- 閃Ⅲ時間軸 教官のリィンと蒼のジークフリード編 -




 ぼんやりとした意識がはっきりしてくる。
 あれ、俺は……。回らない頭でそう考えた時のことだ。


「気が付いたようだな」


 聞き覚えのある声にリィンは飛び起きた。こんなに近くで聞こえるはずのない声。あたたかな記憶より幾らか低いその声をリィンは知っていた。


「蒼の、ジークフリード……!」

「先に断っておくが、俺もお前と同じ身の上だ。感情の矛先を向けられる筋合いはない」


 相変わらず淡々とした口調でジークフリードが話す。しかし、これまで何度か対峙してきた相手を不用心に信用することはできない。今は、まだ。
 対峙する度に心に生まれるざわめきを押し殺し、あくまでも警戒しながら周囲の様子を探る。そんなリィンをすぐ傍の男が笑った。


「自分の目で状況を確認するのは結構なことだが、どうやらここには特殊な力が働いているらしい」

「……特殊な力?」

「結界のようなものだ。一応、脱出方法もあるようだが」


 差し出されたのは二つに折られた白い紙。暫しそれを見つめたリィンは一度、視線を上げる。けれど、顔の半分が仮面に隠れているジークフリードの表情は読めない。


「どうした。脱出のための数少ない手掛かりだぞ」


 まさか誰かが助けに来てくれるなどと考えているのか、と問う声は冷たい。だが、いつまでもリィンが戻ってこなければ仲間たちは自分を探してくれるだろう。リィンが逆の立場なら間違いなくそうするように。
 しかし、問題はそこではない。


「……手掛かりがあるならどうして脱出しないんだ」

「見れば分かる」


 そう言ってジークフリードは紙を上下に動かした。だからさっさと読めということだろう。
 今度こそその紙を受け取ったリィンは両手で紙を開く。そこにはたった一文、無機質な文字が印刷されていた。

 ここはキスをしなければ出られない部屋です。

 何をいっているんだ、というのがリィンの頭に真っ先に浮かんだ感想だった。そして脱出方法が分かっているにも関わらず、ジークフリードがこの場に留まっていたわけも理解する。


「俺が調べた限りここに脱出口はないが、自分の目で調べたいのなら好きにするといい」

「……いや、この状況で嘘を吐くメリットはそちらにもないだろう」


 同じ身の上ということは、ジークフリードもあの時空の歪みに巻き込まれたということだ。それ事態が不確かなものであるが故に、別の場所にいたはずの自分たちが一緒にいるこの状況も有り得ないとはいえない。そして、この男はリィンより先に目を覚ましていた。その時点でこちらに害を加える気がないことは明らかだ。
 これまで何度か顔を会わせた中で命を狙われたことはないけれど、それこそそのつもりなら実行する時間は十分にあった。しかしそれをせず、リィンが目を覚ますのをただ待っていたのもこの場所を調べた上で他に方法がないと考えたからだろう。となると、先程の発言を疑う必要もない。


「ならば互いの利害も一致しそうだな」


 ジークフリードの言葉にリィンは仮面の奥の瞳を見つめる。やはり、はっきりとその瞳を捉えることはできない。だけどその口元が軽く持ち上げられたことにはすぐに気が付いた。


「何だ。初めてか?」


 主語のないそれが指しているものを理解するのに時間は要さなかった。


「安心しろ。こんなものはカウントされない」

「……別にそこは気にしていない」

「ああ、俺が何か盛るのではないかと疑っているのか」


 それも違うのだが、何もしないと証明できる術はないなとジークフリードは続けた。どこに何を隠し持っているかは互いに身体検査をしたところで絶対とは言い切れない。しかし、それはリィンにばかりいえることではない。


「その可能性はこちらにもある、とは考えないのか」


 そんなつもりは欠片もないとはいえ、味方ではないのは向こうからしても同じだろう。ここで睡眠薬あたりを盛って地精側の情報を引き出す可能性がゼロだとは言い切れないはずだ。
 けれど、ジークフリードはリィンの質問を鼻で笑った。


「お前のような人間には到底できるとは思えない芸当だな」

「俺の何を知っているんだ」

「特別実習とやらの様子を見れば分かることだ」


 いつも実習先で顔を合わせていることを考えれば、辻褄はあっている。だが、と考えるのはおそらく無駄だろう。聞いたところで答えが得られるとは思えない。
 このことに関しては深く考えるのを止めようと頭を振ったリィンの耳に一つ確認するが、とジークフリードが問う。


「ここから脱出する気はあるか」

「当たり前だ」

「ではここを出るまでは何もしないと約束しよう」


 利害が一致しているのなら一時的な協力関係は成立する。この状況を打開したいのはどちらも同じだ。リィンとしても協力を断る理由がない。


「分かった。こちらも誓う」


 ここを出るまでは何もしない。それはそのままこちらにも言えることだったため同じようにリィンも約束を口にした。これで条件は同じだ。
 敵か味方か、はっきりしない男との協力関係。これはこの場所から脱出するためのものであってそれ以上でも以下でもない。


「交渉も成立したことだ。さっさと済ませるか」


 気にしてはいけない、考えるな、と揺れる銀糸を視界に映しながら心の中で呟く。目の前の男はあいつに似ているけれど、違う。
 不意に、ふっと小さく笑う声が耳に届いた。


「あまり緊張するな。すぐに終わる。お得意の人助けとでも思えばいい」


 どうしてそれを、と問い掛ける時間は与えられなかった。ジークフリードによってあっという間に距離は詰められ、口を塞がれた。
 その時、カチッと何かが聞こえた気がした。
 多分、今のが脱出の鍵だ。音を合図に離れかけた彼はその途中で再びリィンの耳元に顔を寄せて、そっと告げた。


「……お前は、お前のやるべきことをやれ、リィン」


 突如落とされた言葉にリィンは両目を大きく開いた。だって、それは。


「ク――――」

「時間だ。次に会う時は敵同士だろう」


 とん、と体を押されたかと思うと急に辺りが白い光に包まれ始めた。どういう原理かは分からないが、鍵が解けたことによってこの不思議な空間が消えようとしているのだろう。
 残された時間は僅かしかない。それでもリィンは声を上げずにはいられなかった。


「待ってくれ! やっぱり、アンタは……!」


 有り得ないと、そう思った。思おうとした。でも、あまりにも友に似すぎている男。見た目も、声も、扱う獲物まで同じで。その最期を誰よりも近くで見ていたというのに、心のどこかではあいつなんじゃないかと。
 訴えるリィンを認めた彼の雰囲気が瞬間、変わった。


「今の俺にもやらなければならないことがある。それだけだ」


 クロウ、と呼び掛けた時には世界は白に埋め尽くされていた。そして気が付くとリィンは元いた場所に帰って来ていた。


「……戻って、来たのか」


 世界が白に染まる寸前に見えた、彼は口元を緩めてこちらを見つめていた。きっと、仮面の下では赤紫の瞳を細めながら。
 ぎゅっと拳を握り、空を見上げる。
 リィンには第Ⅱ分校の教官として、Ⅶ組の一員としてやるべきことがある。けれどクロウにも、ジークフリードとしてやらなければならないことがあるというのなら。


「信じてるよ、クロウ」


 あの日、Ⅶ組へ戻って来た最後の仲間。それは同時に彼を喪った日でもあったが、生きているというのならそれでいい。大切な友にまた会えた、それだけでこんなにも心が満ちる。
 どうやって生き返ったのか。いつ記憶を取り戻したのか、はたまた全て演技だったのか。疑問は尽きないもののまた会う機会は必ず来る。その時は敵として対峙することになるのかもしれないけれど、クロウがクロウであるのなら必ずリィンたちの元へ戻って来る。

 それがリィンの知っている、クロウ・アームブラストという人だから。
 今度は追い掛けるのではなく、ただ信じて待つと。そう、蒼空に誓った。










fin