コンコンというノックの音に手を止めるとドア越しに「クロウ?」と控えめな声が掛けられた。声の主はクロウもよく知っている人物だが、ちらっと時計を確認して珍しいなと思う。
もちろんクロウに断る理由はないため、すぐ部屋に入るように促せば学生時代より背も伸びて大人びた後輩がドアから姿を見せた。
「すまない、忙しかったか?」
「いや、ちょっとカードを広げてただけだ。それよりどうかしたか?」
机に並んでいたカードを片手でさっと一纏めにし、ケースにしまいながら尋ねるとリィンは僅かに視線を動かした。だがそれも一瞬のことで青紫の瞳は程なくしてクロウを映した。
「大したことじゃないんだが、たまには二人で飲まないか?」
そう言ってリィンが持ち上げたのは一本のワイン。安物でもないがどこでも手に入る、このリーブスなら駅前の如水庵でも購入できるそのワインはお手頃な価格で味も良く飲みやすいとなかなかに評判のいいものだ。
――とそれはいいのだが、滅多にない後輩からの誘いにクロウはきょとんとした表情を浮かべた。礼儀正しい後輩が夜も深まってきたこの時間に人の部屋を訪ねることも珍しいが、ぱっと見た限りでは特に変わったところもない。少なくとも日中、学院で顔を合わせていた時はいつも通りだったのだが。
「いいぜ。丁度この前いいつまみが手に入ったんだよ」
「へえ。それは楽しみだな」
一先ずそれは置いておくとして、適当に座ってくれと言ってクロウは一週間ほど前に見つけたつまみを皿に開ける。その間にリィンは簡素な丸い椅子を机の傍まで移動させた。
これは立ち話をすることもないから座れと言ってもベッドは悪いしクロウを移動させて自分が椅子に座るのも、と躊躇う後輩のためにクロウがここへ来て早々に用意されたものだ。それを知ったリィンは「立ち話でも良かったんだが」と言ったけれど、それなりに利用されているのだから正しい買い物だったといえるだろう。
「クロウ」
「おう、サンクス」
一通りの準備を終えて椅子に座った二人は交互にワインを注ぐ。コルク栓を開けたリィンがクロウへ、グラスを置いてワインを受け取ったクロウからリィンへ。
そうして再びワインからグラスに持ち替えると、カチャンとグラスを合わせてお疲れ様と乾杯をした。そのままくいっと一口、傾けると評判通りのさっぱりとした滑らかな味が喉を通りすぎる。
ゆらり。揺れるワインを暫し眺めたクロウは徐に口を開く。
「今年ももう終わりか。教官生活はどうよ?」
「大変なことも多いけど、やりがいのある仕事だと思うよ。クロウは?」
「まあ概ね同意見だな。少し前はあっち側だったのが信じられないくらい若者は元気だよな」
「まだ十分若いだろ」
その年で何を言っているんだとリィンが呆れる。生徒とだってそこまで違わないというが、その数年が大きいのだと何度かしたような受け答えをする。
たかが二歳、たった一年の差でも光ある若者は眩しい存在だった。それをいうのなら同学年相手にも似たような心境を抱いたことはあるのだが、お節介な友人たちがいたからなとくるり、グラスを回す。
「そういやお前は今年の春に本校を卒業したばっかりだったか」
「ああ。けど、ここまであっという間だったな」
時代の煽りを受け、この分校も様々な事件に巻き込まれていった。クロウもつい半年ほど前は敵対する立場にあったが、今はこうして再び同じ釜の飯を食べているのだから人生何が起こるか分からない。
(……本当に、何が起こるか分からないモンだな)
敵対していたとか、記憶を失くしていたとか以前に。
そう思いながらゆっくりと瞼を持ち上げる。ぱっと見はいつも通りを装っていたこの後輩はきっと、口実のために酒を用意したのだろう。それこそ、そこの如水庵あたりで。
理由は、見当がつかないこともない。けれどこちらから言い出すのも違うだろう。そう思ったクロウは赤から青紫へと視線を動かした。
「それで、本当はどうしたんだ」
ただ酒が飲みたかったわけではないんだろ、と尋ねたら青紫の瞳が確かに揺れた。当たりか、と心の中で呟きながらグラスを置けば、リィンは分かりやすく視線を逸らす。
だが、誤魔化しきれるとも思っていなかったはずだ。今日は何の日か、そんなことはクロウ自身が一番よく知っている。気づかないわけがない。それでも、リィンはここへ来た。だからクロウは続けた。
「今日で今年も最後だ。言いたいことは全部言っちまえよ」
「言いたいことなんて……」
「俺にはただ聞いてやることしかできねぇが、その上でお前と一緒にいることはできる」
息を呑むような、音がした。間もなくして固まるリィンの表情が赤紫の双眸に映った。
そう、今なら一緒にいられる。二年前の今日、最期の別れをしたはずの友人の前に自分は確かに存在しているのだから。
「今年最後の仕事も無事に終わったんだ。今は教官である必要なんてねぇし、同僚だから俺のとこに来たわけでもないだろ」
リィンが求めるものが何か、まではクロウにもはっきりとは分からない。しかし、この友人がこんな時間に人の部屋を訪ねて来た理由を想像するのは容易い。
それは同僚だからではないし、先輩だから、Ⅶ組の仲間だからというのも違う。どれも自分たちの関係性としては間違っていないが、この場合は正しくもない。しいていうのなら――思いながらクロウはリィンを真っ直ぐに見つめた。
「色々……俺が考えていた以上に大変な道を、お前はちゃんと前に進んだんだな」
忘れもしない。緋に染まった帝都の、煌魔城の最上層で行われた出来事。思いをぶつけ、共に戦い、痛む体に悟った最期。なんとか伝えた言葉と、涙を流す友の顔。全部、覚えている。
この真面目で心優しい青年は自分の最期の言葉をきちんと受け止めてくれた。そして困難な道を立ち止まることなく、真っ直ぐ前へと進んで行った。どんなに傷ついても、ただひたすらに前へ。そうして、見つけた自分の居場所。
小さく、息が漏れる。それは張りつめていた一本の糸が解けた瞬間だった。
「そんな、こと……俺はただ、必死で……」
「ああ、よく頑張ったな」
ふるふると、リィンは首を横に振る。違う、と否定するその声を「違わねーよ」とクロウは優しく否定した。
陽だまりの中にいても決して忘れることのできない、忘れてはいけない過去を背負うなとは言わない。けれど、それは一人で抱え込む必要のないものだ。そのことをクロウはもう、知っていた。
「お前に救われた人がこの世界にはたくさんいる。お前のやってきたことは何も間違ってねーよ」
世間にはそれを悪く言う人もいるのかもしれない。しかし、リィンのことを知っている人たちは決して否定しない。みんな、ちゃんと分かっている。この青年がここまで、どれほどの道を歩いてきたのかを。
「それに、これからは俺もいる」
分かっているから、新しい場所で頑張る友を多くの仲間が帝国の各地で支えた。今度こそ、大切な友の力になりたいと。その気持ちはクロウにしても同じだ。
加えてクロウにはリィンと同じだけの力がある。そういう意味でもリィンが一人で抱える必要はないのだ。もっとも、先にそれを教えたのは――。
理由はどうあれ、一度は失くしたはずの生はここにある。裏切られても追い掛けて、連れ戻そうとした友が、こんなろくでなしを忘れないどころか再び手を伸ばしたから。
「心配しなくても俺はどこにも行かねーよ。ここで、お前の隣でこの先もずっと。お前を支えてやる」
ぶつかった薄い紫色。自分とは違うその色を追い掛けるようになったのはいつだったか。
思えば殆ど最初からだろうな、とクロウは伸ばした手をリィンの背中へと回す。
「クロ――」
突然の行為に驚いて声を上げようとしたリィンの言葉は最後まで言い終える前に止まる。僅かに引きかけた体はすっぽりとクロウの腕に収まった。
トクン、トクン、とその音は触れ合った場所を通じてクロウに伝わってくる。おそらくはクロウの音も同じように、リィンにも伝わっているはずだ。
「だから無用な心配はすんな」
その友が全てを受け入れ、共に在ることを望んでくれるというのなら。一度終わったゲームをいつまでも引き摺るなんて馬鹿みたいだろう。完全に割り切れているかと問われたら些か怪しいかもしれないが、今となっては既に過ぎたことだ。
それに、偽りだったはずの学生生活の中でクロウにはいつの間にかまた大切なものができてしまった。過去に決着が付いた今、今度は未来に手を伸ばしてみるのもいいかもしれないと、そう思ったのだ。
「…………クロウ、あったかいな」
やがて、腕の中からぽつりと呟くような声が聞こえる。
「そうか? お前の方があったかいだろ」
「いや、クロウの方があったかいよ」
ぎゅ、とリィンの腕も同じようにクロウの背に回される。傍にある温もりに安心したのは、多分お互い様だ。
漸く取り戻した、戻ってこられた。やっと届いて、触れることのできた。何者にも代えがたい、大切な人はここにいる。ただそれだけで心はこんなにも満たされる。
どれくらいそうしていたのか。微かに弱まった腕の力を感じてどちらともなく体を離した二つの紫は、数分ぶりに見慣れたその色を映した。
「すまない。どうしてもクロウには甘えてしまうな」
「甘えりゃいいんだよ。つーか、俺がお前を甘やかしたいしな」
「それならクロウも俺を頼ってくれ」
あれから更に時は流れ、今は何も知らない子供ではなくなったから。そんな風に話す友人にクロウはふっと口元を緩めた。
「今でも十分頼ってるよ」
お前が思っているよりも、ずっと。
そう心の中で付け足しながら告げた時のことだ。一際大きな鐘の音がリーブスの街に響いた。
「どうやら年を越したみたいだな」
全ての針が重なったのも束の間、秒針が一足先にカチカチと進み出す。一年が終わり、ここから再び新たな年が始まる。
「また一年、よろしくな」
「ああ。こちらこそ」
短くない付き合いで初めて交わした年越しの挨拶に二人は小さく笑みを浮かべる。なんだかおかしな話だけれど、それもこれから何度でも回数を重ねていけばいいだけの話だ。そのような未来は、この先にどこまでも続いている。
すぐ傍で笑っている大切な人の顔には、ここに来た時の不安はすっかり消えているようだった。よかった、と思ってその黒髪を引き寄せたクロウはそこにそっと触れるだけのキスを落とす。
「ク、ロウ……?」
ぱちぱちと目を瞬かせるリィンに口角を持ち上げたクロウは人差し指を唇に当てて言う。
「よく眠れるおまじない。これが結構効くんだぜ?」
それは誰が聞いても分かるような嘘だったけれど、きょとんとした顔をしたリィンは次の瞬間。
「そうか」
――と、言ってふわり。柔らかな笑みを見せた。
その反応に思わず呆気にとられたクロウを余所に「今日はありがとう」と言った同僚は日付も越えてしまったからと立ち上がる。
ただの天然か、それともアルコールが入っているせいか。少なくとも顔がほんのりと赤く染まっているのは両者ともに酒のせいだ。本当にそれだけが理由かは、お互い定かではないけれど。
「おやすみ、クロウ」
「…………おう」
おやすみ、と返したところでパタンとドアが閉められる。そのドアを暫し見つめたクロウは、はあと小さな息を吐く。
どうせいつものあれだろうけれど、今日のところはそれでもいいかと向けた視線の先には幾億千の星が夜空にきらきらと輝いていた。何てことのない日々は、今日も確かに続いている。
(そう、時間はたくさんある。だから)
いつか、新たな関係が始まる日が来たらいいのにと。星に願う、なんてらしくないなと笑ったクロウもまたゆっくりと立ち上がった。
これからも、ずっと
終わりの日は過ぎ去り、始まりの日がやってきた
来年も再来年も、二人で共にこの日を迎えよう