「クロウ」


 窓の外には月が浮かんでいる。現在の時刻は九時半を過ぎたところだ。夕飯の片付けも終えて順番に風呂を済ませ、静かな夜をのんびりと過ごしている時のことだ。
 リィンの呼び掛けにクロウは「ん?」と雑誌を広げたまま疑問だけを返した。そんなクロウを見つめるリィンは何度か口を開きかけては閉じてを繰り返し、やがてきゅっと唇を結んだ後に思いきってその言葉を口にした。


「キス、がしたい」


 突然そんなことを言い出した恋人にクロウはぴしりと固まる。たっぷりと五秒、経ってからぎこちなく振り向くとそこには顔を真っ赤にして若干俯きかけているリィンの姿があった。段々と語尾が小さくなっていったのは恥ずかしさのせいだろう。


「……また急にどうしたんだよ」


 平常心平常心と心の中で呟きながらクロウはいつもの調子で問う。先程まで読んでいた記事の中身は一瞬で頭から消えた。だが仕方がないだろう。まさか恋人がいきなりこんなことを言い出すなんて思いもしなかったのだ。


「その、あまりしたことないだろ……?」


 リィンの答えにクロウは「まあ、そうだな」と同意する。青紫はクロウからの視線を受けて右へ左へ移動した。それから赤紫が僅かに視線を外したのは同じ理由だろう。
 自分達は所謂恋人同士なのだがその手のことはあまりしたことがない。キスをした回数は片手でも足りるだろう。別に意図して避けているのではなく、なんとなくそういう雰囲気にならないだけ。決してキスがしたくないというわけではない。したいかしたくないかでいえばしたい。だが毎日のようにしたいかと聞かれたら返答に困るかもしれない。勿論それが嫌という話ではなく、単純に毎日は多すぎて心臓が持たないような気がするのだ。

 でも、たまには。
 それが今回のリィンの発言へと繋がる。


「…………駄目、か?」

「……駄目ではねーけど」


 リィンの照れが移ってクロウの頬にもほんのりと朱が乗る。駄目ではない、駄目であるわけがない。それなのに歯切れが悪い返答になってしまったのは慣れないせいだ。
 それじゃあするか、と言えるのなら殆どキスをしたことがないという状況にもなっていないだろう。かといってリィンの誘いを断るのはない。しかし改まって言われるとどうしたら良いのかと考えてしまう。

 そんな二人が初めてキスをした時はお互いに相手の反応で本当に初めてなのかと分かってしまったほどだ。意外だったリィンが驚いて尋ねたら「お前が初めてだよ」と視線を逸らしながら言われた。好きになったのも何もかも初めてだ、と思いながらクロウが言ったそれにリィンは嬉しそうに笑った。
 早いものであれから半年近くの月日が流れている。付き合い始めて特別何かが変わったということはないけれど、片思いをしていた頃と比べると気持ちが通じているという点でより幸せを感じるようになった。


「それはお前からしてくれんの?」

「えっ……と、どっちでも良いけど」


 そこまでのことは考えていなかったリィンは少し遅れて答える。キスがしたいと言い出した手前、キスをして欲しいと言うのもあれかと思ったのだ。それにクロウにしてもらうのも良いけれど自分からでも良いかと思ったのも本心である。自分からというのは恥ずかしくもあるが、結論を言えばリィンもクロウが好きなのだ。好きだからキスをしたいと思った。それが全てである。
 リィンの答えに少々考えたクロウは「じゃあお前からして」と青紫を見た。ドキンと胸が鳴る。どちらも顔は赤いまま。


「……クロウ、目を閉じてくれ」


 見られているとやりづらい。言えば赤紫は瞼の裏へ消える。その動作にドキドキと鼓動が五月蝿くなるのが分かる。
 よしと心を決めたリィンはゆっくりと距離を詰めると同時にそっと瞳を閉じる。二人の距離が零になったのはそれから間もなくのことだ。


「………………」


 軽く触れただけの短いキス。けれど胸はそれだけでいっぱいになる。
 再びぶつかる赤と青の紫。嬉しいとか幸せだとか、思った一方でやっぱり好きだと感じる。たった数秒のそれにこんなにも胸が満たされる。


「……なあ、リィン」


 クロウの呼び掛けにリィンは視線だけを向ける。ちらと一瞬だけ逸れる視線。けれどその視線はすぐにリィンへと向き直ると。


「キスがしたい」


 真っ直ぐに青紫を見つめてそう言った。
 予想もしていなかったクロウの発言に「え?」と疑問がそのまま口から零れる。すると「お前に、キスがしたい」と言い直して赤紫は恋人の姿を映した。


「駄目か?」

「駄目なわけ……」


 ないだろう、と答えるまでに数秒の間があったのはあれと思ったから。これはそのまま数分前のやりとりだ。
 そういえばさっき、クロウは何かを考えるような仕草を見せた。もしかしてクロウがあの時考えていたことは――。


「目、閉じろよ」


 言われてリィンはゆっくりと瞼を下ろした。それから唇に柔らかな感覚が訪れるまで三秒。再び赤紫を見つけるまで三秒。口元には緩い弧が描かれる。多分自分も同じなんだろうなと思ったのはお互い様。
 幸せな気持ちで溢れる。彼といる時はいつだってそうだ。だがそれはそうだろう。彼と共に在ることこそが自分の幸せなのだから。


「クロウ」

「何だ」


 呼べばすぐに返してくれる。そんな些細なことでさえ幸せを感じるのだから相当だ。でも、それだけこの恋人のことが好きなのだから仕方がないだろう。好きでなければ目の前の相手をパートナーに決めたりなどしない。


「そろそろ食材が減ってきたと思うんだけど」

「なら明日の帰りに寄るか」

「明日は魚が安いんだ」

「へえ。それはお前が振る舞ってくれんの? それとも俺が作るか?」


 釣りが趣味というだけあってリィンは魚を捌くのはなかなか上手い。しかしクロウもまた海の近くで育っただけに魚の扱いは得意な方だ。二人で作るというのも一つの選択だろう。
 でもなんとなく、今回は後者のような気がした。いや、リィンを見たらそうなんじゃないかと思った。案の定リィンはクロウに作って欲しいという。珍しいなと思いながらもたまにはこうやって素直に甘えてくれれば良いのになとクロウは頷く。


「わーったよ。明日はこの俺様が腕によりをかけて作ってやるから楽しみにしとけ」

「ああ。楽しみにしてる」


 嬉しそうな表情を隠すことなくそのまま見せるリィンにクロウは微笑みながら思う。自分の大切なものを愛しい人が好きになってくれるのは嬉しいもんだなと。
 そして「その代わり」とクロウが提案した明後日の話には「分かった」とリィンが笑う。料理は別段得意というわけではないけれど、お互いそれに関しては得意だと言い切ることが出来る。

 そうなると明日買う必要があるものは、と二人はそれぞれ買い物の予定を立てるのだった。








- pattern A -

(スキだから。たまには一歩踏み込んで)