暖かな陽気に包まれた春の日。ここ、トールズ士官学院では卒業証書授与式が行われた。共に学んできた仲間との別れに涙と笑顔が零れ、後輩も教官も皆が卒業生との別れを惜しむ。
そんな中、クラスメイトや友人との別れに一段落がついたクロウは彼等の輪を抜けて一人静かな校舎にいた。二年間毎日通っていたこの校舎を歩くのもこれで最後。卒業するのだから当たり前のそれがどこかまだ不思議な感じだ。普段の賑わいが嘘のような校舎を順番に見て歩き、最後にやって来たのは本校舎二階の一番端にある教室。
「クロウ」
その教室に辿り着いて十分くらいが経った頃だろうか。人気のない校舎で唐突に自分を呼ぶ声が聞こえた。クロウがそのまま声のした方へと視線を向けるとそこには見慣れた後輩の姿があった。
「よう」
「こんなところで何をしているんだ?」
「何って、今日で卒業だからな。最後に学院内を見て回ってただけだぜ」
最後にもう一度校舎を見ておきたくなった、なんて柄ではないが後輩はその言葉をすんなりと信じてくれたらしい。そうだったのかと言いながらリィンも教室へ足を踏み入れる。
「そういうお前こそ、卒業式だっつーのにこんなとこまでどうしたんだよ」
クロウのすぐ傍で立ち止まったリィンはその問い掛けにきょとんとした表情を浮かべた。
「俺の教室なんだが」
「卒業式にまで用はねぇだろ」
それはその通りだが、ここはⅦ組の教室なのだからリィンが来るのはおかしなことでもない。どちらかといえばクロウがここにいたことにリィンの方が驚いた。けれどそれはⅦ組で過ごした時間をクロウも大切に思っているということなのだろう。
実際、クロウにとってこの教室で過ごした日々も大事な学院生活の思い出の一つだ。ここへ来る前に寄った技術棟や二年生の教室にも多くの思い出があるが、ここ――この席の主との思い出はとても一言では言い表せないほどのものがある。
(あれから随分と打ち解けたもんだよな)
たった三ヶ月。けれどその三ヶ月があったからこそ自分達の距離はここまで縮まった。先輩と呼ばれて敬語が抜けなかった頃が今となっては懐かしい。そう思うくらい今はこれが自然になっている。
あまり大したことではないようなそれも相手がリィンとなれば話は別だ。なかなか人に頼るということをせず、甘えることを知らない後輩が自分には甘えてくれることがクロウは密かに嬉しかった。ふざけたりからかいながらクロウもまたその後輩に甘えていたことにこの後輩は気付いていないだろうけれど。
「それで、本当はこんなとこまで何しに来たんだよ」
自分を慕ってくれる後輩が誰もいない校舎へやって来る理由があるとすれば思い付くことは一つ。案の定リィンはクロウが今し方頭に浮かべた答えをそのまま口にした。
「クロウを探してたんだ」
やっぱりな、とクロウは思う。真面目なこの後輩なら世話になったからとここまで自分を探しに来たのも分かる。本当に最後まで真面目だなと心の中で呟きながらクロウは青みがかった紫の瞳を見た。
「へぇ? 世話になった先輩への挨拶ってヤツか」
「クロウには本当に沢山、助けられたから」
入学してからこれまで、そう話す後輩に「そうだったか?」とクロウが疑問を返すと小さく笑ったリィンは「俺はそう思ってる」と言い換えた。
それからリィンは一つ、大きく深呼吸をする。透き通るようなその瞳に映るのは赤紫の瞳。
「クロウ先輩、一年間ありがとうございました」
久し振りに聞いた呼称にどことなく違和感を覚えたのはどちらもだ。それも先輩後輩としてではなく友人として過ごしてきた時間の方がいつの間にか長くなっているためだろう。
だけど同時に懐かしいなとも思う。トリスタのライノが花開くのはもう間もなくのことだ。この花が咲く頃に出会い、季節は丁度一巡りをした。振り返ってみればあっという間だったその一年で得たものは両手から溢れるほどの――。
「俺の方こそ、お前と過ごしたこの一年は結構楽しかったぜ」
トールズに入学してからの様々な出会い。大切な友人、可愛い後輩。ここで過ごした時間はかけがえのないものを沢山残してくれた。
(けど、それは全部ここに置いていく)
持っていくのはほんの一握りの思い出だけで良い。トールズといえば卒業後の進路が多方面に渡ることで有名な学校だ。かつての仲間と対峙することも珍しくないこの学校だからこそ、大事なものは纏めてこの場所に。
そう思った時、不意に「……クロウ」と呼ぶ声が耳に届いて顔を上げる。すると何やら俯きがちな後輩の姿が飛び込んできてクロウは首を傾げた。
「どうした?」
何か言いたいことでもあるのかと先を促してみるがリィンは答えない。否、正確には何かを言おうと口を開きかけては止めるを何度か繰り返した。
今更俺相手に躊躇うことなんてあるのか。そう思いながらもクロウはリィンの次の言葉を待った。時間ならあるのだから別に急かすこともない。むしろこのまま時間が止まってしまえば――なんて流石に女々しすぎるなと苦笑いを零したところで「クロウ」ともう一度呼ばれる。青と赤の紫が交わったのはそれからすぐだった。
「その、頼みがあるんだけど……」
「おう」
これはまた珍しいなと思いながらクロウは次の言葉を待つ。一度は交わった視線が再び外れて右へ左へ動くのも珍しい。
そんなに言いづらいことなのかと考えていると漸くリィンの視線が戻ってきた。それでも一回は開きかけた唇を閉じかけたのだが、意を決したような眼差しとともにリィンは思い切るように口を開いた。
「キスが、したい……んだけど」
「………………は?」
あまりに予想外の発言が飛び出してきてクロウはぽかんとした。
(こいつは今、何て言った?)
聞き間違いか? 聞き間違いだよな。だって相手はあの。
混乱しながら見た目の前の後輩はこれ以上ないくらいに顔を真っ赤にしていた。それで嘘や冗談の類いではなさそうだと理解するが、リィンの性格を考えれば端からその可能性はない。しかし。
「……本気、なんだよな?」
こくり、リィンが頷く。練習でも良いから駄目かと言われてもどうしたら良いのか。確かに数週間前、キスに興味がないかとこの後輩に問い掛けたクロウは練習でも良いといった話を振ったのだが、逆に自分が言われる立場になるとは思いもしなかった。
けれど練習だからといって男で、俺で良いのかという疑問はあの時のリィンも抱いていたのだろう。リィンの思ったそれとクロウの考えたそれは全くのイコールではないだろうが、とりあえずクロウは平静を装って出来るだけ明るい声を出した。
「この前はあんなに断ってたっつーのにどういう心境の変化だ? 実は好きな子がいたのか?」
「そういうわけじゃ……ないんだが、確かめたいことがあって」
「おいおい、その間はなんだよ。別にそれならそれで構わないぜ。これで今度こそ利害は一致するわけだしな」
……そうか、リィンにも気になる子が出来たのか。とことん鈍いこいつが周りから少なくない好意を向けられていたのは知っていたけれど、とうとう本人も。
年齢を考えれば別段珍しくもないそれが胸に小さな痛みを走らせる。分かっていたつもりだったんだけどなと思いながら未だに目を合わせてくれないリィンにクロウはこっそりと自嘲を浮かべる。
「じゃあ早速試してみるか?」
でもまあ、この間は結局勝手に奪ってしまったから最後の思い出作りには良いかもしれない。元々叶わない恋だったんだ。
問い掛けると「良いのか?」と聞き返されたから「お前が言い出したんだろ」とこちらも返す。それとも止めておくか尋ねると慌てて首を振られ、なら良いだろと言いながらクロウは立ち上がる。見上げていた青紫が下になり、逆にリィンの視線が赤紫を追い掛けて上がる。
そういえば自分からしたいのかされたいのか聞いてなかったなと思ったが、ただじっとクロウを見つめている瞳にどっちでも良いかと結論付けたクロウはそのまま唇を寄せた。
「……どうだ? その確かめたいこととやらは分かったか?」
キスで確かめられることなんてある程度限られているような気がするが、リィンはこの行為に何を求めているのか。あのリィンが練習でも良いからとキスをせがむなんて相当だろう。こちらは役得だから構わないとはいえ、これで分かることなど――。
「リィン?」
ゆっくりと瞼を持ち上げたクロウの視界に映ったのは先程よりも更に赤い顔をしたリィンの姿だった。キスをしたといってもこれはただの練習。しかも相手は俺なのに、これではまるで。まるで?
そこまで考えたところでクロウの思考が一瞬停止する。まさか、有り得ないとは思うけれど、目は口ほどにものをいうということわざがある。青紫の瞳に宿る熱はただキスをしたからというだけのものなのか、それとも。
「…………なあ、お前の確かめたかったことって」
キスで確かめられることなんてたかが知れている。それこそ本来なら好きな人とするものであるそれをクロウは一度だけでも良いからと実行したのが数週間前のことだ。何かの罰ゲームでキスをすることになり、照れや恥ずかしさから顔が熱くなることはあるだろうけれど。
「こういうこと、か?」
これはそういうのじゃない。根拠はないがクロウはリィンを見てそう思った。いや、根拠が何もないわけでもない。クロウ自身がそうだから。
一度離れた唇を再び重ねてもリィンは逃げなかった。自分達は同じ学校の先輩と後輩で友人、何より同じ男だ。普通は興味があるからといってキスをしてみないかなどと持ち掛けないし、練習だからとキスを頼んだりもしないだろう。少なくともクロウはそうだ。あの時そんなクロウを否定したリィンもきっと同じ。
熱を帯びたままの瞳を真っ直ぐに見つめたままクロウは待つ。それから十秒近くの時間が流れた頃、リィンはクロウを見つめ返しながらゆっくりと口を開いた。
「……そうだって言ったら、クロウはどうするんだ?」
赤く染まったままの顔でリィンが尋ねる。
ファーストキスは特別な人に取っておきたいのかと聞いた時、それで納得してくれるのかと聞き返した後輩に気になる子を教えてくれたらとクロウは答えた。でも。
「好きだ、って言うよ。お前に」
それが自分に対して向けられた感情だというのなら断る理由はない。そもそもその場合はリィンもキスを断る理由にはならないのだろうが、そこは本人が確かめたいことがあると言っていたことが答えだろう。
きっかけは二週間前の放課後。優しいこの後輩ならと持ち掛けた最初で最後の思い出作り。それがこのようなことになるとは思わなかったがここまできたら逃げるわけにはいかない。
徐に息を吐いたクロウは一年前から惹かれていた青紫を瞳に捉える。
「好きだ、リィン」
ただの興味本位ではない、好きだから。選んだ相手がリィンだったのだ。あの時はそれらの感情を全て隠したけれど。
「だからお前とキスがしたい」
今度はその隠していた言葉を正直に告げる。クロウの本音にリィンは一度目を閉じ、それから静かに頷いた。間もなくしてリィンの頬にクロウの手が触れ、二人の距離がゼロになる。
胸を中心にじんわりと広がる熱は互いの距離がゼロより大きくなっても留まらず、熱い視線が宙で絡み合う。やがてふっと口元を緩めたリィンがクロウに問い掛けた。
「これが学院生活最後の思い出で良いのか?」
まだ卒業式までは日があるのだから本当にこれが最後ではないだろうとあの時のリィンは思った。だが結局、卒業式の日にも自分達は同じことをしている。あの時は疑問だったそれも今となっては解決したわけだが、そんなリィンにクロウも口角を持ち上げて言った。
「最高の思い出だろ?」
そう話して笑い合った二人は「そろそろ行くか」と沢山の思い出が詰まった教室を後にする。
外に出るとどこに行っていたのかとクラスメイトや友人に囲まれた二人は顔を見合わせ、そして「最後の思い出作り」とクロウが答えたのにリィンも笑って頷くのだった。
キスがしたい
- pattern F -
(あの時のクロウの言葉を、そして自分の気持ちを確かめたかった)
(そしてやっぱりそれらは同じだと知った)