間違ってねえよ」
正解のない話とはいえ、無責任なことを言っている自覚はある。だけど多分、求められていることは間違っていないとも思う。
もっとも、本来答えるべき相手は俺ではないことが前提だが。
「……何でそんな風に言えるんだ?」
「真っ直ぐだからな。それに、もし間違えそうになったとしても止めてくれる仲間がいるだろ?」
だから大丈夫。そう思っているのは本心だ。アイツもこれから大変な道を歩むことになるだろうが何も心配することはないのだろう。
――俺が心配するのも変な話ではあるのだが、選ばれたからこその道のりは幾らか想像できる。もちろん、悪いことばかりではないけれど。
「…………ひとつ、わがままを言ってもいいか?」
意外なことを言われる。
珍しい、というのもおかしいが自分の知っている後輩はわがままを言えと言ったところで滅多に言わない。しかも、今ここにいる俺に言いたいわがままときた。
「言うのは構わないぜ? 聞くかどうかは別の話だけどな」
何を言うつもりかは知らないが無茶な頼みなのだろう。暫し視線を彷徨わせた後に青紫がこちらを向いた。
「いかないでくれ」
夕焼けが白いコートを照らす。空はすっかり赤く染まっていた。
揺れる瞳に浮かぶのは、切望だろうか。
「一応聞いておくが、意味を分かってて言ってるんだよな?」
「ああ」
俺の目的――というよりも、この場所がコイツにとって過去であるのなら。
そういう意味で問いかけた言葉に彼ははっきりと頷いた。だからこそわがままなんて言い出したのか。
「クロウにいてほしいんだ」
本気だな、と。向けられた視線で感じる。伝わる想いがじんわりと胸に広がる。
この世界の彼とは違うそれは、これから起こり得る未来によって形作られたのだろうか。コイツが生きている世界のことは知らない。でも。
「……まるでプロポーズだな」
思わずそう零す。聞く人によっては錯覚してしまうのではないだろうか。コイツらしいといえばその通りなのだが、いつものそれとは少し違うことはなんとなく分かる。
――何と返すべきかも、ある程度の答えは出ている。そもそもの前提がおかしい時点で本当の正解にはどうやっても辿り着かない。それを承知のうえでのわがまま。
静かに息を吸って、ゆっくり吐く。
求められているのは未来か、過去か。はたまたどちらでも構わないのか。
「もし、この世界に残れるのなら。お前は残るか?」
答えの分かりきった質問。それでもあえて尋ねる。
「残ると言ったら、わがままを聞いてくれるのか?」
「そうだな。けどお前は残らない」
「そうとも限らないさ」
「残らねぇよ。お前は自分のために一を取って百を犠牲にはしない」
言い切れば、青年は困ったように笑った。そんなにお人好しではないなんて誰が信じるのだろうか。誰に聞いたってコイツはお人好しだと答えるだろう。
だけど、そこまでして言わせたいのか。どちらに転んでもいいと求められた答えは、結局のところコイツ自身が本当に欲している答えとはかけ離れているだろう。だからこそのわがままだと言われればその通りなのかもしれないが。
「クロウ」
ついでにこちらのことを分かってて言っているのだからタチが悪い。
「はじめに言っただろ。言うのは構わないが聞くかどうかは別の話だってな」
求められた答えを口にしてやることが優しさだとしてもその優しさが正しいとはいえない。酷なことをしているのだとしてもそれこそ今更だろう。
「つーか、このやりとりも夢かもしれないぜ?」
「夢ならわがままのひとつくらい聞いてくれてもいいだろう」
「夢だからって何でも叶うわけじゃないだろ」
どんなにあやふやでも境界線は確かにある。向こうが越えようとこちらも越える理由にはならない。
……越えてはいけないと、頭が警鈴を鳴らす。
「やっぱり、クロウだな」
彼はぽつりと呟く。
「お前の知ってるクロウではないけどな」
「クロウはクロウだよ」
これは掘り下げない方がいいのだろう。多分コイツは分かったうえで言っている。未来からきたのなら当然だが、俺は何をどこまでしたのか。
少なくともこちらの思惑通りにいかなかったことはうかがえる。そうでなければあんな言葉は出てこない。それにしたって予想の斜め上すぎるが。
(本当に、何がどうなればこうなるんだろうな)
一度は確実に捨てたはずだ。俺は最初からそのつもりでここにいる。信じられないと言われようと紛うことなき事実がある。
俺が捨てきれなかったのか、コイツが諦めなかったのか。
そしていつ、気づいてしまったのか。
「……人には譲れないものがある。それがどんな結果になろうと俺は後悔しない」
仮に未来が望んだ結果にならないのだとしても、ここまで生半可な気持ちで進んできたわけではない。だから未来はきっと変わらない。それが俺の譲れないことだ。
同じようにコイツにも譲れないことはある。さっきのわがままもそのひとつだろう。だが、どんなに頼まれたところで同じ世界を生きていない俺にはどうすることもできない。けれど。
「お前は後悔してるか?」
これも答えの分かっている問い掛け。
青紫が一瞬揺らぐ。それもまた答えだ。
「さっきも言ったがお前は間違ってねぇよ。何かに引き摺られることもない」
「でも」
「だが」
重なる言葉。交わる視線。
言葉を止めて見つめる瞳にふっと頬を緩める。
「ありがとな」
未来のことは分からない。それでも、目の前の友が自分を想ってくれていることは痛いほど分かる。
「クロウ、俺は――」
ふわり、淡い光が宙を舞う。おそらくこれがタイムリミットなのだろう。
光の球を追いかけて空を仰ぐ。残された時間は僅か。この出会いにどんな意味があったのか。今ならあの時とはまた違った答えが浮かぶのかもしれない。
「ひとつ、ゲームをしようぜ」
同じようで違う。だけどやっぱり変わらない。
俺が感じたことは目の前のこの人も感じただろう。当たり前といえば当たり前の、本来ならばあり得ない感想を胸に抱きながら提案する。
「ゲーム?」
「お前が勝ったら何でもひとつ、聞いてやるよ」
そう言って取り出したのは一枚のコイン。親指で弾いたそれはくるくる回って手の中に収まる。時間もないからルールはシンプルだ。
「右手と左手。さて、どっちを選ぶ?」
コインを追っていた青紫の瞳とぶつかったところで問う。
「左」
「即答かよ」
「確率は同じだろ」
それはその通りなのだが、まあいいかと左手を開く。そこには銀色のコインが輝いている。
「当たりだな。で、お前の望みは?」
「そうだな……それじゃあ右手を見せてくれ」
予想外の発言にぱちりと目を瞬かせる。
これは、もしかしなくてもバレているのだろう。それをわざわざ指摘してくるところがコイツらしいが。
「いいのか。一回をそれに使っちまって」
「ああ、構わない」
念のために確認したけれど答えは変わらないようだった。気づかない振りをしてしまえばいいものを、本当に真面目すぎるヤツだ。
そういうところは少しくらい変わってもいいと思うのだが、言われた通りに右手も開く。そこにも左手と同じように銀色のコインが乗っている。
「よく分かったな」
「クロウならそうすると思っただけだ」
俺に甘いから、と言われて「そんなことねぇよ」と否定する。俺が甘いのではなくコイツが甘えることが下手なだけだ。まあ、だからこそという部分もないわけではないのだが。
「ありがとう、クロウ」
聞こえてきた声に顔を上げる。柔らかなその表情に小さく胸が鳴る。
所詮は一時の交差。そう心の中で呟いて静かに息を吐く。
けれど、この不思議な出会いにこの人も何かしらの意味を見つけたのなら。決して無駄な時間ではなかったのだろう。
「礼を言われるようなことはしてねぇよ」
「そんなことはない。クロウに会えてよかった」
「……ま、お前がいいならその気持ちは受け取っておく」
そう話している間にも光の球は次々と増え、彼の体は淡い光に包まれている。
きっと、これが本当に最後だ。
「俺が言うことでもないが、あまり無理するなよ」
「クロウこそ、無茶はしないでくれ」
無茶なんてしないと否定したところで未来を知っている相手には通じないか。そう思い直して「努力はする」とだけ答えると「ありがとう」と彼は微笑んだ。
次の瞬間、一際強い光が辺りを包む。
反射的に瞑った目を開いた時には、昨日までと変わらない景色が広がっていた。どうやら彼は元の世界に戻ったらしい。確証はないがそういうことなのだろう。
(アイツが、自分の世界で笑って過ごせていたら)
なんて。たとえこの先にどんな未来が待っているとしてもこの道を進むと決めている俺が思うのもおかしな話だ。
「未来、か」
そういえばあまり考えたことがなかった。いや、遠い昔には考えたこともあったのかもしれないが忘れてしまった。アイツが未来の彼と同じ道を歩むとも限らないが。
「……賭けてみるのもありか」
小さな歪みはどのみち同じ結末へと辿り着く。全てを捨てるつもりだったのに、わがままなんて滅多に言わない彼の言葉が気になってしまうのは俺も同じだからだ。直接的な言葉は聞いていないが伝わってきたそれで分かる。
もっとも、この世界のアイツに友人以上の感情はないはずだがそこは気にしていない。それとこれは別問題だ。そもそも先を望む立場でもない。
(これで何かが変わったら、本当にお前の勝ちかもな)
コインの在処を見事に言い当てた時点であちらの勝ちだが、当面のことはいいとしてそこから先をどうするか。考えていく必要がありそうだ。
夕日の眩しさに目を細める。
結局、彼が口にした願いはひとつ。その願いが叶った時は彼の世界も何かが変わっていたらいい。そんな思いを胸にトリスタへの道を歩き始める。
不思議な出会い
その答えはきっと、未来に――