「結婚しよう」


 耳に届いた音に思考は完全に停止した。頭が真っ白になって、心臓がどくんと一際大きな音を鳴らした。
 ――クロウは、今。何と言ったのか。
 不意に、いつかの彼の言葉が脳裏を過った。あれはそう、大学が決まって進路相談から勉強まで付き合ってくれた幼馴染みに報告をした時のことだ。おめでとうとまるで自分のことのように喜んでくれたクロウは、唐突に言った。


『なあ、リィン。俺のところに来ないか?』


 あまりに急な提案に最初は驚いた。でも実家から大学まではかなりの距離がある。故に、一人暮らしは選択肢の一つとして考えていた。クロウが挙げた理由も俺が一人暮らしを考えた理由と同じだった。
 クロウと一緒に暮らすのはきっと、絶対に楽しいだろう。誘ってくれたことも嬉しかった。だけどそうだなと二つ返事で頷けないことも当時の俺は知っていた。周りには鈍いだの疎いだの言われる俺でもいくら相手が気心の知れた幼馴染みとはいえ、男女が同じ屋根の下で暮らすことに何も思わないわけじゃない。そう言ったら。


『お前が好きだから、一緒にいたい』


 真っ直ぐに赤紫がこちらを映して、告げた。これまで何度も言われたことも言ったこともある言葉だったけど、これまでと違うことはすぐに分かった。
 幼い頃から幾度となく伝えてきた言葉。それは全て本心から口にしてい言葉だった。でも幼馴染みが、クロウがこの関係を変えるために本気で伝えた一言に込められた想いは――。

 ざーとどこからともなく流れ込んだ音に気が付く。
 いや、耳に入らなかっただけで水は流れ続けていたのだろう。シンクには洗い途中の食器が泡にまみれたまま積み重なっている。
 とりあえずこれを片付けて、なんてできるわけもなく。このままでは水が勿体ないと蛇口を捻り、同じ空間にいる想い人を振り返った。するとやっぱり、すぐにこちらを見つめる赤紫とぶつかった。


「これからもこうしてお前と一緒にいたい」


 とくん、とまた心臓が鳴る。とくとくと早まる鼓動が治まらない。真っ直ぐな視線が熱い。真剣な声が心に響く。想いが直に心へと伝わる。


「俺は、お前のいない未来が考えられない」


 徐に立ち上がったクロウは俺の目の前で続ける。
 それは俺も同じだった。クロウが隣にいないことなんて正直考えられない。それほどまでにクロウは当たり前に俺の生活の中にいる。年が一つ離れているからいつも同じ学校というわけにはいかなかったけれど、ずっとクロウを追い掛け続けていたのは俺の方だ。


「お前といたいんだ、リィン」


 いつかと同じような言葉をクロウは口にする。一緒にいたいから、俺たちはこうして一緒に暮らすことを決めた。それは俺が望んでいたことであり、クロウが望んでいたことでもある。
 それこそ小さい頃からずっと。夕方のぎりぎりまで一緒に遊んで、また明日と別れるのが寂しかった。もっと遊びたいと、クロウを困らせたこともある。流石にそんな我儘を言ったのは昔の話だけど、まだ一緒にいたいと思ったのはその時だけの話ではない。それを恋だと自覚したのは高校生の頃でも昔から自分の好きがそういう好きだったと理解するのに時間は要さなかった。もちろん今は、ちゃんと自分の気持ちも理解している。


「…………クロウは、いつも突然だな」


 何と答えればいいのか。あまりに突然なことに頭が回らない。あの時もいきなりの告白に驚いたけれど、今回はそれ以上だった。


「……これでも色々考えてるんだがな」

「分かってるよ」


 分かってる、と繰り返す。クロウはいつだって俺のことを考えてくれていて、大切に想ってくれている。それこそ出会った頃から年下の俺のことをいつだって気に掛けてくれていた。
 五年前に告白された時もクロウは真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれた反面、俺の返事を聞いてほっとしていたことを知っている。それだけクロウは俺のことに真剣で、真っ直ぐに向き合ってくれている。今回だって唐突に思い至って告げたことでないことくらい、分かる。

 そう考えていた時、つうと何かが頬を伝った。それが涙だと理解したのは二つ三つと次々にそれが流れてきたからだ。


「ごめん、違うんだ」


 泣きたいわけじゃない。それなのに溢れてきた涙を止めようと持ち上げた手をぐいっと掴まれて引かれた。そのまま俺の体はクロウの胸に引き寄せられた。


「擦ったら目が腫れるだろ。分かってるから変な心配はすんな」


 俺が何かを言うよりも早く、こちらを落ち着かせるように背中を叩きながらクロウの声が頭の上から降ってきた。そのことにまた目頭が熱くなりながらも謝ろうとした口を結んで、こくりと頷いた。
 クロウは優しい。言えば本人は否定するけど、俺はその優しさに何度も助けられている。このあたたかさにとても安心する。そしてやっぱり、そんなクロウが好きなんだ。


「クロウ」


 暫くして、涙がおさまったところで声を掛ける。分かっていると言ってくれたクロウは、本当に分かってくれているんだろう。それだけ俺たちは同じ時間を共にしてきた。
 でも、言葉にしなければ伝わらないことも世の中にはたくさんある。何よりもクロウが本気で伝えてくれたことに対して俺もちゃんと応えたい。だから。


「俺も、クロウと一緒にいたい」


 何と言えば伝わるのだろう。まだ上手く頭が回らない。だけど一刻も早く、クロウの気持ちに応えたかった。クロウが俺に伝えてくれたものを俺もクロウに伝えたい。


「好きなんだ、クロウ。付き合えたことも夢みたいで、結婚できたらどんなに幸せだろうって、ずっと……」

「……本当に、お前は」


 とにかく自分の気持ちを伝えようと言葉にしたそれを聞いたクロウは背中に回していた腕を肩に置き、そっと体を離した。見上げた赤紫に自分が映る。真剣なその瞳に心臓が音を立てた。


「夢じゃないし、幸せにする」


 ああ駄目だ、と思う。
 せっかくおさまったのにまた、溢れてしまう。だって本当に、クロウのことが好きなんだ。そこにこんなことを言われたら。


「お前の一生を俺にくれ」


 ――俺の一生をお前にやるから。

 クロウの声が胸の底まで響く。幸せで胸がいっぱいになる。ただでさえ溢れそうなそれが零れて、頬を伝った。だけど今度はそのまま正直な気持ちを答えた。


「これ以上ない、贈り物だな」


 少しだけ声が揺れる。でも、それを聞いたクロウは嬉しそうに笑った。よかった、ちゃんと伝わったんだとほっとしたところでぽんと大きな手に頭を撫でられた。


「言っておくが、返品は利かねぇぜ」

「するわけないだろ」


 頼まれたってお断りだ、と言ったら「その言葉、忘れんなよ?」とクロウは口角を持ち上げた。そんな当たり前のことを尋ねる幼馴染に「一生忘れないよ」とはっきり返す。
 大体、クロウのことで忘れることの方が難しい。それは多分、クロウだって同じなんだろう。どんなに些細な出来事だってそういやそんなこともあったなとこの幼馴染は笑うのだから。


「好きだ、リィン」


 自然と触れ合ったその場所から互いの体温が混ざる。幸せだ、と胸が熱くなる。それはどちらともなく溢れて。


「俺も」


 好きだ、と再び重なった唇から大きな想いが伝わった。







いつまでも、死が二人を分かつまで一緒にいよう


「俺も、クロウが好きだよ」
それじゃあ両想いだな、と笑い合った気持ちは今も何一つ変わらない