あんなに賑やかだった校舎も太陽に代わって月が姿を見せ始めた頃にはすっかり静まり返っていた。残っているのは教官だけとなり、校舎で明かりが点いているのも本校舎の一階のみ。生徒の大半は学生寮に、何人かはまだリーヴスの街で遊んでいる頃だろうか。
 夏も終わりが近付いてきた八月下旬。まだ厳しい暑さは残っているけれど、それでも夜は昼間より幾分過ごしやすい。肌を撫でる風が幾らか涼しさを感じさせてくれる。


「クロウ?」


 不意に飛んできた自分を呼ぶその声に落としていた視線を後方へと向けた。闇夜に紛れる黒い髪とは対照的に白い服は夜でもよく映える。とはいえ、今の時期ならばこの時間でもまだ明るく、その黒髪を捉えることも容易かった。


「お疲れ。もう仕事も終わりか?」

「お疲れ様。俺もトワ先輩も終わったよ。クロウも終わってるんだよな?」

「ああ。もしかして探しに来たのか?」

「学院内にいるとは思ったんだけどな」


 姿が見えないからという理由で探していたらしい同僚に悪かったなと謝ると一応探していただけだからと言ってリィンは隣に並んだ。


「鍵当番くらい任せてくれても良かったんだが、何か他に用事でもあったのか?」

「用事ってほどのことじゃねーが、少しは落ち着いてきたから改めて校舎を見ておこうかと思ってな」


 学院のどこに何があるかは頭に入っているとはいえ、ゆっくりと見て回る時間は今日までなかなか作ることが出来なかった。分校の教官になって約一ヶ月、今更ではあるが仕事が早く終わったついでに校舎を見て歩いていた。
 持ち回りの鍵当番もあることだから丁度良いだろうと思ったのだが、一声掛けていたとはいえこの友人には心配させたらしい。もしかしたらもう一人の同僚も気にしていたのかもしれないなとこの友人と同じくお人好しの友の顔が脳裏に浮かぶ。


「そうだったのか。クロウには今更な気もするが」

「見ておいて損はねぇだろ。そのついでに校舎内の戸締りは一通り確認したし、あとは玄関と正門だけだからお前も帰って平気だぜ」


 言えば、リィンは首を傾げて「クロウはまだ帰らないのか?」と尋ねた。戸締りの確認がまだならともかく、残りはたったそれだけの鍵当番くらい一人で十分だからという意味で言ったその言葉に疑問を返されるとは思わなかったのだが、これは勘が鋭いというべきかそれともただ気になっただけなのか。普通なら後者だろうが鋭いところのある友人の場合、もしかしたら。


「もう帰るぜ。けどお前まで残る理由もねぇだろ」


 つーかお前がいたら鍵締められないしな、とそれっぽい理由を並べるがリィンからの反応はない。これは前者だったか、と思ったところでそれ以上は何も言わなかった。言わなくても突っ込まれるだろうなと思った通りになったのはそれからすぐのことだった。


「……クロウ。俺では頼りないかもしれないけれど、もし何かあったらいつでも言ってくれないか?」


 リィンの性格ならばこのまま見て見ぬ振りはしないだろう。それは二年も前から知っている。あの時は気晴らしにブレードでもしないかと持ち掛けられたんだったか。
 今回もあの時のように――は流石にいかないだろう。二回も同じ手に引っ掛かる奴でもなければ、あの時の後輩も今や立派にこの分校の教官を務めているくらいだ。騙されてはくれても騙されはしない。
 どうしたものかと考える。別に隠すほど大層なことはない。そもそも今となっては隠すようなこともない。話すほどのことでもない、けれど。


「何もねぇよ、って言っても信じなさそうだな」

「本当にそうならこれ以上は聞かないよ」


 まあそういう奴だよな、と思う。本当に大したことない、悩みなんていうレベルのものでもないのだが。
 ちら、と隣を見たら青紫の瞳とぶつかった。以前よりも近くなったそれは、以前と変わらない透き通った色をしている。だけどきっと、その奥にあるものはあの頃のままではないのだろう。色々と、取り巻く環境は変わってしまったのだろうから。そう、お互いに。


「ちょっと考え事をしてただけだ。色々あったからな」


 色々、本当に色々あったけれどあれから何もなかったこともない。しかし、あれから何も進んでいないことも自分が一番知っていた。その最もたる原因が自分自身であることも分かっているのだが、流石に今回は少し面倒なことになったかもしれないなとちょいとばかし思っただけのこと。
 手元にやった視線を上げたのは自分に注がれる視線に気が付いたから。複雑そうな表情でこちらを見る様子に誤解をさせたかと口を開こうとしたのだが。


「クロウは人に頼れって言うけど、クロウももっと人を頼るべきじゃないか?」


 こちらが誤解を解くよりも先にリィンの口から出てきたのは少々意外な言葉だった。いや、そこまで意外でもないかとすぐに思い直した。あの時だって先輩後輩関係なく相談してほしいと言ってきたのだ、この友人は。お前の方こそ、と言わなかったのは強ちここまでのリィンの指摘が間違いでもないことを自覚しているから。


「十分頼ってると思うけどな」

「無理に話してくれとは言わないけど、全部は話してくれないだろ」

「それはお互い様だろ」


 否定はしない。けれどリィンも否定は出来ないはずだ。勿論、それを全て話せなんてこちらも言うつもりはないが。


「……なあ。今までは当たり前だったものがそうじゃなくなったら、お前はどうする?」


 漠然とした質問にリィンは「それが何かにもよるんじゃないか」とまともに返してきた。何が言いたいんだと言わないところがこいつらしい。
 まあ時と場合によってははっきり言えと切り返してくるのだろうが、こういうところが女子にモテるところでもあるよなとどこか場違いのことを考える。絆されそうだ、なんて見当違いもいいところだが。何せ、そんなものはもうとっくに――。


「そうだな。例えば、自分の中にある不思議な力……とかな」


 瞬間、隣で息を呑んだのが分かった。


「……クロウ、もしかして」

「おいおい、何深刻そうな顔してやがる。物の例えだろ?」


 それ以上でも以下でもない。そう言ってもリィンの表情はどことなく曇ったままだった。言葉通りには受け取れない、そう目で訴えられている気がするがあえて気付かない振りをした。


「ほら、そろそろ帰るぞ。それともたまには飲みにでも行くか?」

「……そうだな。たまには良いかもしれない」

「お、なら今夜はとことん飲むとするか」

「明日のことも考えて程々にな」


 飲むならパーッとやろうぜと言ってもそれで明日二日酔いにでもなったら生徒に示しがないだろうと真面目な教官は言う。真面目だな、と声に出したら節度は守るべきだとしっかり釘を刺された。それでも明日も仕事なんだからと言われないだけ十分か。


「クロウ」


 体を手摺りから離して数歩。進んだところで呼ばれて立ち止まると、真っ直ぐな青紫の瞳とぶつかった。変わらない、のもお互い様か。そう思って呼び止めた友人より先に口を開いた。


「そういやあんま手持ちのミラはねーんだよな。こういう時は優しい先輩が奢ってくれたりしねーかなぁ?」

「……誰が先輩だ」

「先輩だろ。俺より教官歴長いんだし」

「数ヶ月しか違わないんだが」


 それでも先輩は先輩だと主張したら溜め息を吐かれた。そんなこと言っても都合の良い時は自分が先輩だって言うんだろと呆れた顔をした学生時代の後輩には「そんなことねぇよ?」とだけ言っておいた。そしてまた溜め息を吐くものだから「幸せが逃げるぞ」と注意してやる。誰のせいだ、なんていうやり取りをするのは先輩後輩というよりは友人――悪友といった表現の方が正しそうだ。


「まあ細かいことは気にするなよ、リィン教官」

「全然細かくないでしょう、クロウ先輩」


 久し振りに聞く、けれどあまりにわざとらしい敬語に思わず笑い声を漏らすと程なくしてリィンも口元を緩めた。先輩なら奢ってくれたりするんですよね、と言えるほどになった後輩にあの頃のような後輩らしさはないが、ダチとしてはこれくらいの距離感が一番だろう。
 しかし、やはり自分達の場合は友人というより悪友の方が合っている。後輩なら先輩の頼みくらい聞いてくれても良いだろと零すと結局先輩でも後輩でも言ってることは変わらないじゃないかと正論が返される。全く、本当に丁度良い間柄になったものだ。


「わーったよ、どっちが持つかは後でブレードでもするとしてもう帰ろうぜ」

「そこは普通に割り勘で良いだろ」

「まあついでだから付き合えって。今夜は俺に付き合ってくれるんだろ?」


 そんな風に言ったらリィンはきょとんとして、それから「分かった」と頷いた。
 じゃあ行くか、と今度こそ俺達は二人で屋上を後にする。たまにはそういう日があっても良いだろう。お互い、言いたいことも聞きたいこともあるに違いない。付き合ってもらう分は付き合わせてもらうけどなと心の中で呟きながら夜のリーヴスへと足を踏み出すのだった。








求めたひと欠片のそれはいとも簡単にこれを満たした