いつもの席に座りながら静かに本を捲る。テストも終わり、少し前に発売された小説を漸く読むことができる。
なんとなくページを追っているけれど、どこか集中できていないことには自分でも気づいていた。最近はテスト勉強のために寄ってばかりだったから、こうやってゆっくり過ごすのも久しぶりだ。ふんわりと漂うコーヒーの香りに気持ちが落ち着く気がした。
「テスト終わったんだな」
お待たせしました、とテーブルに料理を並べながらクロウが言う。できたてのフィッシュバーガーの傍にはポテトとオニオンリングが添えられている。
「今回もお世話になりました」
「集中できたなら何よりだ。今日はゆっくりしていけよ」
「ありがとうございます」
小さく笑みを浮かべたクロウはカウンターへ戻っていく。その姿を見送ったところでリィンはフィッシュバーガーを手に取った。
ぱくりと一口かじると、衣がサクッといい音を立てる。揚げたてのあたたかさと一緒に白身魚の柔らかい風味がふわりと広がっていく。
やっぱり、この店の看板メニューはいつ食べても美味しい。
だけど、リィンの頭には以前クロウが同じものを作ってくれた時のことが過る。マスターと同じようで少しだけ違う、彼特有の味。あの優しい味もリィンは好きだった。
最後の一口を食べたところで何気なくカウンターを見ると、クロウと目が合った。あっ、と思ったところで視線が逸れる。
気にしすぎかと思ったが、また目が合った。僅かに赤紫の瞳が動く。それから間もなく、クロウはカウンターを出た。
「どうした?」
「すみません、特に用があったわけじゃないんですが……」
「何だそれ」
そう言ってクロウは笑った。つられるようにリィンも微笑む。
ふと、彼の視線がテーブルへ落ちる。
「下げていいか? コーヒー、飲むなら淹れる」
「じゃあお願いします」
分かったと頷いたクロウはお皿とカップを下げていく。
お昼もピークを過ぎたのだろう。店内は入った時と比べて空席が見られるようになった。マスターは厨房で料理をしているようで、クロウはカウンターを行き来している。
窓からはそっと日差しが差し込む。二月ももう終わりだ。徐々に寒さも和らぎ、暖かな季節へと移り変わっていくのだろう。
「悪い、待たせたな」
振り向くと、テーブルの上にコーヒーとパウンドケーキが置かれた。
パウンドケーキは少し前にクロウが練習していたけれど、目の前にあるそれは何かが違う気がして首を捻る。
「ゆずをもらったから試したんだ。アレンジの勉強にもなると思って」
似たようなものばかりで悪いが、と話すクロウにリィンは首を横に振る。他の味も試すのであれば気になっていた。
そう思ったところであれ、と引っかかる。
何かは分からない。何だろう。分からないまま視線を上げると、クロウは「よければ食べてくれ」とだけ続けた。確かに、せっかく淹れてくれたコーヒーが冷めてしまうのももったいない。
「……本当、美味しそうに食べるよな」
コーヒーを飲み、ケーキを一口食べたところで耳に届いたそれに「え?」と零す。
優しいゆずの風味を楽しんだリィンの視線はすぐ横に向かう。
「そうですか?」
「あー……いや、そうだな。作った側として嬉しくなる」
そう言いながらクロウは視線を逸らす。その言葉に嘘がないことはなんとなく分かる。でも、どうして言い淀んだのだろう。
手元にはクロウが作ってくれたものが並んでいる。そんな風に言われたのは初めてだけど。
「美味しいのは本当です。前にも言いましたけど、俺はクロウさんの作る料理が好きです」
食べている時の自分の表情は分からない。だけど本当に美味しいから、それが表情に出ていたとしてもおかしくないと思う。
そう答えると暫く沈黙が流れる。不思議に思ってそっと顔を上げた時のことだ。
「…………お前、本当にさ」
そこまで言ってクロウはまた言葉を止めた。
どうしたんだろう、と首を傾げる。そういえば、前にも似たようなことがあった気がする。あれはいつだったかと考えたところで、小さく息を吐くのが聞こえた。
「なあ、変なこと言ってもいいか?」
変なこと? と頭の中で繰り返す。クロウが何を言おうとしているのか分からないけれど、リィンに断る理由はない。
はいと頷くと、クロウは一度目を閉じてゆっくり息を吐いた。瞼の下から再び赤紫の瞳が現れた時、彼は徐に口を開く。
「好きだ」
告げられた言葉に、一瞬理解が追いつかなかった。
好きという言葉もその意味も、知識としては知っている。ただ、それが今。目の前の彼から自分へ向けられているという状況がすぐに結びつかなかった。
「好き……?」
「いつからかは覚えてない。けど多分、出会った頃から惹かれてた」
真っ直ぐな瞳がリィンを映す。とくん、と心臓が音を立てた。
好き、と復唱すると色々な出来事が頭を巡った。あれもこれも、幾つもの欠片がひとつに繋がっていく気がした。
――ああ、そうか。
あたたかいものがじんわりと心の真ん中から広がっていくのが分かった。
「……俺も多分、そうなんだと思います」
声に出したらすとんと胸に落ちた。
リィンの言葉に大きく目を開いたクロウはやがて、すっと瞳を細めた。
「そうか」
その声がとても穏やかで、また胸が音を立てたような気がした。
小さく息を吐いたクロウはほんの少しだけ視線を落とす。
「それじゃあこれからも……は違うか」
「違う?」
「店の中だけなら今までと変わらないだろ。……今よりもっと、一緒にいたい」
優しい声音に心がいっぱいになる。
お前は? なんて聞かれたら、返す言葉はひとつしかない。
「……俺も、そう思います」
リィンの返事に「そうか」と零したクロウは、ほんの僅かに口元を緩めた。その柔らかい表情に胸がまたあたたかくなる。
二人の間に落ちた静けさは以前とは違っていた。
それはあたたかくも優しい、穏やかな時間。
喫茶店のその先
変わらない場所と、少しだけ変わった二人