静かな店内に入り口のベルの音が響く。
いらっしゃいませと振り向くとリィンは軽く頭を下げる。時刻は夕方。店に来るならこのくらいの時間だろうと思っていた。
「いつものでいいか?」
「はい」
鞄を置き、コートを脱いだところで尋ねる。予想通りの返事に頷いてカウンターでカップを取り出す。そうしていつもと同じように豆を挽く。
少しだけ時間をかけてお湯を落とすと、粉がゆっくりと膨らんだ。そのまま静かにカップへ注ぐ。
「お待たせしました」
トレイに載せてテーブルに運ぶとリィンは「ありがとうございます」と微笑んだ。そんな小さなことにも胸がほんのりとあたたかくなる。
「美味しいです」
「そりゃよかった」
その言葉にも胸が満たされる。考えるより先に心が感じてしまうのだから、意識しないようにしようとしても無理な話だ。平静を装って返すことにも慣れたものだと思う。
ごゆっくりと告げてカウンターに戻る。それから視界に入ったカップを見て布巾を手に取った。ひとつ、ふたつ、とカップを拭き上げていく。
ふと視線を上げると、リィンは勉強を始めた様子だった。
教科書とノートの間を視線が行き来する。この時期だと期末テスト前だろうか。
ちらりと時計を見て、視線を落とす。
手元のカップを揃えてカトラリーをまとめる。続けてミルクや砂糖を補充し、カウンターを拭きながら様子を窺うと随分集中しているようだ。
(……そろそろいいか)
時計の長針がもうすぐ一周しようとしている。
そっと視線を戻し、布巾を置く。一区切りをつけるのにいい頃合いだろう。冷蔵庫の中から作っておいたそれを取り出した。
「少し休憩にしないか?」
ことり、テーブルに皿を置く。
音に反応するように青紫の瞳がこちらを映した。
「パウンドケーキ、ですか?」
「今回はバナナだな」
勉強道具を端に寄せ、皿を手前に動かす。おしぼりで手を拭いたリィンは両手を合わせた。
そっとフォークを入れると生地がふわりと沈む。そのまま一口大に切り分けたケーキをぱくりと口に運んだ。
「しっとりしていて美味しいです。甘さも丁度いいですね」
リィンの言葉に、小さく笑みが浮かぶ。
「俺はこれ、結構好きです」
さらっと続いたその発言に胸の奥が微かに揺れる。
そのせいで返答が僅かに遅れた。
「……そうか」
けれどリィンは気に留める様子もなく、ケーキの欠片を口に運んだ。
そのことにほっとしながらも、ダメだなと心の中で呟く。
美味しいと言ってもらえるのは嬉しい。他の客でも祖父でも、それは変わらない。だけど、リィンの言葉だけはどうしても胸に残ってしまう。
好きだなと思うのは何度目だろう。いつまでこの距離は許されるだろう。
「よかったら残り、持っていくか?」
お皿のパウンドケーキが小さくなっていくのを眺めながら何気なく尋ねる。その言葉にリィンは手を止めて視線をこちらへ向けた。
「いいんですか?」
「頭使うと甘いものが欲しくなるだろ」
「それならお代は払います」
「いいって。練習で作ったモンだし、気に入ってくれたなら俺も嬉しい」
その言葉に嘘はない。お金をもらうようなものではないのは事実だし、余っているものだから遠慮をする必要もない。
それでも、こうして真面目に考えるところがリィンらしい。ただの差し入れからはじまったこの関係がこんなにも続くなんて、あの時は想像もしていなかった。
「ごちそうさまでした」
フォークを置いたリィンは両手を合わせ、小さく頭を下げた。
「ほどほどにな」
「はい」
空になった皿を手に取り、テーブルを軽く拭きながら告げる。短いやりとりを終えてカウンターに戻ると、リィンは勉強を再開していた。
さーっと水を流す音が静かな店内に響く。
使い終えた食器を片付けていると、つい視線がリィンへと向かった。あのペンの下では丁寧にノートがまとめられているのだろう。そんなことを考えながら、こちらもまた手を動かす。
きゅっと水を止めて皿を重ねる。それから雫を拭き取り、いつもの場所へ戻す。
冷蔵庫を開けてパウンドケーキを取り出し、食べやすいように切り分ける。それらをひとつずつ、包み紙でくるんでいく。
包み紙を折る音だけが静けさの中に溶けていった。
喫茶店の距離
そっと近づく気配と、変わらないふり