放課後。通い慣れた道を歩いて喫茶店のドアを開けたリィンは、案内された奥の席に腰を下ろした。メニューを開く前に注文内容を確認されるのもいつものことだ。
 カウンターへ戻る背中をちらっと見て、鞄から教科書とノートを取り出す。それらを夕日が少しだけ差し込むテーブルの上に広げた。

 教科書の問題をノートに書き写していた手が止まり、そっと息を吐く。
 再びペンを走らせたところでテーブルに影が落ちた。


「今日もテスト勉強か」


 お待たせ、とコーヒーをテーブルの端に置いたクロウにリィンは短くお礼を伝える。ふわりとカップから湯気が立ち、ほのかな香りが鼻先を掠めた。


「気になるとこあるか?」

「今のところは大丈夫です」

「そうか。何かあれば声かけろよ」


 その言葉にもう一度お礼を口にする。
 このお店には気がつけばいつも足を運んでしまう。静かで落ち着く雰囲気も、マスターや彼の心遣いも。ここではそれが当たり前で、その空気がとても過ごしやすい。
 カップを手に取り、淹れてもらったばかりのコーヒーに口をつけると、体の中心からぽかぽかとあたたかくなる。心にもあたたかさを感じるのは、優しい口当たりのお陰だろうか。

 ふう、と一息吐いたところで勉強を再開する。

 公式のあとにメモを加え、練習問題に取り組む。幾つか解き終えたところで答え合わせをしてページを捲る。教科書を眺め、参考書にマーカーを引き、その合間にコーヒーを傾ける。
 何度かそれを繰り返した頃、近くに人の気配が落ちた気がした。そっと顔を上げると、赤紫の瞳とかちあった。


「おかわりはいるか?」


 聞かれてカップへ視線を向けると、いつの間にかコーヒーは殆どなくなっていた。おそらく、頃合いを見て声をかけてくれたのだろう。


「すみません、お願いしてもいいですか?」

「ああ」


 リィンが頷くとクロウはカップを持って一度下がる。
 ふと外を見ると、ここへ来た時よりも街路樹の影が長くなっているような気がした。時計に目を向けたら既に一時間が経過していた。


「本当、いつも集中してやってるよな」


 言いながらクロウは淹れたてのコーヒーを置く。湯気の立ち上るカップを手に取ると、先程よりも口当たりが柔らかく感じた。同じ豆のはずなのにこんなにも変わるものかと不思議に思う。


「そういやさっき、どこか悩んでたか?」


 不意に聞かれてリィンの視線がノートに落ちる。そこには解いている途中の問題があった。


「あ、応用問題について少し考えていて……」

「どれ?」

「この問題なんですけれど」

「ああ、これは――」


 すっと指を伸ばしたクロウは、ポイントを指し示しながら説明してくれる。ひとつずつ、順を追った説明を聞きながらペンを動かす。
 きっと、彼の料理もこうやって丁寧に作られているのだろう。なんとなくそう思う。適当なことを言ったりもするけれど、ちゃんとするところはちゃんとしている人なのだ。


「そう、それで最後は……よし、問題なさそうだな」


 最後まで式を書き終えたところでクロウは頷く。答え合わせをしてみると、彼の言う通り正解だった。リィンは小さくお礼を言う。


「こっちの問題も同じやり方で解けると思うぜ」


 そう促されて右の問題へ視線を移す。確かにこれも似たような問いになっていそうだ。


「はい、やってみます」


 ひとつ前に解いた時と同じように式を並べていく。その様子を隣で静かに見つめていたクロウは、リィンが答えを書いたところで「正解だな」と口元を緩めた。
 その柔らかな表情に、一瞬だけ視線が止まる。


「また詰まったところがあったら言えよ。俺で分かれば教える」

「ありがとうございます」

「あんま詰め込み過ぎないようにな」


 そう言って席を離れたクロウは別のお客さんの元で立ち止まった。その奥ではマスターがカウンターで珈琲を淹れている。お客さんとの笑顔のやりとりを見ているとこのお店のあたたかさを改めて感じる。

 もうひと頑張りしよう。
 そう思いながらリィンは教科書のページをゆっくり捲った。







声にならない気持ちの手前で