「お前ってさ、可愛いよな」
手元の本へ向けていた視線を上げれば、いつの間にかクロウはこちらを見つめていた。さっきまではテーブルに置かれているその雑誌を読んでいたはずだが、読み終わって暇にでもなったのだろうか。それにしたって突拍子がなさすぎるけれど。
「何なんだ、いきなり」
「いきなりも何も、リィン君が可愛いと思っただけの話だろ」
目で訴えても何も答えない友人に直接尋ねてもまともな返答は得られなかった。ただ本を読んでいただけで可愛いというのは如何なものか。相手が女の子だったのなら喜ばれるのかもしれないが、生憎リィンは男だ。かといって、唐突にカッコいいと言われたところで嬉しいかといえば微妙だ。
真面目に取り合うだけ無駄だろうか。思いながら溜め息を吐くと「そんなところも可愛いな」と言う始末だ。幾らなんでも適当すぎる。
「……変な遊びに人を巻き込まないでくれ」
「酷ぇな。俺は至って真面目だっつーのに」
どこがだ、と呆れるリィンの前にぱらぱらと捲られた雑誌が開かれる。今度は何だと思いつつもクロウが開いたページを見たリィンは唖然とした。
可愛い彼女をもっと可愛くする方法。
でかでかと書かれた見出しの近くには『これで意中の相手に意識してもらえるかも?』と恋人がいない人向けの宣伝文句まで載っている。そしてその方法とやらには『とにかく女の子を可愛いと褒めよう!』という何ともざっくりしたことが書かれていた。
「可愛いって言えばどんどん可愛くなるらしいぜ?」
だからどんなことでも可愛いと褒めてみよう。言葉の力で可愛い彼女はさらに可愛く、気になるあの子も君のことを意識してくれるはず。可愛いと言われて嬉しくない女性はいないのだから積極的にアタックしていこう。
記事に書かれているのは概ねそういった内容だった。本当かどうか怪しさも満点だが、何よりも。
「……どうして俺で試そうと思ったんだ」
急な発言の理由は分かっても納得ができたかといえば答えはNOだ。記事にもはっきりと女性と書かれているそれを何故男の自分に試したのかはさっぱり分からない。試すにしたってせめて可愛いは別の言葉に置き換えるべきだろう。
そう考えるリィンを余所に目の前の友人はきょとんとした表情を浮かべた。
「そりゃあお前が可愛いからだろ」
当然のように可愛いを繰り返されてリィンは頭を抱えたくなる。これでは一向に話が進まない。
「とりあえず一度、そこから離れてくれないか?」
「じゃあそういうとこも好きだぜ」
「いや、だから」
「分かった分かった」
何でそうなるんだと思ったところでクロウが雑に返事をする。本当に分かっているのかと怪訝な顔をしたリィンに漸くクロウは口を閉じた。
どうやらこちらの話を聞いてくれる気にはなったらしい。はあ、と溜め息が零れてしまったのは仕方がないだろう。
「それで、どうしてこれを俺で試そうなんて思ったんだ?」
「先に断っておくが、俺は別に嘘は吐いてねぇからな」
嘘、という言葉にリィンは首を傾げる。
嘘を吐いていたというよりも人をからかっていたが正解だろう。それなのに何故、嘘なんて単語が出てきたのか。不思議に思っているとクロウは小さく息を吐いた。
「試したんじゃなくて、実行したんだよ」
「同じじゃないか?」
その二つのどこが違うのか。試したくなって、実行した。そういうことだろうと見つめれば、呆れたような顔をしたクロウはぼふっとソファに凭れ掛かった。
「それ、読んだよな」
「読んだけど……」
「たまたま一緒にいたのがお前だったんじゃなくて、お前だから言ってるんだ」
時々、クロウは凄く回りくどい言葉を選ぶ。もっと分かりやすい言葉だって持っているはずなのにあえてストレートには言わない。
その上、伝わらなくても構わないという風にさっさと流してしまうことも多い。そこへこちらが踏み込んでも答えないあたり、伝わらなくてもいいからこそ遠回しな言葉を選んでいるとさえ感じる。故に今回もそうかもしれないと思いつつもリィンは頭の中で友の言葉を紐解く努力をした。
「……俺は男なんだが」
「意中の相手を落とすにもこれが効果的らしいぜ?」
つっても全員が全員ってわけじゃなさそうだけどなぁと語尾を上げながら赤紫がこちらを見る。会話が噛み合っているのかいないのか。そこから怪しくなってくるが、言われてリィンはもう一度だけ雑誌に視線を落とす。
明らかに男性向けの記事だが、言葉さえ変えれば意中の相手――つまり女性から男性にも使えるのかもしれない。効果的といっても百パーセント成功するわけではないだろうけれど、この特集はそれを推しているのだろう。どの道自分たちは同性だが、男にも効果があるのかと試した以外に何があるのか。
「……好きな子に試す前に試しただけなら、効果は出なくてもいいんじゃないか」
「だから、試したわけじゃないって言ってるだろ」
考えて、何とか見つけ出した答えもあっさり否定されてしまった。
試したわけではない。嘘を吐いてもいない。そう言われても肝心なところを話してくれないのだからなかなか核心には近づけない。
それなら何だと思ったリィンにクロウは一つ、質問を投げ掛けた。
「意中の相手の意味は?」
シンプルな問いの答えは簡単だった。
「好きな人、じゃないのか」
「そう言ってるんだよ」
つまり、そう考えようとしたリィンの前ではあとクロウは盛大な溜め息を吐く。視線を上げれば、呆れたようにこちらを見つめる赤紫とぶつかった。それから間もなくのことだ。
「お前が好きだ、って言やあいい加減納得してくれるか」
その言葉にリィンは目をぱちくりとさせた。
好き。好きな人。
意中の相手、を落とす方法。それが可愛いと相手を褒めること……?
一つずつ話題を遡ったリィンはそこまで考えたところでようやっと、この友人が突拍子もなく可愛いと言い出した理由を理解した。瞬間、頬にはほんのりと朱色に染まる。
「え!? いや、だって俺は――」
「ま、そういうとこもお前らしくて好きだけどな」
そしてクロウはまた繰り返す。今度は可愛いではなく好きになったが、クロウの言おうとしていることはどちらも変わらないのだろう。
男だとか、そういうことは関係ないのだろうか。しょっちゅう人のことをからかう友人とはいえ、嘘ではないと前置きしてまでこんなことは言わないだろう。むしろ嘘なら前置きなど不要だ。
どうしたらいいのか。予想もしていなかった友人の発言に頭の中がぐるぐると回る。好き、と言われて悪い気はしないけれど。
「こうやって何度も言い続ければ意中の相手も振り向いてくれるらしいし、やってみる価値はありそうだろ?」
そう言ったクロウはふっと柔らかな笑みを浮かべた。
正直、それを聞かれても困るけれど「そういうことだから」と立ち上がったクロウはそのまま歩き、やがてぽんと左手をリィンの頭に乗せた。
「暫く付き合ってくれよ。そしたら終わりにできる」
「え……?」
「その代わり、暫く家事は俺が引き受ける。どうだ?」
どうだ、と言われてもやっぱりリィンにはどうしたらいいのか分からなかった。何より、終わりにできるというのはどういうことなのか。何故か、その一言に心がざわついた気がした。
「…………クロウは、それでいいのか?」
どちらかといえば、クロウがリィンに見せた雑誌は真逆のことが書かれていたはずだ。そしてクロウの発言もそういった話だと思っていたのだが、違ったのだろうか。
困惑しながら尋ねると、クロウは口の端を緩めてああと肯定を返した。
「俺たちも結構長い付き合いになるしな。この辺りが頃合いだろ」
それはリィンに対しての言葉だったのか、それともただの独り言だったのか。
どちらとも取れる呟きの後にクロウはくしゃっと優しくリィンの髪を撫でてキッチンへ向かって行った。おそらく夕飯の支度をするつもりなのだろう。
別にクロウが一人で家事をすることはないのだが、直前の発言に気を取られてすっかり言うタイミングを逃してしまった。クロウからすれば自分の都合に付き合わせるからそれくらいは、ということなのだろう。
だけど、一緒に暮らしているのだから家事を分担するのは当然のことだ。それについては後で訂正を入れておくとして。
ちらり。冷蔵庫を開ける友の後ろ姿を見つめる。
好き、というのはそういうことなのだろう。ああもはっきりと伝えられた言葉を疑うつもりはない。どこが好きだとか、いつから好きだったのかとか。気になることはあるけれど。
「……暫く、ってどれくらいなんだろう」
ぽつり、疑問が零れる。
冗談ではない、本気の言葉で。可愛いはともかく好きと何度も、何度も繰り返されたら。
(おかしくなりそうだ)
心の中でひっそりと呟いたリィンはふと、窓の外を見た。程なくして目に映った景色に、そういえばクロウと出会ったあの日もこんな夕焼けだったなと何とはなしに思った。
可愛いと重ねて
意中の相手を落とす、らしいけど
(クロウの狙いはどっちなんだろう)
そう考えた瞬間の心のざわめきの理由をリィンはまだ知らない