「あ」
零れた声が重なる。片方は見慣れた、もう片方は見慣れない制服姿。しかし考えてみれば学生同士、こういったことも普通に有り得るだろう。
「よお。こんなとこで会うなんて偶然だな」
「そうですね。クロウさんも学校帰りですか?」
「まあな」
放課後。今日発売の新刊と参考書を買いに書店に立ち寄ると、行き付けの喫茶店の店員に出会った。
今までは喫茶店でしか会ったことがなかったから学生服を着ている姿はなんだか新鮮だ。けれど普段はリィンと同じように、彼もこの制服を着て教室で授業を受けているのだ。そんな当たり前のことが不思議に感じたのは、今までは喫茶店での彼しか見たことがなかったからだろう。
「それにしても参考書か。勉強熱心だな」
そう考えていたところで聞こえてきた声にリィンは顔を上げる。すると、クロウの瞳はすぐそこの棚へと向けられていた。そこに並んでいたのは今し方クロウが言った通り、各教科の参考書だ。
しかし、ここで鉢合わせたということはクロウの目的も同じではないのだろうか。店内を歩いていてたまたまここを通り掛かったという可能性もあるけれど。
「いつもどれ使ってるんだ?」
聞かれて、リィンも先程まで見ていた棚へと視線を戻す。そこから普段使っている参考書を見つけ出したリィンはそれを指差して答えた。
「俺はこのシリーズです。具体的な解説が載っていて分かりやすいので」
「なんだ、同じか」
クロウの返答を聞いてやはり彼の目的も自分と一緒だと知る。前に勉強は最低限でいいだろうと話していたけれど、彼なりの最低限はきちんと押さえているということだろう。何だかんだでちゃんとしているのは前に思った通りだ。
それから二人はそれぞれ目的の参考書を手に取る。
そのまま会計を済ませた二人は、途中まで方向が同じだからと並んで歩き始めた。
「数学、苦手なのか?」
程なくして投げ掛けられた疑問にリィンは苦笑いを浮かべながら頷く。おそらく、先程リィンが購入した参考書を見て気になったのだろう。
「応用になってくると難しくて」
全く分からないというほどではないけれど、リィンは五教科の中では数学が一番不得手だ。基本まではいいのだが、そこから応用が入ってくると複雑になりミスをしてしまいがちになる。
テストでは問題が多いために時間もあまりなく、一つミスをしてしまうと後に響いてケアレスミスが生まれる。それでも平均点は越えているのだが、なかなか思うようにいかない科目だった。
「なら教えてやろうか?」
「えっ?」
突然の提案に思わず聞き返したリィンに「俺は得意な方なんだよ」とクロウは話す。二年生の問題なら分かるだろうからと一つ上の先輩は言うけれど。
「でも、クロウさんも自分の勉強があるんじゃないですか? それにお店のことも……」
「あんま二年の範囲までは戻らなねぇからな。俺も復習になるし、お前にはいつも協力してもらってるからそのお礼」
協力というのはいつものあれのことだろう。だがそのお礼なら以前、前払いとしてケーキを受け取っている。言えば、ケーキ分はとっくに協力してもらっただろと返された。
「むしろケーキ一つでよくここまで付き合ってくれてるよな」
「いや、俺はただクロウさんの料理を食べさせてもらっているだけで……」
最初に言われたように、その料理を食べて感想は伝えている。しかし、協力することでリィンはいつもお代を払わずに美味しい料理を食べさせてもらっているのだ。
それについてはまだ店に出すようなものではないのだから当然だと彼は言うけれど、更にいえばそこでするクロウとの細やかな会話も今のリィンにとってはあの喫茶店に行く楽しみの一つになっている。ケーキも含めて自分ばかりが得をしているような状態だというのに、その上勉強まで教えてもらうなんて。
「んー……じゃあ今度、俺に付き合ってくれねぇ?」
申し訳ない、と思っていたところで今度は別の問いを投げられた。
付き合う……? と不思議そうに赤紫を見ると「そ」とクロウは首を縦に振った。
「いつもウチの店で話してるけど、お前とはもっとゆっくり話してみたいと思ってたんだよ。ま、お前がよければの話だが」
自分の復習にもなるのだから気にすることはないけれど、どうしても気になるのならそれでどうかと提案するクロウ。前にも、と思い浮かべたそれは数ヶ月前の喫茶店でのやりとりだ。つまり今回もリィンが嫌なら無理にとは言わない、ということなのだろう。
「……本当にいいんですか?」
嫌、なわけがない。今だってこうしてクロウと二人で歩きながら話せるのが嬉しいと思っていたところだ。もっと話してみたいのはリィンにしても同じ気持ちだった。だから結局それではどちらも自分ばかりが得をしているのではないか、と思わなかったわけじゃない。
でも、例の協力にしても「俺ばかり得していませんか?」といつか尋ねたリィンに「そんなことねぇよ。すっげぇ助かってる」とクロウが答えたように。今回もこちらだけが得しているということはないのだろうかと思いながら尋ねたリィンにクロウは「おう」と即答した。
「つーか俺が言い出したことだろ」
「そうですけど、俺ばかりが得をしているような気がしてしまって」
「んなことねぇよ。だが」
――そう思ってくれるのなら、嬉しいな。
呟くように続けられたそれに「え?」と聞き返したら、ふっと小さく笑ったクロウは「何でもねーよ」と空を見上げた。
「勉強はウチの店……だとやり辛いか。東高の近くにあるファミレスかどっかにするか?」
そしてそのままクロウは話を戻した。
さっき。すぐに周りの音に掻き消されてしまったけれど、クロウは何かを言ったような気がした。しかしこうして話を戻されてしまっては追及することもできず、少しばかり引っ掛かっりを覚えながらも仕方なくリィンはクロウの発言で気になった点について聞くことにした。
「でもクロウさんって東高は逆方向ですよね?」
「大した距離じゃねーからそんくらい気にすんな。まあ俺の部屋でもよければウチの店でもいいが」
どうする、とクロウが問う。俺はどっちでもいいけど、と言われたリィンは「えっと……」と頭を悩ませる。クロウの店、もとい彼の実家はこの商店街にある。そしてリィンが通う東高とクロウの通っている一高はそれほど離れていないがどちらもここから反対方向にあるのだ。
つまり、もしクロウが東高の方に来るのならわざわざ来てもらうことになってしまう。かといって教えてもらうのだからとリィンが一高の近くまで行くと言ったら却下された。そうなると。
「……それじゃあ放課後、お店に行ってもいいですか?」
「ああ。来る時は普通に店から入ってきていいぜ。祖父さんにも言っておく」
いつもの時間なら大体俺も帰ってるだろうけれど一応、そう話したところで「そういや連絡先交換しとくか」と携帯を取り出したクロウにリィンも自分の胸ポケットから携帯を出した。
そのままカチカチと数回ほどボタンを操作すると画面には“登録しますか?”と文字が表示される。それに決定ボタンを押すと電話帳に新たな連絡先が追加された。
何てことはない、ただの連絡先交換。これまでにもクラスメイトたちと幾度となくしたことのあるそれが少しだけ特別に感じるのは、彼がクラスメイトでもなければ同じ学校の先輩や後輩でもない。店員と客として出会った他校の先輩だからだろう。
パタンと携帯を閉じたリィンはそれをそっと胸ポケットにしまう。そこからじんわりと、あたたかな熱が広がるようだった。
「遊びに行くのはテストが終わってからにするとして、遠慮なんかしないで今まで通りに来てくれていいからな」
「はい。ありがとうございます」
「んじゃ、俺はこっちだから」
大通りの途中にある横道へと一歩進んだクロウは「あ」と言って立ち止まると、リィンを振り返った。
「寄ってくか?」
どこに、というのは言わずもがなだろう。この前新作のケーキが入ったんだぜ、と話すそれは質問というよりは誘いといった方が近いかもしれない。
そんな馴染みの店員の言葉にリィンは口元を緩めて頷いた。
「そうですね。せっかく近くまで来たので」
「ならついでにちょっと協力してくれよ」
それもやはり何を、と聞くまでもない。はい、と答えたリィンはクロウが進んだのと同じ方向へ足を進める。
間もなくして、チリンチリンといつものベルの音が鳴った。
喫茶店の外で
新たに増えた約束と電話帳の一ページ