今にも降り出しそうなどんよりとした空の下。降ってくる前にと早めに用事を片付け、このまま急いで戻ろうとしていた時のことだった。


「クロウ……?」


 視界の端に映った銀色に零れた声。それに反応するかのようにリィンの方を振り向いた赤紫は一瞬驚きを浮かべ、けれどすぐにあからさまに嫌そうな表情へと変わった。
 嫌そう――というよりは面倒な奴に会ってしまったという方が正しいだろうか。こちらとしては腑に落ちないが、しかしクロウの姿をしっかりと捉えた時にはそれらの考えは一瞬で消え去った。


「クロウ、どうしたんだ!?」

「何でもねーよ」


 不機嫌そうな声でそう言ったクロウはふいと視線を逸らす。それに対して何でもないわけがないだろうと少し強めの声で言えば、何でこんなとこにいるんだよという独り言がすぐ傍から聞こえてきた。
 たまたま用事があって立ち寄ったんだとリィンが答えると、眉を顰めたクロウは「ならさっさと用事を済ませてこいよ」とぶっきらぼうに言った。とにかく構うなというように。


「用事ならもう終わった。それより――」

「じゃああいつ等のところに戻ったらどうだ」


 こちらの話を聞く様子のない友人に「クロウを放って行けるわけないだろ!」と青紫が強い意志を持って赤紫を見据える。それにやや間を置いて「……本当、相変わらずのお人好しだな」と呟いたクロウは冷たい色をその瞳に浮かべてリィンを見た。


「けどな、お人好しも度が過ぎればただのお節介だ」


 だから俺に関わるな。そんな風に背を向けたクロウの腕をリィンは反射的に掴んだ。掴まなければクロウはこのまま立ち去ってしまう。言葉で引き留められないのなら直接引き留めるしかない。
 たとえお節介だとしてもクロウを、それも黒ずんだ血を服に滲ませているような相手を放っておけるわけがない。リィンでなくたって目の前にそんな相手がいれば放ってはおかないだろう。

 ――そうリィンが思う一方で、見て分かる面倒事に首を突っ込む人間はいないとクロウは思っていた。厄介ごとに巻き込まれる可能性を考えて、見て見ぬ振りをするのが普通だと。
 そしてクロウ自身、できれば関わらずに放っておいて欲しかった。なぜなら。


「おい、本当に」

「今ここで手を離したらクロウはまた」

「話なら今度聞いてやる。だから」

「クロウは俺の話を聞く気なんかないだろ」


 クロウの言葉をリィンが遮り、それを今度はクロウが遮って。最終的に青紫にじっと見つめられたクロウは「ちっ」と小さく舌打ちをした後にリィンの腕を力尽くで振り解いた。


「クロ――っ!」

「だから言っただろ! あいつ等のところに戻れって」


 素早く導力銃を取り出したクロウは流れるようにトリガーを引き、ぱしっとリィンの手を掴んでそのまま走り出した。



□ □ □



 はあ、はあ、と荒い呼吸を聞きながらリィンはクロウに手を引かれるまま走った。
 入り組んだ道を進み続けているため、もうリィンにはここがどの辺りなのか分からなくなっていた。そもそもどこに向かっているのかも分からなかったが、クロウの足は一度も立ち止まることなくどこかへ向かった走り続けた。
 そうして走り続けること十分近く。町外れの裏路地の一角でクロウは漸く足を止めた。


「……今のうちにお前はここから離れろ」


 言いながらクロウは掴んでいたリィンの手を放した。一先ず先程の人たちは撒いたようだが、クロウの片手は今も腹部の傷口を押さえたまま。呼吸を整えつつも周辺の様子に気を配っているようだった。

 クロウは今、どういう状況なのか。
 帝国解放戦線のリーダーであり蒼の起動者でもあるクロウは貴族連合に協力してこの内戦下を動いているのではなかったのか。クロウは前に自分たちは敵だと言っていた。だから今回もそういう意味で自分のことを邪険にしているのだと最初は思った。
 しかし、それは違ったのだとリィンはとっくに理解していた。この友人は始めからリィンを巻き込まないためにいつも以上に冷たい態度を取っていた。本当に敵なら、リィンのことなんか気にする必要はないのに。


「もう分かっただろ。俺といればお前も狙われる」


 リィンに動く気配がないことを悟ってか、ちらりとこちらを見たクロウが徐に口を開いた。だが、そんな彼の言葉にどうしてと疑問が湧く。
 いや、疑問そのものは彼が士官学院を出て行った時から抱いている。何故テロリストになったのか、その理由さえリィンはまだ知らない。敵だと言って突き放そうとするのはクロウにとっては敵対すべき立場にあるからだとしても、立場上は味方であるはずの相手に狙われているのは何故なのか。怪我をしても尚、一人でいようとするクロウの姿につきりと胸が痛む。


「だからさっさと」

「どうしてクロウは追われてるんだ」


 何故自分はこんなにも無力なのか。こんな状況でさえ、友の力になれないのか。
 行け、と言われる前にリィンは問うた。それはクロウがリィンの身を案じているからこその言葉であることは分かっていたけれど、確かめるのなら今ここで聞くしかない。


「そんなことはどうでもいいだろ。俺より自分の心配をしろ」

「それならクロウも俺の心配なんかしなければいい」


 自分の心配だけすればいいのに、他人の心配をしているのはどちらか。人のことは言えないだろと反論したリィンにクロウは開きかけた唇を結ぶ。
 やがて、クロウは諦めたように口を開いた。


「貴族連合も一枚岩じゃねぇってことだ。俺のように、力だけを持っているガキが気に食わない連中は沢山いる」


 俺を消したところでオルディーネは使えねぇのにな、とクロウは乾いた笑みを浮かべた。

 蒼の騎神、オルディーネ。今ではクロウだけが動かすことのできる伝説の騎士人形。
 その力を疎ましく思う連中もいれば、起動者であるだけで持て囃されることをよく思わない奴もいる。さっきのはそう考えている人たちだとクロウは話した。

 彼の周りには敵しかいないのか。いや、リィンはクロウの味方だ。それにクロウは貴族連合である以前に帝国解放戦線のリーダーである。数回会った幹部たちはリーダーのことを認めていないようには見えなかったが、あの人たちもクロウをよく思っていないのか。
 リィンの疑問にクロウはみんな今は出払っているのだと答えた。だから今なんだろうな、と続けて。


「つーか、俺のことはいいんだよ。それより」


 言い掛けたクロウが小さな呻き声とともに僅かに顔を歪めた。


「クロウ!」


 反射的にその背に手を回すが「いいから、早く行け」とクロウの主張は変わらない。これ以上話すことはない、とまた突き放そうとする。
 これほどの怪我だ。本当ならいち早く手当てをするべきだ。だけど、今はとても落ち着けるような状況ではない。安全な場所を探そうにもクロウは一緒に来てくれないだろうし、この場にクロウを一人で残すわけにもいかない。そうなると結局リィンもここから動けない。


「クロウ」


 呼んでも返事はない。関わるなと言外に伝わってくるが、どんなにクロウが拒んでもリィンに立ち去る気はない。再度、クロウ、とリィンは静かな声で呼ぶ。


「今だけでいい。少なくとも、俺はクロウの敵じゃないから」


 今だけではなく、本音はクロウを連れ戻したい。けれど今はそういうことを言っている場合ではない。
 一時の休戦でいい。クロウが納得してくれるなら形なんて何でもいい。ただただ、大切な仲間を放っておけなかった。


「…………お前が俺の敵じゃなくても、俺はお前の敵だ」

「違う、クロウは仲間だ」

「前にあんなことをされたっていうのに、まだそんなことが言えるのか」


 リィンの脳裏に数週間前の記憶が甦る。でも、だからこそ。リィンは首を横に振った。


「クロウは、敵じゃない。少なくとも俺にとっては」

「何言ってんだ。お前が一番……」


 いつも、クロウは先に行動で示した。生徒会の手伝いをしていたリィンに何をしているのかと尋ねた先輩は答えを聞いた時点で荷物の半分をリィンから奪った。その後で俺も用があるからと説明を加えた。学院祭では休憩をしろと言わずに生徒会本部のテントに陣取り、人一倍頑張り屋な生徒会長を休憩に行かせていた。断られるよりも、前に。
 だから、リィンも言葉より先に行動に出た。いつかクロウがリィンの疑問を奪ったように、リィンもクロウの言葉を奪った。その瞬間、赤紫の瞳が見たこともないくらいまん丸くなった。


「教えてくれ、クロウ」


 ゆっくりと、塞いだ唇を離し、リィンは問い掛ける。


「クロウは、俺に何を望んでいるんだ」


 リィンがここからいなくなること。本当の敵になること。それとも――。
 そこへ続く言葉はクロウしか知らない。クロウが言ってくれなければ、クロウがそれを口にしてくれれば。そう考えるリィンの耳に小さな声が届く。


「……仮に、俺がお前に仲間になれと言ったとして。お前は大切な仲間を裏切れないだろ」


 できないことを口にするなと言いたげな友にリィンは緩く首を振った。


「確かに、みんなを裏切るのは辛いけど」

「できねーよ、お前には」


 俺のことを切り捨てられないお前には無理だ、と今度は言い切った。でも、それは。


「クロウが大切なんだ」

「あいつ等だって大切だろ。いっときの気の迷いで馬鹿なこと言ってんな」

「気の迷いなら、こんなに苦しくない」


 ぴくり、と友が僅かに反応したことをリィンは見逃さなかった。やっぱりクロウは、そう悟ったリィンは更に想いをぶつけた。


「クロウが俺の敵だという理由が俺の考えている通りなら、やっぱり敵じゃない。ただの嫌がらせのつもりだったとしたら、俺がクロウの敵かもしれないけど……違うだろ?」


 あの時、苦しそうにしていたのはクロウの方だ。敵だという言葉はまるで自分に言い聞かせているかのようで、全然リィンを見ようとはしなかった。


「…………ここで俺がお前に手当てをさせてやれば、貸しはゼロになるよな」


 ゆっくりと、瞼の裏に隠れた赤紫が現れる。じっと見つめる瞳からそれがクロウの出した妥協案だと理解したのは間もなくのことだ。
 今は、これが最善の選択なのだろう。
 明らかにクロウはこちらの問いから逃げたが、今最も優先しなければならないことは彼の手当てだ。話は別の機会でもいい。だけどこの怪我は一刻も早く治療するべきだ。そう考え至ったリィンはクロウの提案に頷いた。


「クロウの手当てをしたら、今日はみんなのところに戻るよ」

「交渉成立、だな」


 そう言ったクロウはポケットから鍵を取り出すなり後ろにあったドアに差し込んだ。
 まさか、と思っている間にガチャっと鍵の開く音がする。そのままドアノブを捻ると、いとも容易くドアは開いた。


「約束、覚えてるよな」


 ここまで、クロウは迷いのない足取りで走ってきた。初めからあの人たちを撒くと同時に隠れられる場所へ向かっていたのだ。言わなかったのは、クロウの中でリィンは敵という立ち位置にいるからなのだろう。


「……手当てをしたら、だろ」

「ま、救急箱なんて置いてねぇが」

「それでもできることはさせてもらう」


 そういう約束だろ、とリィンが言えばクロウは大人しく手当てをさせてくれた。途中、包帯を持っていることに怪訝そうな顔をされたが、それこそがリィンがこの街に立ち寄った理由だった。少なくなった備品の中に包帯があってよかったと心底思いながら、かつて学院で教わった方法でリィンは丁寧に処置をしていった。
 その間、会話は何もない。ただ黙って、手当てをして。約束だから、包帯を巻き終えたリィンはもう服を着てもいいと言って立ち上がった。本当はその服もどうにかした方がいいと思うのだが。


「……お前は」


 ドアノブに手を賭けようとした瞬間、聞こえてきた声にリィンは振り返る。暫しの沈黙が流れ、やがてクロウが言葉を続けた。


「お前のやるべきことをしろ。くだらないことは考えるな」


 やっぱりクロウはこちらを見ようとはしなかった。
 けれど、こっちからクロウの表情が見えないわけではない。また、あの時と同じ目をしている。そう思ったリィンは、今回もはっきり言葉にした。


「くだらなくなんかない。俺にとっては、とても大切なことだ」


 そう言ったら、一度だけ赤紫がこちらを見た。ぶつかった瞳にリィンは小さく笑い掛ける。


「次に会った時こそ、クロウを取り戻すから」


 今は安静にして怪我を治してくれとだけ言い残してリィンは部屋を出た。約束は約束だ。その代わり、次こそは必ずと心の中で誓う。そして、友の怪我が早く治ることを空に祈った。







今日のところはそれでいい
端から敵のつもりはないけれど、それは多分

(クロウも同じだから)
(今度会った時は――)