気がつけば太陽は西の空に傾き、徐々に空が夕焼け色へ染まり始めた頃。いつものようにこの店を訪れたリィンは今日も奥の席でノートを広げている。
その様子を暫し見つめたあと、小さく息を吐いて手元の食器に視線を落とす。他にお客さんがいないとはいえ、仕事を疎かにするのはよくない。分かっているのについ、視線が向いてしまう。これがまた無意識だからどうしようもない。
ちら、と見た冷蔵庫にはまたパウンドケーキが入っている。
バレンタインのチョコケーキもそうだが、クロウは軽食と比べてデザート作りの経験が少ない。自分自身が甘いものをあまり食べないこともあり、これまでも練習で何度か作ったことはあるものの苦手な分野だ。
それでも必要なものだからこそ、まずはチョコケーキに挑戦した。ハードルは高かったがどうしても作りたい理由があった。何度も試行錯誤を重ねた末、漸く形になったそれにリィンは笑ってくれた。
次に挑戦したのがこのパウンドケーキだ。初心者向けだと思って選んだもののシンプルに見えて意外と奥が深かった。こちらも何度か作り直してリィンに美味しいと喜んでもらえた。
とはいえ、ケーキは繊細な食べ物だ。一度成功したからといって次も必ず成功するとは限らない。そうしてまた再び作ったものが今、冷蔵庫で静かに眠っている。
(どうしたものかな……)
休憩を促すにはいい頃合いだろう。けれどテスト直前、最後の追い込みという状況だ。休憩は必要だがコーヒーくらいに留めておくべきか。
ただの差し入れとはいえ、以前からの練習に付き合う約束もある。変に気を回されるのは本意ではない。
(そこまで気にしないとは思うが)
どうするべきか、と思考が戻ったところでそっと息を吐く。
ごちゃごちゃ考えていても仕方がない。こちらが軽く言えば、向こうだってそう受け取るだろう。誰もが過ごしやすい空間を作る上で本質を見失っては意味がない。
冷蔵庫を開けたクロウは必要なものを取り出した。丁寧に盛り付けたお皿をトレーに載せて向かうのは、参考書と睨めっこしている彼の元だ。
「そろそろ一息入れたらどうだ?」
声をかけた瞬間、青紫の瞳がこちらを映す。
目が合ったところで小さく笑みを返し、テーブルの端にケーキを置く。ついでに空になったカップを引き上げ、先程淹れたばかりのコーヒーカップと入れ替えた。
「あ、すみません」
「集中するのはいいことだけどな」
でもそればかりでもよくない、という話もある。集中力にも限界はあるし、脳が疲れれば効率も悪くなるものだ。適度な休憩は勉強をするうえで必要なものといえるだろう。
余計なお世話かもしれないが、ここをその場所に選んでくれたのならできる限りの手伝いはしたい。それだけのことだから謝る必要はない。
「あれ、これ……」
テーブルへ視線を向けたリィンが呟く。その疑問の意味は聞かずとも分かった。
「少し変えてみた。よければついでに試してくれ」
「そうなんですか。では、いただきますね」
きちんと両手を合わせてからフォークを差し込む。当たり前のようにケーキを口に運ぶリィンを見ながら、やっぱりこっちが気にしすぎているだけかと心の中で呟く。
そうして見ているとリィンの表情が変わったのが分かった。それからすぐ、リィンはクロウを見上げた。
「前よりしっとりしていますね。この間のも美味しかったですが、こっちの方が口当たりが柔らかい気がします」
意外と違うものですねと言ってリィンはまた一口大にケーキを切り分ける。そしてもう一度、すごく美味しいですと告げた。
「なら成功だな」
素直な感想に胸がじんわりと熱くなる。作った者として嬉しいのはもちろん、それだけではないあたたかさが心の中に広がる。
意識しすぎているだけだとしても、これが偽物だとは思っていない。だから、何度も思ってしまうのだろう。
「今度は味を変えてみるのもいいかもな」
「季節限定とかですか?」
「それもいいけど、俺のはまだ練習」
店に並べるのとは別だと言えば「そうなんですか」と返す声がどこか寂しそうに聞こえた。気のせいかもしれないが、胸の奥が微かにざわつく。
「ま、その時はまた付き合ってくれると助かる」
「俺でよければ、もちろん」
迷わず頷かれて思わず頬が緩む。好きだな、と何度目になるか分からない言葉を胸の内だけで零す。
最後の一欠片を食べ終えたところでリィンは再び手を合わせた。皿に置かれたフォークもまとめてトレーに載せ、カチカチとシャーペンの芯を出すリィンを横目にカウンターへ戻る。
この先もずっと、この関係が続いたらいい。
そんなことを思いながらシンクの水を流した。
もう少しでリィンが初めてこの店を訪れてから一年になる。来年も、その先も、同じやりとりを続けていられたら――細やかな願いを心の底に沈め、皿についた泡を洗い落とす。
いつの間にか、水音は静かに吸い込まれていった。
喫茶店の温度
胸の奥で育つぬくもり