- 閃Ⅰ時間軸 先輩後輩編 -




「ん……」


 ゆっくりと意識が浮上すると同時に違和感を覚える。冷たくて固い、それが床だと理解するのに十秒近く。その床の上で寝ていた事実に気が付いて、勢いよく体を起こすまで数秒。


「気が付いたか」


 すぐ傍から聞こえてきた声に振り返ると、そこには意識を失う直前まで共にいた先輩が膝に肘を乗せて頬杖をつきながらリィンを見ていた。


「クロウ先輩……!?」

「どこも怪我はしてねぇか?」


 聞かれて、リィンは自分の体を確認する。目に見えるところに怪我らしい怪我はない。軽く体を動かしてみても痛みは感じないから大丈夫だろう。


「はい、俺は大丈夫です。先輩は?」

「俺もこの通り、何ともねーよ」


 広げられた腕に怪我は見当たらない。そのことに一先ずほっとする。
 おそらく、自分たちは一緒にこの不思議な現象に巻き込まれたのだろう。原因は分からないけれど徐々に意識を失う前の出来事も思い出してきた。

 いつものように放課後に生徒会の手伝いをしていたリィンはその最中、たまたま目の前にいるこの先輩に出会った。
 また生徒会の手伝いをしているのかと声を掛けたクロウは、暇だからという理由でリィンが運んでいた資料の半分を受け取った。何気に面倒見のいい先輩は結局それからリィンに付き合ってくれて、生徒会室でトワに報告をした後は二人で学生会館を出た。

 そして、そのまま寮に戻ろうとした時。いきなり時空が歪み、気が付いた時にはこの場所にいた。


「しっかし、ここはどこなんだろうな」


 きょろきょろと部屋を見回していると隣でクロウが呟いた。家具も何もない、ただの白い部屋。照明機器もないというのに部屋の中が明るいというのもまた不思議な話だ。何もない部屋にいるのは自分たちだけ。唯一ある扉はリィンより先に気が付いていたクロウがとっくに調べているだろう。


「ARCUSも使えそうにないですね」

「まあそれは元々試験運用の段階だしな。扉を壊して出るってのもあまり現実的ではねぇな」


 やはり先に調べていたらしいクロウが言うのならその方法も厳しいのだろう。だが、ここにある出入口はその扉だけだ。ここからの脱出を計るのならあそこ以外にないのではないだろうか。
 そう考えていた時だ。ひらり、と何かがリィンの前に落ちる。それを拾ったリィンは、そこに書かれていた文字を読んで固まる。


「本当かどうかは知らねーが、ここからの脱出法らしいぜ」


 どうやら、何もないとばかり思っていた部屋の中には一枚の紙が置いてあったらしい。先に起きたクロウが見つけていたその紙には、確かにここから出る方法が書かれていた。
 ただ、あまりにも非現実的といえばいいのだろうか。ふざけているとしか思えない内容を信じろというのは難しい話だ。キスをしなければ出られない部屋、なんて。


「……えっと、本当にこれで出られるんでしょうか?」

「さあな。ただ、他に方法がないのも事実だが」

「そう、ですね」


 自分たちのことをからかっているだけなのか、本当にキスをしたら出られるような仕組みになっているのか。仮にそれが真だったとしてもどういう仕組みなのかはさっぱり分からないが、旧校舎のように人の理解が及ばない不可思議なものは現実に存在している。ここもそういった何らかの力が働いている場所だとすれば、絶対に有り得ないこととも言い切れない。
 しかし、キスをすれば出られるのだとしてもそれじゃあキスをしようという話にはならないだろう。キスとは世間一般的に好きな相手とするものであり、誰彼構わずにするような行為ではない。


「さあて、どうする。後輩君?」


 投げ掛けられた質問の意味は考えずとも分かった。どうするも何も、とは思ったがやはり試してみましょうと簡単に切り返せることではない。


「一つは寮に戻らない俺たちに誰かが気付いて助けに来るのを待つ。二つ目はあそこの扉をどうにか突破する」


 握った拳から指を一本ずつ開きながらクロウが言う。


「三つ目はあの扉以外の脱出方法を探してみる。四つ目は……ここに来た時と同じようにまた時空の歪みが発生して元の場所に戻れることを信じるってところか」


 片手の指を殆ど開いたクロウの瞳がリィンを映す。ふっと口角を持ち上げたその先輩は、徐に最後の指を開く。


「五つ目はそこに書かれてる方法を試してみる、だな」


 どれにする? と聞かれても正直すごく困るのだが「俺はどれでも構わないぜ」と本人はいつもの調子で軽く話した。
 本当にどれでも――最後のでもいいのだろうか、と思ったものの本当に出られるのならやらない理由はない。現状は確信が持てないとはいえ、この紙が唯一この場所にあった手掛かりだというのなら試してみる価値はあるのかもしれない。だが。

 そうやって真剣に考えていると唐突に部屋の中に笑い声が響いた。もちろん、この部屋には自分たちしかいないのだから声の主は決まっている。
 顔を上げて隣を見れば、クロウが肩を震わせて笑っていた。


「ったく、ホントに真面目だな。そんな真剣に考えることでもねーだろ」


 確かにここでただじっとしていても状況は何も変わらない。だけどその脱出方法が問題なのだと、考えていたリィンにこの先輩はさらっと続けた。


「別に口にしろなんて一言も書いてねぇんだし?」


 あ、と思わず声が零れた。
 言われてみればその通りだ。クロウに渡された紙に書かれていたのはただキスをしなければ出られない部屋という一文だけ。具体的にどこにしろという指定はない。
 そのことに気が付いたリィンは自分でも顔に熱が集まっていくのが分かった。


「……分かっていたなら最初からそう言ってくれればよかったんですが」

「いやーあまりに初々しい反応が返ってきたモンだからつい、な」


 ついじゃないでしょうと思ったところで「んで、どうする?」とクロウがもう一度問う。キスならどこでもいいのであればこれ以上悩むこともないだろう。


「分かりました」

「よし、じゃあどこでも好きなところにキスしていいぜ」

「…………俺から、ですか」


 いざそう言われると少なからず躊躇ってしまうのは仕方がないだろう。口にする必要がないにしても「はいそれでは」とすぐには割り切れない。
 でも考えすぎる必要はないのだとすれば、手の甲あたりにでもすればいいのだろうか。そう思った矢先にクロウが口を開いた。


「俺からしてもいいが、その場合どこにしても文句は言うなよ?」


 わざわざそう言葉にしたのもこちらの反応が見たいがためのからかい目的だろう。こんな時でも変わらない先輩に呆れつつ、けれどそのお蔭で余計なことを考えずに済んでいるのも確かだ。
 どこまでが意図した発言なのかは分からないが、多分どっちも正解なんだろうと思う。決して短くはない付き合いの上でリィンはこの先輩のことをそう理解していた。


「一体どこにするつもりなんですか」

「そうだなぁ」


 一つ溜め息を吐いた後に試しに聞き返してみると、クロウは口元に手を当てて考える素振りを見せた。
 赤紫の双眸がリィンが捉えたのはそれから間もなくのことだ。目が合って、口の端が緩く持ち上げられたのを見た次の瞬間。

 がちゃり。

 額に微かな温もりが落ちたと同時にどこからか音が届く。


「どうやら無事に出れそうだな」


 軽く身を乗り出したクロウが扉のある方を見てそう言った。そのまま距離を取った彼はゆっくりと立ち上がる。さらり、銀の髪が揺れて再びその瞳はリィンを映す。


「そんじゃあとりあえず出るか。扉を開けたら異世界でした、なんてオチじゃなきゃいいがな」

「……流石にそれはないと思いたいですけど」

「まあ行く道があるなら帰り道もあるだろ。いざって時はお兄さんが助けてやるから安心しろよ」


 行こうぜ、と足を進めたクロウより少し遅れてリィンも立ち上がる。

 警戒しつつ開けた扉の先に広がっていたのは夕焼けに染まった士官学院――つまりは、時空の歪みに巻き込まれる前の場所だった。
 すぐそこの学生会館にはまだ多くの気配が残っており、皆それぞれ放課後という時間を自由に過ごしているようだ。要するにここにあるのはいつも通りの放課後だった。


「戻って来れた、みたいですね」

「だな。時間も飛ばされる前と大して変わってないみたいだな」


 結局さっきのあれが何だったのかは分からなかったが、考えたところで答えの出ない問題だ。無事に戻って来れたのだからそれでよしとした二人は今度こそ学院を後にした。

 ふと、肌を撫でた風にリィンは顔を上げる。
 小さな熱が落ちた瞬間の、あの不思議な感覚は何だったのだろう。生まれた疑問を考える間もなく名前を呼ばれ、中断された思考は不可思議な現象と一緒に頭の隅に置き去りとなった。
 そのことをリィンが思い出すのはまだ暫く先のお話。










fin