「恋がしたい」


 唐突に言われたリィンは一度顔を上げ、それから再び手元の本へと視線を落とした。後半へと突入した物語はゆっくりと、けれど確かにクライマックスへと向けて盛り上がってきたところだ。
 謎とされていた部分が次々と明らかになり、主人公たちは真相へと近付いていく。つまり、これは――。


「なあ、恋がしたい」


 繰り返されて、ページの頭から読み返そうとしたリィンはもう一度顔を上げた。見慣れた赤紫の瞳とぶつかったのは間もなくのことだ。


「……すればいいんじゃないか」

「そう簡単に恋ができたら苦労しねーだろ」


 それはそうかもしれないけれど、それを言うなら恋はしたいからでするものでもないだろう。相談されても困るし、これでは恋に恋をしている状態だ。何とも答え難いことを言われたからこそスルーしたというのに、全くこの友人は何を考えているのか。


「俺に相談したところで恋はできないと思うんだが」

「じゃあ他の誰に相談するんだよ」

「クロウなら相談できる友達くらい沢山いるだろ」


 むしろ何故自分に相談しようとしたのか。リィンとしてはそちらの方が疑問だ。
 自分で言うのも何だが、リィンは恋愛経験が豊富というわけではない。クロウのいう恋というものも未だに経験がないくらいだ。どう考えても相談相手を間違っている。友達の多いこの友人ならばもっと他に適任者がいるはずだろうに。


「お前以上に真面目に話を聞いてくれるヤツを俺は知らねーよ」

「それはクロウの態度にも問題があるんじゃないのか」

「俺は真剣に悩んでるんだ」


 って言われても、と赤紫を見ると真っ直ぐな視線を返される。返されても困るのだが、言ったところでこの幼馴染が納得してくれるかといえば怪しい。
 しかし、リィンをよく知っているはずのクロウならばリィンがこの手の話題に明るくないことくらい分かりきっているはずだろう。一体自分にどんな答えを求めているのか。それともただ話を聞いて欲しいというだけなのか。どちらにしても話を聞く以外の選択肢はなさそうだとリィンは本を横に置いた。


「……それで、クロウはどうしたいんだ」


 とりあえず話の先を促してみると「そりゃあ決まってんだろ」と幼馴染は当然のように口を開く。なんとなく、嫌な予感がしたのは長年の付き合い故の勘だ。


「お前が付き合ってくれれば万事解決だぜ?」


 そして、見事に予感は的中した。もはやどこから突っ込んだらいいのか。はあ、とリィンは大きく溜め息を吐いた。
 真剣に悩んでいるというのは何だったのだろうか。百歩譲ってリィンが女だったのなら試しに言ってみるくらいは有りかもしれない。しかしリィンは男である。どう考えても男の幼馴染相手に言うことではないし、言ったところで返事は分かりきっているだろう。


「……俺は男なんだが」

「んなこと知ってるっつーの」

「それなら色々とおかしくないか」


 何が、とはこっちが聞きたい。クロウの返答に対してリィンが思ったところで「何もおかしくねーだろ」とクロウは言い切った。
 誰がどう聞いてもおかしいところしかない。幼馴染の突拍子のない発言は今に始まったことではないとはいえ、幾ら何でもこれはどうなんだと呆れるリィンだったが。


「どうせなら好きなヤツと付き合いたいし」


 さらっとそのような発言が飛び出してきて、固まる。


「好きな、やつ……?」


 暫くして、聞き返したそれに「そりゃそうだろ」とクロウは言った。しかし、リィンの頭はまだ幼馴染の言葉を飲み込めずにいた。


「……誰が?」

「お前」

「誰の?」

「俺の」


 ぽんぽんと短いキャッチボールをしながらリィンは一つずつクロウの発言の意味を理解しようと努力する。だが、あまりに飛躍した内容にリィンは一度ここまでの話を整理することにした。
 そもそも、この話は恋がしたいというところから始まったはずだ。それに対してリィンはしたいならすればいいと答えたものの、話を聞いてもらいたいらしい幼馴染の話を聞くことになったあたりから段々とおかしな流れになり――。


「…………恋が、したいんじゃなかったのか」


 確かに最初はそういう話だった。けれど、途中から恋がしたいというよりも付き合いたい。恋ではなく恋愛がしたいという話にすり替わっていないかと、第三者がいたならそこではないと言われそうなそれをリィンはクロウに問うた。


「俺がしてんのは、お前と恋がしたいって話」


 だから、クロウもそう言い返した。
 そのままゆるりと口の端を持ち上げて幼馴染が尋ねる。


「なあ、俺と付き合ってみねぇ?」


 二人で、恋がしたいから。恋、して欲しいから。
 まだ困惑している様子のリィンにクロウは問い掛ける。優しげな瞳で、柔らかな声に乗せて。それはとても甘い、誘い。
 今までに聞いたことのないようなその声に、熱い眼差しから伝わる想いに。とくん、と心臓が鳴った。


「……クロウは、可愛い女の子が好きなんだと思ってた」


 やがて、ぽつりとリィンが呟いたそれは「お前は別」と即答された。
 好きになって、恋をして、付き合いたいと思う。当たり前だけど、当たり前ではないそれ。リィンは別ということは、クロウは普通に女の子が好きなのだろう。しかしそれ以上に。


「俺が好きなのはお前だぜ、リィン?」


 正直、あまりに急な展開に頭は未だに混乱したままだ。でも、クロウの言葉を聞いてリィンの中で一つだけはっきりしたこともあった。

 ゆっくりと息を吸って、吐いて。
 リィンは自分を見つめる赤紫の瞳を捉えた。


「…………さっきも言ったけど、俺は男だし、クロウは俺にとって大切な幼馴染だ」


 それだけは今後、何があったとしても絶対に変わらない。リィンもクロウも同じ男で、小さい頃から一緒に遊んでいた幼馴染だという事実も今更変わることはない。変えられない現実だ。


「そうだな。けど、俺はお前が好きだ」


 好き、というたった二文字の言葉がリィンの胸にじんわりと熱をもたらす。その熱を、リィンの心はすんなりと受け入れていた。それが、答えだった。
 交わる赤と青の紫。昔からいつだって近くにあった、特別な色。


「……俺も、多分クロウが好きだ」


 当たり前のように傍にいる幼馴染が大好きだった。それこそ、幼い頃からずっと。好きにも色々あるのだと知るよりも前から好きで、その気持ちは今も変わらずにリィンの胸の奥で大切にしまわれていた。
 月日が経ち、好きという言葉が持つ意味を知った今でもリィンはクロウが好きだった。友として、幼馴染として。恋なんてしたこともなかったし、これがそういう好きである可能性なんて考えたこともなかった。けど、幼馴染の言葉で「ああ、そうか」と納得してしまったから、応える。


「恋なんてしたことないから、よく分からないけど……」

「何言ってんだ。だから恋をしようって言ったんだろ」


 そう言ってクロウが笑う。多分、なんて曖昧な表現をしたことをこの幼馴染は全く気に留めていないようだった。
 ――というよりも、リィンがまだ混乱していることも戸惑いながらも気持ちを伝えようとしたことも全部分かっているだけの話かもしれない。昔からこの幼馴染は上手く言葉にできなかったリィンの気持ちもちゃんと分かってくれていたから。

 ひとしきり笑ったクロウは、やがて真っ直ぐにリィンを見つめた。


「リィン、俺と付き合ってくれ」


 改めて、クロウが告げる。特別な想いが、リィンに届く。
 友としてではないその気持ちを受け止めて、昔からずっと傍にある赤紫の瞳を見つめ返してリィンは緩く笑みを浮かべる。


「俺でよければ」


 言えば、お前がいいんだと恋人は微笑んだ。








二人で一緒に。そしてここから恋愛をはじめよう