恋愛の経験は豊富ではない。どちらかといえば疎い方であるという自覚もある。
 それでも好きな相手と一緒にいたいとか、その相手に触れたいとか。恋人がいる人なら大抵が考えるであろう感情は当然抱いている。お付き合いをしてそれなりの時間が経っているとなれば、手を繋ぐより先のことをしたいと考えることだってある。


(クロウは、どうなんだろう)


 おやすみと一緒の布団に入ってから数時間。星々が輝いていた空は日の出とともに澄んだ青色へと変化していた。
 今日は仕事もなく、こんな時間に起きる必要はなかったもののなんとなく目が覚めてしまった。ゆっくりと瞼を持ち上げたリィンの目に飛び込んできたのは、整った顔をしている恋人の寝顔。黙っていればうっかり見惚れそうになる――なんて本人が聞いたら怒りそうだが、その唇に触れてみたいと思ったのは事実だ。


(……キスがしたい、って言ったら喜んでOKしてくれそうだけど)


 そんなに俺が好きなのか、とからかわれるか。それとも何も言わずにキスをしてくれるのか。意外と照れたりするのだろうか。
 どんな反応であれ、断られることだけは想像できない。ただ、当たり前だがクロウがこういったことに関してどう思っているかはリィンには分からない。クロウが自分との関係を大切にしてくれていることだけは分かるのだが。


「……クロウ?」


 僅かではあるものの気配が動くのを感じてリィンは小声で呼び掛ける。もしかしたら眠ったまま身動いだだけかもしれないと控えめに呼んだのだが、間もなくして小さな笑い声が聞こえてきたため気のせいではなかったようだ。


「何をそんなに人の顔見てるんだよ」


 くつくつと喉を震わせる恋人からふいと視線を逸らす。目の前にあったんだから仕方ないだろう、なんて返したら墓穴を掘るだけだ。
 すると程なくして、クロウの手がリィンの頬に触れた。それに反応して友を見たのは失敗だったと気が付いたのはすぐだった。


「んで、どうした?」


 真っ直ぐに、赤紫が見つめる。微かな熱を乗せた瞳に優しい声音。とくん、と心臓が音を鳴らした。


「…………ずるい」

「人のことをずっと見つめてたヤツには言われたくねーな」


 独り言もこの距離では独り言にならなかったらしい。拾われたそれにいつから起きていたんだと問えば、今さっきだと返された。あれだけ見つめられたら気付くだろうとクロウはまた笑う。


「それで、何か悩み事か?」

「悩みってほどのことじゃないけど」

「じゃあ言ってみろよ」


 悩み事ではないと答えたはずだが、そこまでではないのなら気楽に話せばいいだろというのがクロウの意見らしい。多分だけど、悩み事だと答えていたとしてもそれなら言ってみろよと先を促されたのだろう。
 クロウはじっと、こちらが話すのを待っている。言えばきっと、答えてくれるだろう。それは分かっているのだが、やはりいざ尋ねるとなると躊躇いが生まれる。


「……呆れないか?」

「呆れねーよ」


 不安を零したら、まるで見透かしていたかのように即答された。でもそれ以上は何も言わない。無理に聞くつもりもないということだろう。
 言ってみるか、止めておくべきか。だけど、こんなことを言う機会なんてそうそうない。いつでも言えばいいと分かってはいてもこのように躊躇いが出てしまうだろう。そう考えれば、今言ってみる方がいいように思える。


(それに)


 いつもクロウを待つばかり、というのも如何なものか。クロウに言われたわけではないけれど、たまにはこちらから言うのもいいのではないかと。
 考えて、僅かに逸らした視線を戻すと自分とは違う紫の瞳とぶつかった。あつい、視線が心を射ぬく。また一つ、心が震えて胸がぎゅっとなる。恋愛経験は浅くともこの気持ちはどこまでも深い。だから。


「キスが、したい」


 徐々に声が小さくなりながらも溢れそうなこの気持ちをどうにか言葉で伝える。不安と恥ずかしさと、幾つもの気持ちが混ざりあって心臓が一段と五月蝿くなる。知らずのうちに握った拳にも力がこもった。


「…………リィン」


 柔らかな音が耳に届く。それからゆったりと、再びクロウの手が頬に触れて。
 一瞬、けれど確かに優しい熱が唇に伝わった。


「おはよう」

「……おは、よう」


 離れた手はそのままくしゃっとリィンの髪を撫でた。それから体を起こしたクロウが「まだ六時前か」と呟いたことでリィンも現在の時刻を知る。休日の朝にしては随分と早い目覚めとなったが、ここからもう一眠りする気にならないのはクロウも同じだったのだろう。


「せっかく早起きしたことだし、たまには遠くに遊びに出掛けるか?」


 ここのところ仕事ばかりだったしなと言いながら大きく両手を伸ばす友人の横でこちらもゆっくりと体を起こしたらふと、目があって。


「ま、お前と二人きりの家で過ごすのも悪くねぇけどな」


 そう話すクロウの表情には喜色が滲んでいた。それを見たリィンはああそうかと理解する。刹那、日溜まりのようなあたたかさがじんわりと胸を占めた。
 からかわれるか、照れるのか。それともすんなりと口付けをかわしてくれるのか。恋人が起きる前に考えていたそれは外れていなかったのだ。ただ、思っていた以上に。


「それなら今日は家でゆっくり過ごすか」

「お、意外とノリ気か?」

「俺もクロウと一緒ならそれでいいと思っただけだよ」


 キスをして、当たり前のように始まる一日。ドキドキした初めてのそれは当然のように自分たちの日常に溶け込んで、幸せを胸いっぱいにもたらしながら穏やかな朝を運んでくれた。
 もちろんそれは自分たちにとって特別なことだけど、次は躊躇うことなく自然に触れ合うことができるような気がした。本当にこの恋人は自分たちの関係を大切にしてくれているのだ。そしてリィンのことが好きなのだと体中に伝わってくる。例えばそう、ふっと細められたその瞳からも。


「じゃあ今日はのんびりするか。朝飯はパンでも……いや、ホットケーキでも焼くか」


 突然メニューを言い換えたクロウにリィンは首を傾げる。朝ごはんに別段こだわりはないけれど、こうも急にメニューを変えられたら誰でも気になるだろう。


「いいけど、急にどうしたんだ?」

「この前もらった蜂蜜、まだ残ってたろ」


 そういえば、と冷蔵庫に入っている小瓶の存在を思い出して納得しかける。しかし、蜂蜜ならパンと一緒に食べてもいいのではないかと思ったところで「それに」と言葉を続けたクロウは口の端を緩めた。


「ゆっくり話でもしながら二人でホットケーキを焼くのも悪くないだろ?」


 まだ今日は始まったばかりなのだから。
 伝わった言葉に思わず笑みを零しながら「そうだな」とリィンも頷いた。たまにはそんな休日の過ごし方も悪くない。まったり、二人の時間を楽しもう。

 そう思っていたところで不意に「リィン」と呼ばれて振り返ったら、瞬く間に唇を掠め取られた。そうして笑うクロウにつられるようにリィンも笑った。








- pattern G -

好きなんだ、とても。だから触れたいと思ったんだ
(多分、クロウも同じだったんだろう)