「キスがしたい」


 テーブルで向かい合わせに座りながら真剣な面持ちでクロウはリィンの名前を呼んだ。顔を上げて待つこと数秒、赤紫の双眸は真っ直ぐにリィンを見つめて冒頭の台詞を口にした。
 え、と零したリィンの頬は一気に赤へ染まる。だが言った本人の頬にも微かに朱が乗っていた。


「き、急に何を言うんだ」

「急ってほどでもねぇだろ」


 何の脈略もなく言われたのは急とはいわないのか。唐突すぎるクロウの言葉にリィンが思ったのはこれだ。だがクロウの言った急という言葉はリィンのそれとは少し違った。


「俺達だって付き合って大分経つだろ」


 だから急でもない、それが先程クロウの口にした急の意味だ。いきなり話を持ち出したという点ではリィンの言った急で正しい。けれど、お付き合いを始めてもうすぐ三ヶ月が経過しようとしているのだから今より一歩先の段階へと進んでも良いのではないか。
 そう考えたクロウは今日、こうしてリィンに話を切り出した。いつかそういうタイミングが来るのを待っていてはいつまで経ってもこのままなのではないか、と思ったのはついこの間。


「そろそろそういうことをしてみるのも良いんじゃねぇか」


 そういうこと、つまりはキスをしてみるのも良いでのはないかとクロウはリィンに尋ねる。付き合って三ヶ月の自分達がしている恋人らしいことといえば、こうして一緒に暮らしていることぐらいだ。それも勿論幸せなのだが、この同居生活は恋人になったからではなく仕事柄丁度良いからと始めたものである。
 一緒にいられるだけでも幸せではあるけれど恋人としては――そう考えてしまうのは目の前の相手が好きだから。この関係を一歩進めたいと思ったのだ。


「嫌か?」


 伺う声は普段より幾らか小さく、出来るだけ優しく尋ねるように心掛けた。それはリィンがYesともNoとも答えやすいように。
 好きだからそういうことをしたいと思うけれどリィンに無理強いはしたくない。キスをしたいと思ったのはクロウの本心だが、リィンがまだ無理だと言うのなら急ぐことはないというのも本心だ。たとえリィンが嫌だと答えたとしてもそれは本気で嫌がっているわけではないことは分かっているのだ。それは最初にキスをしたいと言った時のリィンの反応を見れば一目瞭然である。

 クロウが求めたのはリィンの素直な気持ち。この関係に不満がないであろうことは一緒にいれば分かるけれど、今はこれで十分だと思っているのか。それとも自分と同じで少し先に進んでみたいと考えているのか。それを知るためにクロウは恋人の答えを待つ。


「……嫌なわけ、ないだろ」


 たっぷりと十数秒。経った後にリィンは顔を赤くしたまま答える。


「俺も、クロウが好きだから」


 嫌なわけがない、と話ながら徐々に俯いていくのは恥ずかしさのせいだろう。それにつられて声も小さくなっていったけれど、二人きりの静かな部屋では十分聞き取れる。
 そんなことを急に言われても困るとでも返されるだろうかと考えていたクロウだったが、リィンからの返事は予想以上に素直なものだった。それが嬉しくてつい顔が緩んでしまうのは仕方がないだろう。可愛い、いや愛しいなと思う。また愛されているなとも感じる。

 かたんとゆっくり椅子を引いたクロウはそのままリィンの隣へと移動する。
 なあ、と声を落として赤紫を見上げた恋人の顔はやはり赤いまま。自分とは違う紫の瞳はいつだってきらきらと宝石のように綺麗な色をしている。自分にはない色、だからこそこんなにも惹かれるのだろう。


「キス、しても良いか?」

「…………うん」


 頷いた恋人にクロウはそっと手を伸ばす。触れた頬はやはり少し熱いだろうか。しかしそれ以上に熱いのはじっと見つめる青紫。
 逸らされることのない赤と青。ぶつかる紫はやがて互いの距離が縮まるのに合わせて瞼の奥へと消えた。唇に柔らかな感覚が訪れたのはそれから間もなくのこと。そして二つの紫は再び自分にはない色を映す。

 時間にしたら十秒。触れ合った時間は一秒にも満たないかもしれない。けれどたったそれだけの時間が何倍にも長く感じた。この一瞬で胸がいっぱいになった。
 胸がいっぱいになって、言葉が出てこない。やっと。漸くここまで。キスをした。愛しい人と。嬉しい。幸せ。そういった気持ちで溢れて、大きく息を吐いたクロウはそのまましゃがみこんだ。


「………………やっぱり好きだわ」


 ぼつり、零れた本音。好き、そう好きなのだ。どうしようもないほどに。
 きょとんとした顔を浮かべたリィンは口元に小さく弧を描く。頭を伏せているから表情は分からないけれど銀の合間から覗いている耳は赤くなっている。愛しいなと、思ってしまうのは好きなのだからごく自然なことだろう。


(知ってる)


 自分を好きでいてくれることも、自分を大切にしてくれていることも。全部知っている。愛されているのだと強く実感する。そして堪らなく好きだと思うのだ。リィンもまた。


「クロウ」


 たっぷりと愛情のこもった声にゆっくりとクロウは顔を上げる。そして視界に映った恋人の表情にそれは反則だろうと思う。
 だがそれを知らない恋人は徐に椅子から降りると目線の高さを合わせて真っ直ぐに赤紫を見つめた。


「俺はあまりこういうことは分からないんだけど、これからも一緒にいて欲しい」

「何当たり前のことを言ってんだよ」

「それで」


 ぎゅ、と握られた手のひらはクロウの服を掴む。一度だけ逸らされた青紫は再びクロウを捉え、一呼吸置いてから。


「もっと、遠慮せずにクロウの思っていることを言ってくれ」


 そう続けたリィンに赤紫の瞳が僅かに開かれる。
 クロウは優しいからいつだってリィンのことを考えてくれているのは分かるし、そのことは嬉しくもある。しかし、先にも言ったようにリィンの恋愛経験はとても豊富とはいえない。どちらかといえば疎いと言われる自分には分からないことばかりだけれど、クロウとなら。
 ――否、クロウとはちゃんと二人で共に歩いて行きたいから。友として、相棒として、恋人として。恋人としての順序はぼんやりとしか頭にないけれど、それでも少しずつ進んでいきたい。

 それが、リィンの答え。


「…………そんなこと言って、後悔しても知らねーぞ?」

「後悔はしないさ。……俺も、クロウと同じだから」


 次の瞬間、リィンはクロウの頬へ自分の唇を寄せた。


「今はこれが精一杯だけど」


 それはほんの一瞬。すぐに離れたリィンは恥ずかしそうに視線を逸らして小声で付け加えた。
 あまりに突然すぎる出来事にクロウはぽかんとしてしまう。だが顔を赤くしたままの恋人につい手が伸びた。腕の中では自分の名前を呼ぶ声が聞こえたが気にせずクロウはその肩に頭を埋める。


「お前さ、そんなに俺を喜ばせてどうすんの?」


 このままでは心臓が持たなくなりそうだ。そう考えるクロウを余所にリィンは「もっと好きになってもらうとか……?」と疑問形で返してくるのだから暫くはこの腕を放してやれそうにない。
 リィンとしては特別喜ばせるようなことをした覚えはなく、むしろクロウに自分ばかりがたくさんのものをもらっているような気がしたからお返しをしただけのつもりだった。好きの形は色々あるけれど、クロウがキスという形で示してくれたから自分も。唇にする勇気はまだ出せなかったものの同じように好きを伝えたいと思っただけ。けれどリィンのそのお返しはクロウには十分過ぎるほどだった。


「これ以上好きになったら絶対にお前を放してやれなくなる」

「……それだともっと好きになってもらいたくなるんだが」

「バーカ、とっくにお前を放せねぇくらい好きだよ」


 顔が見えなくて良かった、と思ったのはどちらだったか。だがこの距離では五月蝿いほどの心臓の音が聞こえているかもしれない。
 でもそれはお互い様か、と気が付いたのはそれからすぐだった。








- pattern B -

やっぱり好きだなと、恋人の温もりを感じながら思う