「クロウ!」


 階段を上り終え、廊下を歩き始めて間もなくのことだ。ぱたぱたと近づいてきた少年の勢いにおっと僅かに声を零しながらもぎゅと抱きついてきた小さな体をクロウは難なく受け止めた。
 だが、クロウはすぐにリィンの様子がおかしいことに気がついた。ちらと視線を横に動かせば、少年と同じ名前の青年もこくりと一つ頷く。それにクロウも頷くと、微かに震える少年の頭をぽんぽんと優しく撫でた。


「どうした?」

「……クロウが」


 出てきた名前にやはりと思う。仲のいい小さな自分たちが一緒にいるのはよくあることだが、そんな二人が別々にいて、しかもリィンが泣きそうな顔をしているとなればクロウ絡みであることは想像に難くない。
 ゆっくりでいいと落ち着かせるように黒髪を撫でる。そうして数十秒が経った頃、徐に青紫がクロウを映した。


「クロウが、熱を出して。すごく熱くて、おれ」


 隣で、息を飲むのが分かった。いつから、もしかして朝からそうだったのかと横にいる相棒が考えたであろうことはすぐに想像できた。
 だが今はこの幼い友人を宥める方が先だろう。きっと、心配で堪らなかったから二人の帰りを今か今かと待っていたに違いない。


「教えてくれてありがとな。もう大丈夫だから心配すんな」


 お前も、と続けるともう一つの青紫にもクロウが映った。そこで漸く我に返ったのか、リィンは幼い自分と同じ目線の高さまで腰を落とした。


「ちゃんと体を休めればすぐによくなるよ」


 大切な人が辛そうにしていたら自分まで苦しくなる。その気持ちは二人にも分かる。大人である二人は風邪を引いた相手を心配はすれど、ここまで不安にはならないけれど子供のリィンにとっては違う。クロウが辛そうにしていても何もできず、その上症状が酷ければどうしたらいいのかと困惑もするだろう。
 だが、そんなリィンがクロウの傍にいない理由をこっちのクロウはとっくに理解していた。もちろん、相棒が気づかなかったわけも。


「クロウのことは――」

「俺が看るから、一日部屋貸してくれ」


 え、と不思議そうに見つめる瞳の前にクロウはポケットから鍵を取り出す。
 風邪を引いたという自分の傍にリィンがいなかったのは、移るといけないからと帰されたせいだろう。大きい方のリィンにまで風邪が移るといけないからと言うつもりはないが、自分と同じ名前の少年が気付かれないように隠したのは心配や迷惑をかけたくないから。リィンなら間違いなく否定するであろうそれを幼い自分は分かっていなかったのだ。


「…………分かった。でも、何か手伝えることがあれば遠慮なく言ってくれ」


 暫し考えたリィンはやがてクロウの言葉に頷いた。おそらくこちらの意図を読み取ってくれたのだろう。物分かりのいい相棒で助かる、とすぐそこの扉を見ながら思ったクロウの手にその部屋の鍵が乗る。


「クロウ」

「分かってる。ありがとな」


 呼び止めた相棒にそう答えるとリィンはひとつ頷いた。それから幼い自分と一緒にクロウの部屋へと向かう。
 その様子を見届けたクロウは、カチャリとリィンから預かった鍵を回した。



□ □ □



「おかえり……って、何かあったのか?」


 クロウの姿を認めた幼いクロウが問いかける。平然とした様子の幼い自分にやっぱりなとクロウは内心で呆れる。リィンに隠していたのなら何もない振りをしようとするのも当然だ。
 だが、それが間違いであることを正すためにクロウはリィンに部屋の鍵を借りた。自分自身が相手だからこそ、伝えたいことがある。


「何かあったのはお前だろ。リィンが泣きそうな顔で俺たちのことを待ってたぞ」


 風邪のことは知っていると暗に伝えれば、幼いクロウはばつが悪そうに顔を背けた。気持ちは分かるけれどと思いつつ、クロウは質問を投げかける。


「いつからだ。今朝か?」

「……大したことじゃない。一日休んで大分よくなったし」

「あのな、俺に嘘つく意味はねぇからな?」


 誤魔化したところで分かる。そう伝えると幼い自分はゆっくりとクロウを見た。その表情に「ああ、やっぱりな」と再び感じる。やはり、この少年もクロウなのだ。


「体調が悪いなら素直に言っていいんだぜ? 無理して悪化させた方が迷惑になる」

「でも」

「これくらい大丈夫だと思った、か? だがリィンには隠さないでやれ。迷惑をかけたくないのは分かるが、それは迷惑じゃねぇよ」

「そんなこと……」

「リィンはそういうヤツだ。お前も知ってるだろ?」


 仮に逆の立場だったらどうだ、と尋ねると沈黙だけが返ってきた。つまり、そういうことだ。
 本当に大したことがなくても少しでも何かあれば言って欲しい。それはクロウがリィンに対して思っていることだ。同時に、リィンもまたクロウに対して思っていることだろう。


「……リィンは?」

「二人とも俺の部屋。だから心配しなくていい」


 再び黙った幼い自分の頭をクロウはわしゃっと撫でた。


「で、熱は?」


 もう大丈夫だろうとクロウは直球で質問した。ほんのりと顔が赤いことからまだ下がりきってはいないだろうなと思いつつ返答を待つ。


「……まだ少し怠い」

「そうか。飯は食えそうか?」

「まあ」

「それなら仕度するからお前は寝てろ」


 クロウの言葉に幼いクロウは頷く。やれやれと思うが、彼が昔のクロウなら仕方がないとも思う。
 もしかすると相棒も同じかもしれないが、そこは相棒が幼い自分にちゃんと話をしてくれていることだろう。

 それじゃあお粥でも作るか、と懐かしい記憶を胸にクロウはキッチンに向かうのだった。







(迷惑をかけたくない)
そう思ってしまうことは間違いだと、言ってくれる人はすぐ傍に