「クロウ」


 呼べば、すぐに赤紫の瞳がこちらを向く。呼ばれたことに対して「おう、どうした?」と聞き返す声も普段通りで特におかしなところはない。でも。


「何か、いいことでもあったのか?」


 なんとなく、いつもと少しだけ雰囲気が違うような気がした。
 例えば、ギャンブルに勝ったのならこの友人は分かりやすくそれを表に出すだろう。逆もまた然りだ。だけどそうしない、かといって隠しているわけでもない。その様子が珍しくて気になった。


「ま、ちょっとな」


 ふっと口元を緩め、優しい声音でクロウは答える。それもやっぱり珍しくて、何があったんだろうとリィンの頭には小さな疑問が浮かぶ。


「そういやお前、妹ちゃんとは手紙でやり取りをしてるんだったか?」

「え? ああ。通信で話すこともあるけど、手紙でのやり取りもしてるよ」


 唐突な質問に驚きながらも答えれば「仲良いもんな」と椅子を傾けながらクロウが言う。行儀が悪いと突っ込むべきか考えながら「別に普通だろ」と返したらいやいやとすぐさま否定された。
 それを普通にされたら世間は仲の悪い兄弟ばかりになっちまうだろ、と呆れられたがそんなことはないだろう。言えば、今度は盛大な溜め息を吐かれた。


「まあそれについては一旦置いておくとして、だ」


 軽く口角を持ち上げる友人にこれは、と第六感が働く。


「普段から妹ちゃんに手紙を書いてるなら、手紙を書くことには慣れてるよな?」

「……慣れているってほどではないけど、もしかして」


 次に出てくる言葉を予想したリィンにクロウは一層笑みを深くした。


「手紙、交換しようぜ」














 一体どうしてこんな話になったのか。
 いきなり手紙の交換を持ち掛けた友人は明日までという期限まできっちりとつけた。忘れるなよと言った本人の方が忘れないか心配だったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。


「昨日の約束、覚えてるか?」


 コンコンとノックをした後、よおと軽く挨拶をしたクロウは部屋に入るなりそう尋ねた。空いているベッドにぼふっと腰掛け、赤紫がリィンを映す一連の流れは学生時代に同じ寮で過ごしていた頃から変わらない。


「手紙だろ」

「そーそー。ちゃんと用意したか?」

「……まあ、書いたけど」


 歯切れの悪い言い方になってしまったのは、急に手紙を交換しようと提案された理由が未だに分からないからだ。もちろん手紙を書くことが嫌だったわけではないが、昨日からクロウに対して疑問が増えるばかりだ。そのことがつい、声に出た。
 しかしクロウは全く気にした様子はなく、ジャケットの内ポケットからシンプルな封筒を取り出した。差し出されたその意味は聞くまでもない。だからそれを見たリィンも机の引き出しからいつも使っている封筒を一枚、手に取った。

 手紙を差し出し、受け取る。
 封筒にはどちらも宛名はない。初めから手渡しをすると分かっていたため切手も貼っていなければ封もしていない。だけどその中には昨晩、改まって何を書こうかと迷いながらも綴った手紙が入っている。クロウも昨日は同じようにこの手紙を書いていたのだろうか。


「……クロウ?」


 この中には何が書かれているんだろう。そう思ったところでふと、先程渡した封筒を見つめたままの友人に気が付いて声を掛ける。その表情は昨日見たものと同じような気がした。


「何十年経ってもこの手紙があればお前の気持ちが分かる、ってすごいと思わねぇ?」


 たっぷりと五秒近くが経った頃、そう言ってクロウが顔を上げた。さらり、揺れた銀の合間から覗いた赤紫の瞳にリィンの顔が映る。
 瞬間、とくんと心臓が音を立てたのは仕方がないことだった。何せ、想いを隠そうとしない瞳から一気に想いが伝わってきたのだから。


「……そう言われると少し、いや、かなり恥ずかしいんだが」

「俺だって書いたんだからお相子だろ」


 それはそうかもしれないが、唐突な手紙交換を持ち掛けたのはそれが理由なのだろうか。おそらくこれも間違いではないと思うけれど、それだけではないような気もする。
 殆どただの勘ではあるものの短くない付き合いの上での確信はあった。欠けたパズルのピースはまだ足りない。でも多分、残りの欠片は――。


「本当に、今回はお前からの手紙が欲しくなっただけだぜ」


 再び手元に視線を落としたクロウの指先がかさりと紙を撫でた。ゆっくりと紡がれる言葉にリィンは静かに耳を傾ける。


「この前久し振りに手紙をもらって、お前からも欲しくなったんだ」


 手紙ならいつでも読めるだろ、と話す口調はとても穏やかだった。その声色から察するに相手は親しい人なのだろう。
 エリゼと手紙でやり取りをしているリィンにもクロウの気持ちはよく分かる。親しい相手からの手紙は何度読んでも心が癒される、大切な贈りものだ。そういう意味ではクロウがいきなり手紙交換を持ち掛けた気持ちも分かる気がした。


「それで手紙、か」

「俺もまさか、今になって身内から手紙を受け取るとは思わなかったんだがな」


 納得しかけたところで飛び出してきた発言に「えっ」と思わず聞き返してしまった。そんなリィンに優しく笑い掛けたクロウはそっと、窓の向こうへと視線を向けた。


「八年後、俺が二十歳になった時に渡してくれって知らないうちに祖父さんが頼んでたらしい」


 いつの間に用意したんだか、と言いながらもそこにはクロウの大好きだった祖父への想いが滲んでいた。


「……そうだったのか」

「本当、祖父さんには驚かされてばかりだぜ」


 クロウにとっては唯一の肉親で師匠のような存在だったというその人。きっと孫想いの優しい人だったのだろう。周りの人も巻き込んで、数年後の孫に手紙が渡るように仕込んだ最後の悪戯は、かつての市長を慕っていた多くの人が繋いだ軌跡だった。
 何せジュライを去ったクロウの居場所は誰にも分からなくなってしまっていた。手紙は八年間大切に保管されていたのだが、届ける相手の居場所が分からないのでは届けようがない。それでもどうにか届けることはできないかという話になった時、クロウと親しかったスタークの名前が挙がり、それを聞いたスタークが手紙を預かった。そしてやっと、手紙はクロウの元まで届けられた。これはそんな奇跡のような話だ。


「すごい人だな」

「ああ。少しは近付けているかと思っていたんだが、まだまだだったみたいだ」

「師匠の存在はどこまでも大きいな」

「ま、それを乗り越えるのが弟子の役目だけどな」


 お互いまだ二十歳を超えたばかり。自分たちも成長していないわけではないが、若輩者であることは理解している。これから何十年掛かるかは分からないけれど、自分たちの進むべき道の先にあるその壁をいつかは乗り越えなければならない。それは弟子として当然の目標だ。


「手紙、付き合ってくれてありがとな」


 唐突にお礼を言われてリィンは緩く首を振った。


「俺もクロウから手紙がもらえて嬉しいよ」


 手紙が欲しいと思ってくれたことも、お祖父さんの話を聞かせてくれたことも。小さな幸せを分けてくれたことも何もかも。
 むしろお礼を言いたいのはこちらの方だ。そう言ったらクロウは頬を緩めた。


「これからは毎年、お前の誕生日にでも手紙を交換するか」

「それもいいかもな。俺の誕生日というより互いの誕生日に手紙を渡すでいいと思うけど」

「お、案外乗り気だな」

「さっきも言ったけど、俺もクロウからの手紙は嬉しいよ」


 改まって手紙を書くのはどことなく気恥ずかしさもあるが、自分のことを想って書いてくれたものだと思うと愛しさが募る。だから年に一度くらい、そういう機会があってもいいのかもしれないと純粋に思った。


「何十年経っても読み返せるしな」


 少し前にクロウ自身が言った言葉を繰り返すと程なくして部屋に笑い声が零れた。


「数十年分の愛の告白だもんな」

「いつか、二人で読み返すか?」

「それも悪くねえな」


 きっと、どの手紙を開いても深い愛情が伝わってくるのだろう。それほど想われている自覚はあるし、同じだけこっちも恋人のことを想っている。だけど年を重ねればその分だけ、手紙の内容も少しずつ変わっていくのだろう。毎年一年分、二人で過ごした時間が増えていくのだから。
 いつか、仕事からも離れて二人でのんびりと暮らすようになった時。そのたくさんの手紙を広げて語り合えたら、とても幸せだろう。


「じゃあまずは今年のお前の誕生日か」

「楽しみにしてるよ」


 おう、期待しておけと笑うクロウにつられるように微笑む。
 それから仕事が終わってるなら少し飲まないかと誘われ、そのまま部屋で二人だけの細やかな酒盛りを始めた。いい酒が手に入ったんだとクロウが持ち出した故郷のお酒を開けて、今日は互いの知らない昔話に花を咲かせた。

 懐かしくもあたたかい夜はゆっくりと流れていくのだった。










fin