「結婚しよう」


 零れた音にぴたり、まるで時が止まったかのように同居人が固まった。
 どれほどの時間が経ったのか。静かな部屋に流れ続ける水の音だけが響く。洗い物の音は途切れたままだが、水を出しているということはまだ途中なのだろう。

 しかし、結局それ以上食器の音が聞こえることはなかった。

 やがて水の音も止まり、ゆっくりと青紫の双眸がこちらを見た。同じ紫でも自分とは違う、透き通るようなその瞳に惹かれたのはもうずっと昔の話だ。


「これからもこうしてお前と一緒にいたい」


 自分を見つめる瞳を見つめ返して、告げる。いつだって幼馴染みと過ごす時間は特別だった。楽しい、一緒にいたい、好き。どれもが幼い頃から胸に抱き、幾度となく伝えてきた言葉だ。
 何も言わないリィンにゆっくりと立ち上がり、恋人のいるキッチンまで歩く。その間、青紫は一度も逸らされることなく、ただこちらを見つめていた。


「俺は、お前のいない未来が考えられない」


 好きだから、一緒にいたい。たったそれだけの、けれど一緒にいるのにこれ以上の理由もないだろう。
 昔から何度も伝えてきたその言葉に幾つかの意味があるのだと知ったのは、中学生の時だ。共にいるためには何が必要なのかと現実的なことを考えるようになったのは高校生になってから。一緒にいたいから、ただの幼馴染が恋人という関係に名前を変えたのはリィンの大学進学がきっかけだった。

 けれど、きっかけはあくまでもきっかけに過ぎない。この先も今のまま、ただ一緒に暮らせれば幸せであることも否定はしない。でもそうじゃない。もしそれで十分ならそもそも俺たちの関係は幼馴染から変化することはなかった。
 ただの幼馴染ではいられなくなったのは、それ以上の感情を抱いていたから。そして、それこそが俺たちが今ここで一緒に暮らしている理由だから。やっぱり、いつまでも今のままではいられない。いや、好きだからこそその先を考えた。


「お前といたいんだ、リィン」


 出会ってから二十年、恋人になって五年。当たり前のように隣にいる幼馴染にこの先も隣にいて欲しい。昔から思っていたそれをもう、俺たちは実現できる年齢になっていた。
 もちろん出会った当初は碌に結婚の意味も知らなかったが、今は違う。お互いに社会人になって、リィンも今の仕事が大分落ち着いてきた。伝えるにはいい頃合いだろうと少し前から考えていた。どうやって伝えるべきかは迷ったけれど、当たり前にそこにいてくれるリィンの姿を見ていたら自然と声に出た。


「…………クロウは、いつも突然だな」


 たっぷりと数十秒が経った頃、黙って話を聞いていたリィンの唇が動いた。僅かに落ちた視線の意味は、なんとなく分かる。


「これでも色々考えてるんだがな」

「分かってるよ」


 分かってる、と微かな声が届く。再び訪れた沈黙を崩したのは、一粒の雫だった。


「ごめん、違うんだ」


 一つ、二つ。次々と溢れ出したそれを乱暴に拭おうとする手を掴み、ぐっと引き寄せたらいとも簡単にリィンの体は腕の中に収まった。


「擦ったら目が腫れるだろ。分かってるから変な心配はすんな」


 ぽんぽんと背中を叩いたらこくりと黒髪が動いた。謝らなかったのは成長したということだろう。だから謝るな、と心優しい幼馴染みに言った回数は両手で数えられる数をとうに超えている。
 けど、この幼馴染みが泣くところを見た回数は両手でも余る。心配を掛けて泣かせたこともあった。どうにか泣き止ませたくて今みたいに抱きしめたり、柔らかな黒髪を撫でたこともあったが、そのあたりは昔から変わっていないのかもしれない。


『クロウ!』


 こっちに気付くなり嬉しそうに名前を呼んで駆け寄ってくる幼馴染みが好きだった。幼い頃の好きと今の好きは全く同じではないけれど、どちらも同じ好きであったことは俺たち自身が一番よく知っている。
 付き合いが長いからといって何でも分かるわけではないが、その分だけお互いを知る時間はあった。家族の次に時間を共にし、何よりもずっと近くで見てきた。ある程度のことなら分かるようにもなる。何でも抱え込みがちな幼馴染のことを分かるようになりたかった、というのもあるかもしれないけれど。


「クロウ」


 不意に、耳に馴染む声が呼ぶ。変わったこと、変わらないこと。二十年も付き合っていればそのどちらもたくさんあるが。


「俺も、クロウと一緒にいたい」


 いつだって真っ直ぐに気持ちをぶつけてくるところは昔から変わらない。真っ直ぐすぎる想いがどれほど人の心を射ぬいていたのか、知らないのは本人だけだろう。


「好きなんだ、クロウ。付き合えたことも夢みたいで、結婚できたらどんなに幸せだろうって、ずっと……」

「……本当に、お前は」


 どれだけ人を喜ばせる気なんだ、という言葉を飲み込んでそっとリィンの体を離す。そして見上げる青紫を見つめ返して、伝える。


「夢じゃないし、幸せにする」


 その涙が拒絶から来るものでないことは分かっていた。それでも突然溢れた涙に戸惑い、とにかく気持ちを伝えようとしてくれたリィンのそういうところも好きだ。
 そんなリィンだから、どんどん惹かれていった。いつも後ろを付いてきた一つ下の幼馴染は昔から俺の中心にいた。リィンが喜んでくれるか、笑ってくれるか。本当に俺の考えていることはガキの頃から変わらない。これが恋だと気付いた瞬間は納得しかしなかった。ああそうか、と。すんなり胸に落ちた気持ちは、この先も絶対に変わらない。

 すうと息を吸って、吐いて。人生でたった一度きりの言葉を口にする。


「お前の一生を俺にくれ」


 俺の一生をお前にやるから。

 瞬間、青紫が揺れる。間もなくして透明な雫が細まった目尻から零れ、ほんのりと朱に染まった頬を伝った。微かに震えた唇を結んだ彼女は、ふっとその端を持ち上げた。


「これ以上ない、贈り物だな」


 少しだけ潤んだ声でリィンは笑った。その表情につられるように頬が緩む。


「言っておくが、返品は利かねぇぜ」

「するわけないだろ」


 頼まれたってお断りだ、と話すリィンに「その言葉、忘れんなよ?」と言えば当然のように「一生忘れないよ」と優しい声音で返された。
 それから間もなくして互いの熱が溶け、ぶつかった唇に胸が満ちた。同時に幸せだと思う。けれどそれはこれからもずっと、リィンがいる限り何度だって感じるのだろう。そのことがまた幸せだと感じる。


「好きだ、リィン」

「俺も」


 再び重なった唇から溢れんばかりの想いが伝わった。







そしてこれからもずっと、いつまで一緒に


「リィン、好きだぜ」
青い空の下、幼馴染に告げた言葉を今も俺はお前に伝える