一日の仕事を終えて帰宅をすると、今日は同居人の方が先に帰っていたらしい。ただいま、と声を掛けようとして止めたのはリビングに入ってすぐに同居人がソファで転た寝をしていることに気が付いたからだ。
 珍しいなと思いながら、けれどきっと疲れているのだろうと隣の部屋から毛布を持ってくる。それから夕飯の支度をしようとキッチンに向かった。








 トントンと規則正しい音が聞こえてくる。心地好いリズムに耳を傾けていると今度は香ばしい匂いが漂ってきてゆっくりと瞼を持ち上げた。


「ん…………」


 まだ覚醒しきらない頭でぼんやりと見慣れた天井を見つめる。
 ああ、寝ちまったのか。思ってすぐにクロウは自分に掛かっている毛布に気が付いた。じっとそれを眺めながら自分で持ってきた記憶はないなと考えていると「あ、起きた?」と声が聞こえてくる。当然クロウはその声の主をよく知っていた。


「トワ、帰ってたのか」

「うん、一時間くらい前に。ただいま、クロウ君」

「おかえり」


 挨拶を交わして微笑む。何てことのないやりとりに心がほかっと温まる。
 何てことはない――今し方そういったばかりだが、その当たり前が幸せの一つであることを自分達は知っている。けれどそれ以前に大切な人が帰ってきたら、帰って大事な人に会えたら嬉しい。単純にそういった気持ちの割合も大きい。彼は、彼女はそういう特別な相手だ。


「珍しいね、クロウ君が起きないなんて」

「そうか?」

「前は近くに行ったらすぐに気が付いてたでしょ?」


 言われて「あー……」とクロウは自身の記憶を辿る。確かに身に覚えは十分過ぎるほどにあったがあえてそこには触れず、思い出した懐かしい記憶の方を持ち出した。


「トワはすぐ騙されてたよな」

「あ、あれはクロウ君が寝た振りをするからでしょ……!」


 寝た振りでも間違いではないが、正しくは起きていない振りをしたと言うべきだろう。トワが近くに来た時点で目を覚ましてはいたもののちょっとした悪戯心が生まれてしまったという話だ。あの時のトワの反応は面白かったよなと言えば「もう」とトワはほんのり赤くなった頬を膨らませた。


「クロウ君はすぐに人をからかうんだから」

「そんなことねぇだろ」


 否定した後に「けどからかいがいはあるよな」と続けたそれには冗談が含まれているものの誰彼構わずやっているわけではないことはここだけの話だ。
 いや、隠しているというほどのことでもないそれに気付いている人間も少なくなかった。それこそ親しい友人達にはいつも温かい目を向けられていたくらいだ。だがそれも含めて今では懐かしい思い出といえるだろう。


「でも」


 聞こえてきた声にクロウはあの頃より大人びたもののどこか幼さの残る友人を見る。


「クロウ君、楽しそうだったよね」


 言ってトワはふわりと笑った。だからしょうがないなとあの頃のトワもいつも笑っていた。
 休み時間のちょっとしたやり取り。穏やかなその時間はトワの士官学院時代の大切な思い出の一つだ。それは勿論クロウにしても同じ。だからこそ。


「ま、楽しいから今も一緒にいるわけだしな」


 そうでなければ共にいることを望んだりはしない。お互いにそれを望んだからこそ、二人はこうして同じ屋根の下で暮らすようになったのだ。
 その理由は楽しいからの一言で片付けられるものではないけれど、クロウの言葉にトワも「そうだね」と頷いた。そして、その理由の中には数刻前にトワが尋ねた問いの答えもある。


「……お前といると安心出来るんだろうな」


 ぽつりと呟くと黄緑の双眸がクロウを映した。
 それに小さく笑みを浮かべたクロウは「トワ」と呼びながらその腕を軽く引いた。するといとも簡単に小柄な体がクロウの腕の中へすっぽりと収まる。


「やっぱあったけーな」


 ぎゅっと抱きしめながら言われたそれに「クロウ君の方があったかいよ」とトワが赤紫を見上げる。さっきまで寝てたからなと言いながら程よい高さにあった肩口にクロウは顔を埋めた。


「トワって子供体温だよな」

「またそういうこと言うんだから。わたしだって成人してるし、クロウ君とは一つしか違わないよ」


 だから子供扱いはどうかと思うと言いたげな友人に「けどなぁ」とクロウはからかう。中身は間違いなく大人だが、見た目で年下に見られることの多い友人はいつになったら年上に見られるようになるのか。
 そんな日はこないのではないかとさえ思うけれど流石に十年、二十年と経てば子供には見られなるのだろうかとトワが聞いたら怒りそうなことを考えながら「だが」とクロウは口を開く。


「若く見られるのは悪いことでもねぇだろ?」

「若く見られるのと子供扱いは違うと思うな」

「子供扱いはしてねーよ?」

「今したばっかりでしょ」


 子供体温だと言ったそれについて指摘するとそれは子供扱いでもないだろうと返ってくる。その後のやり取りも含めて誰がどう聞いても子供扱いしていると思うのだが、そんなことはないと言いながらトワの頭をぽんぽんと撫でるのはわざとではないだろうか。


「ほら、そうやってすぐにわたしのことを子供扱いする」

「これは子供扱いじゃなくて恋人扱いだろ」


 さらっと言われたそれに一瞬だけトワは返答に詰まった。けれどすぐに「それならわたしもクロウ君に同じことをするよ?」と問い掛ける。これが恋人扱いだというならばトワにも同じ権利があるはずだと、言える間柄になって久しいのが今の二人だ。
 さて、これならどう出てくるか。そう考えたのも束の間、すぐ傍でククッと喉が鳴ったかと思うと「別に良いぜ?」と恋人は口角を持ち上げた。


「届くならの話だけど」

「今なら届くよ」


 ほら、と伸ばされた手が銀糸に触れる。それから赤紫がそっと細められたことに気が付いたトワがあれ? と思ったのはほんの僅かな時間。


「もしかしてクロウ君、まだ眠い?」


 眠い、という言葉を選んだのは何となく。でもそれが正しかったことは少々間を空けながらも「少しな」と返ってきたことで分かった。
 彼がソファで転た寝をしているところを見つけた時も珍しいと思ったけれど、もしかしたら今日はそういう日なのかもしれない。だからトワはそれ以上追求することは止めた。


「そっか。お疲れ様」

「トワもお疲れ。悪いな、夕飯」

「ううん、このくらい気にしないで。もう少しで出来るんだけどどうする?」

「なら手伝う」


 そう答えるクロウに休んでて良いよとトワが言うより早く「そんでまた後で付き合ってくれ」と恋人は続けた。意外な言葉にトワが目をぱちくりさせると、無理にとは言わないとすぐに補足が加えられる。そんなところは彼らしいけれど、やっぱり今日はそういう日なのかもしれない。
 そういう――甘えたい日。こういうことは素直に言わない恋人にしては珍しく、でも僅かに見え隠れするそれにトワの口元は自然と緩んだ。


「うん、それじゃあサラダを作ってもらっても良いかな?」

「おう、任せとけ」


 言いながらクロウはゆっくりと腕を解く。そして先に立ち上がったトワに続くようにして二人はキッチンへ向かった。

 彼女の隣は居心地がよく、とても安心出来る。当たり前に隣に在るそれに警戒心を抱かないのは当然で、それほどまでに心許せる相手が傍にいてくれることが幸せだなと思う。
 心を許されて、以前なら隠していたと思われる部分もちゃんと見せてくれるようになったことが嬉しい。この先もずっと、一緒に笑っていられる明るい未来が広がっている。何てことのないこの日常を彼と過ごせる毎日に幸せを感じる。

 並んで夕飯の支度をしながら何となしに横を見たら丁度目が合って、二人はどちらともなく笑い合った。それから「そういえば」ととりとめのない話をしながら今日も変わらぬ一日が過ぎていくのだった。










fin