「キスってどんな感じなんだろうな」
聞こえてきたそれは独り言なのか、それともこちらに言っているのか。分かりかねたリィンが視線だけを隣へ向ければ「なあ?」と言われてそれが自分に向けられていたものなのだと知る。
「どうって言われても」
「興味ねえ?」
一体何が言いたいんだ。そう思いながらも別にとだけ答えたリィンに「もしかして経験済みか……!?」などと友人は言い始めたがそれも違うとしっかり否定した。まあそうだよな、という言葉には何やら含みがあるような気もしたけれどあえて突っ込むのは止めておく。
「そういうクロウこそ、経験はないのか?」
「あったらこんなこと言ってないだろ。お前も興味あるなら丁度良かったのにな」
何が丁度良いのかは聞かない方が良いのだろう。そう判断したリィンは友人の発言をスルーしようと決めるが、クロウはまだこの話を終わらせる気がないらしい。
でも少しくらい興味はあるだろ? と食い下がられても困るのだが、この友人は自分に何を求めているんだとリィンは内心で呆れる。
「それを俺に言ってどうするんだ」
「優しいリィン君ならちょっとくらい付き合ってくれるんじゃねーかと思ってよ」
「……付き合うわけないだろ」
手が足りないから手伝ってくれと言われたならリィンは快く協力する。困っていることがあるのであれば力になる。それは何も特別なことではなくごく普通のことだ。
しかし、クロウの言ったそれは大分意味が違う。話の流れからしてキスに興味があるから試しにやってみないかということなのだろうが、男同士でそれを言って了承してもらえるとこの友人は本気で思ったのだろうか。女子に言えば良いのかというとそれもどうかという話だけれど、誰だってこんなことを言われて了承などしない。勿論リィンにしてもそれは同じだ。
「どうしてもというなら他を当たってくれ」
「こんなことお前以外に付き合ってくれるヤツなんていねーだろ」
「俺も今断ったところなんだが」
「ほら、これも人助けだと思って」
どこが人助けだとリィンは溜め息を吐く。このような人助けに付き合ってくれる人などいないだろう。
――そう思ったが、そうとも限らないのかと一瞬思ってしまったのはこの友人がいかにもモテそうなタイプだからである。実際はそうでもないらしいけれど、それはあくまでもこの学院内での話だ。一歩外に出れば彼の容姿はやはり女性の目を惹きそうなものである。
「…………そもそも、幾ら興味があるからって男の俺に言うのはおかしくないか」
「そりゃあお前なら付き合ってくれそうだからだろ」
少し前にも聞いたような台詞をクロウは繰り返す。付き合ってくれるのなら男でも良いのか。普段の言動からして節操なしというわけではなく本当にただの興味本意なのだろう。だが、そうだとしても同性で良いと普通は思えるものだろうか。そんなことを考えもしないリィンには分からないけれど、普通ではない気がするのは世間一般的に間違った感性ではないはずだ。
「ほら、いざ本番となった時に失敗すんのも嫌だろ」
「本番の予定はあるのか」
「お前だっていつかあの時練習しておいて良かったって思う日が来るぜ」
どう考えても適当なことを言っている友人には何と言えば分かってもらえるのだろうか。いつの間にか試しにキスをしてみるという話がキスの練習に変わっているあたりは最早突っ込む気にもならない。
「あ、それともファーストキスは特別な人に取っておきてぇのか?」
「……それで納得してくれるのか」
だから今ここでキスは出来ないと、そう言ったならば分かったと引き下がってくれるのか。とてもそうは思えないと隣へ視線を向けたリィンに返ってきたのは少々意外な答えだった。
「そうだな……お前の気になる子を教えてくれたら納得してやるよ」
え、と思わず声が零れた。すると「さあ誰なんだ?」と聞かれるがそれもそれで困る。
「待ってくれ。別にそういう相手は……」
「気になる女子の一人くらいいるだろ。おっと、もしかして生徒じゃなくて教官か? もしくはトリスタの――」
「違うから」
どうしてそうなるんだとリィンは頭を抱えたくなる。だがそんなリィンを余所に「そうなると……」とクロウはまだ考えているらしい。そして嫌な予感がしたリィンの予想は見事に的中することとなる。
「あの妹か」
「そんなわけないだろ」
「禁断の恋、ってのも悪くないと思うぜ?」
「エリゼは大事な妹だ」
リィンが否定すると今度は「そういえば公女殿下からダンスに誘われたんだってな」と聞かれた。何故それを知っているんだとは思ったものの一応事実だからと肯定したが、次に出てきた言葉は当然否定した。
よくぽんぽんと出てくるなとある意味感心していると「まさか男か」と行き着くところまで辿り着く。はあ、と溜め息を吐くのは何度目になるだろうか。
「まずそういう相手はいないって言っただろ」
「へえ? つまり優しいリィン後輩は俺に付き合ってくれると」
だから違う、と断るリィンに「でも気になる相手はいないんだろ?」とクロウは聞き返す。嘘でも誰かしらの名前を挙げれば良いのにと続けて。
「嘘で名前を出すのはその人に失礼だろ」
「本人には分からねぇだろ。何も告白しろとまでは言わねーし、そうなんだって思うだけの世間話じゃねーか」
人に言い触らしたりもしないという言葉は信用しても良いけれど、それでもここで適当に誰かの名前を挙げるなんてリィンには出来ない。そんなリィンにクロウは真面目だなと呟く。
「ならクロウはどうなんだ」
「俺が言ったら付き合ってくれんの?」
言われたリィンはすぐに返事をすることが出来なかった。クロウに気になる相手がいたなんて知らなかったが、考えてみればそのような相手がいたって何ら不思議ではない。Ⅶ組の友人達にもそういった相手がいてもおかしくはないのだ。
でも、そういう人がいるなら尚更自分に頼む必要はないのではないかとリィンは疑問に思う。だが片想いならばそうもいかないのかもしれない。そういえば本番の予定があるのかという問いにクロウは答えていなかったなと数分前のやり取りを思い出す。
「……クロウがその相手を答えても俺が付き合う理由にはならない」
しかし、クロウに好きな人がいようがいまいが興味本位のキスに付き合う理由がリィンにないことに変わりはない。冷静にそう判断したリィンは再度断る。これでも駄目か、とクロウは言うがどうしてそれならいけると思ったのか。
「一回くらい良いだろ。学院生活の最後に思い出作りさせてくれよ」
「思い出作りならもっと他にあるだろ」
「リィン、こいつは俺にとっちゃあかなり重要な問題なんだ」
真剣な顔で言われても分かったと軽く頷ける話ではないのだが、それこそ俺で良いのかという話である。幾らキスに興味があるからって重要だと言うのなら相手を選ぶべきではないのか。
「今しかチャンスもねぇし」
ぼそりと呟かれたそれはどういう意味なのか。確かに学院生活はもうあまり長くはないかもしれないが、これから先の人生でそういったチャンスが訪れる可能性は十分にあるだろう。
少し前にも思ったことだけれど、この友人は見た目も悪くなければお調子者でギャンブル好きといった面もあるとはいえ性格も悪くはない。周りをよく見ており、ちょっとした気遣いがさり気なく出来る気さくで頼りになる先輩だ。チャンスくらい幾らでも――。
「なあ」
一歩先で立ち止まったクロウが振り返る。
「キス、してみねぇ?」
一回で良いから、キスがしたいのだと。緑の制服を見に纏った元同輩の先輩が笑う。
とくん、と心臓が鳴ったのは何故なのか。それは多分、クロウが今まで見たことのないような顔をしていたからだろう。
たとえ一回でも興味本位で、好きでもない相手とキスをするなんて間違っているというのに。何度も否定しているそれがすぐにはリィンの口から出てこなかった。その一瞬の隙に二人の間にあった僅かな距離をクロウが詰めた。
「っ!」
気が付いた時には既に遅く、あっという間に唇を掠めたクロウは再びリィンと距離を取って口角を持ち上げた。
「好きだぜ、リィン! お蔭で最高の思い出が出来た」
「クロウ!」
ちょっと待て、と止める間もなく「じゃあな!」と走り去った友人の遠ざかる背中を見たリィンは暫くして溜め息を吐いた。
結局リィンは了承していないというのにクロウは勝手にキスをしたわけだが、あの友人はこれで満足したのか。本当にただの興味本位だとしても男と、自分とキスをしたそれが学院生活最後の思い出で良いのか疑問で仕方がない。いや、まだ卒業式までは日があるのだからこれが最後の思い出にはならないだろうけれど。
(…………何で俺だったんだろう)
クロウ曰くリィンなら付き合ってくれそうだからだと言っていたが、それにしたって。そう考えたところでもう遅いのだが、この一年近くでお互いのことをそれなりに知ったつもりだったもののまだまだ分からないこともあるらしい。
最後の好きはキスに付き合ってくれたことに対しての冗談だろう。でも、と思ったところでリィンは考えるのを止めた。俺も帰ろうと歩き始めたリィンの頬は夕焼けに照らされてほんのりと赤く染まっていた。
キスがしたい
- pattern E -
(好きだから、今しかないチャンスを逃したくなかった)
(だってきっと、次なんてないだろ?)