一つ、また一つ。花が咲いては消えていく。色とりどりのそれを人々は静かに見上げている。リィンもまた空に咲く花をじっと見つめていた。
ドーンと大きな音が鳴る度に大輪が花開く様に皆が釘付けになっている時、繋いでいた手に僅かな力が込められた。それに気が付いたリィンが隣を振り向くと、皆が皆空を見ている中で彼はただ一人地面を見つめていた。さっきまでは一緒に楽しんでいた彼の変化にリィンが声を上げようとした時、それより早く彼が口を開いた。
「俺、明日引っ越すんだ」
突然の告白にリィンは目を丸くした。引っ越すなんて話は初めて聞いた。
「祖父さんの家に行くんだ。だから、もう一緒に遊べない」
「…………そう、なんだ」
うん、と肯定されたところで会話が途切れる。知らなかった。けれど小さいリィンにもそれが家庭の事情で仕方のないことだと分かっていた。
彼の両親が交通事故にあったのは一週間ほど前のことだった。何とか彼を元気付けたいと思ってもどうすれば良いか分からず、戸惑っていたリィンの家にいきなりやって来た彼は「夏祭りに行こうぜ!」とそれはいつも通りに誘ってきた。あまりに普通の友人にぽかんとしてしまったリィンだったが、楽しそうに笑っている友の姿に内心でほっとしていた。けれど、最初からこのことを告げるつもりだった彼はどんな気持ちだったのだろう。
「……ありがとな」
「え?」
考え事をしていたところで唐突にお礼を言われたリィンはつい聞き返した。どうして急に、そう思ったリィンに友は落ち着いた声で続けた。
「今日、付き合ってくれて」
言われてリィンは首を思いっきり横に振る。
「俺の方こそ、誘ってくれてありがとう」
リィンはこの友人と遊ぶ時間が毎日楽しみだった。今日だってお祭りに誘われて凄く嬉しかったし、彼と一緒だからこんなにも楽しかった。
否定をしたリィンに友は微かに笑う。なら良かった、と言った友人はゆっくりと今も次々に花が咲き続ける空へ視線を向けた。
「元気でな」
花火の光に照らされた彼の表情はやけに大人びていて、だけどどこか寂しそうにも見えた。
いや、寂しくないわけがないのだ。引っ越しの話に限らず、寂しくないわけがないのにこの友人は全く泣かなかった。もしかしたらリィンが知らないところで泣いていたのかもしれないけれど、そうだったらどんなに良いか。泣かない友人にリィンの方がぎゅっと胸が苦しくなったほどだ。
いつも彼はリィンの知らないことを沢山教えてくれて、いつだってリィンを助けてくれた。でも、自分はそんな友人の力になれないのか。何も出来ないのか。
考えていたところでドーンという一際大きな音が聞こた。つられるように空を見上げたリィンの視界には巨大な花が映った。その花は一瞬の内に闇へ溶けてしまったけれど、鮮やかな花火は目に焼きついたまま。
ああ、そうか。思ったリィンは再び空から隣の友人へと視線を落とす。
「また、いつかまた。一緒に花火を見よう」
リィンの言葉に赤紫の瞳が僅かに開き、間もなくしてその瞳にリィンが映る。何を言っているのかと言いたそうな顔で見られるが気にせずにリィンは続けた。
「だって、もう二度と会えないわけじゃないだろ?」
一生の別れじゃない。だからいつか、今はまだ無理でも大人になれば遠くにだって行けるから。これはさよならではない。
そう伝えるリィンにぱちぱちと数回瞬きをした友人はぷっと吹き出すとそのまま笑い声を上げた。笑われるようなことを言った覚えのないリィンは突然の笑い出した友人に驚いたが、でも何だか久し振りにこんな顔を見た気がした。
「……そうだな。もう会えないわけじゃないよな」
会おうと思えばきっと。祈るように呟かれたそれにリィンも「そうだよ」と微笑んだ。
「じゃあまたいつか、一緒に夏祭りに行くか」
「約束だよ」
「ああ、約束な」
ぎゅ、とどちらともなく手を握って幼い二人は笑い合った。
それは遠い昔にした、大切な友との大事な約束。
満開の花が咲く頃に
浴衣を着ている人をよく見かけるなと思いながら歩いていた帰り道。丸い提灯に淡い光が灯され、太鼓の音が聞こえてくる頃にはそういえば今日は夏祭りの日だと何気なく見たポスターのことを思い出した。
せっかくだから少し見て行こうかとクラスメイトと一緒に人並みに沿って辿り着いた会場には既に大勢の人が集まっていた。凄い人だねと話しながらリィンも友人と一緒に屋台を見て歩いていると、かき氷のお店の前では両親と手を繋いだ男の子が何の味にするか頭を悩ませていた。そこから二つ先の金魚すくいの屋台ではどちらがより多く取れるかを競い合う子供達の姿があり、そんな光景を眺めながらリィンは懐かしいなと一人心の中で呟いた。
「リィン、どうかしたの?」
お祭りの屋台を眺めていると不意に名前を呼ばれてリィンは隣を見た。そこにはリィンを見つめる翡翠の瞳があった。
「小さい頃に友達と一緒に夏祭りに来たことを思い出していたんだ」
「はは、確かに懐かしくなるよね。僕も昔はよく姉さんと一緒にお祭りに行ったなぁ」
ガイウスは? とエリオットが尋ねると「俺も弟や妹と家族みんなで行ったことがある」と穏やかな声が返ってくる。夏祭りといえば夏の定番イベントの一つ、遊びたい盛りである子供達にとっては夏の一大イベントともいえるだろう。
やはり友人達も同じような思い出があるようで、屋台を横目に歩きながらラムネを空けるのには苦労したとかすぐにポイが破れてしまって金魚が全然掬えなかったとか昔話が広がり始める。
「昔は難しかったものでも今やってみたら意外と簡単だったりするのかな?」
「どうだろうな。金魚すくいなんかはコツが必要そうだけど」
「簡単そうに見えても奥が深いのだろうな」
来た、と思ったタイミングで持ち上げたポイは見事に中心から破れた。それを見た友人は貸してみろよと言って簡単に金魚をお椀に移していたのがとても不思議で、やっぱり凄いなと思いながら増えていく金魚を幼いリィンは見つめていた。
「あ、射的も落とすの難しくなかった?」
パンッと乾いた音が聞こえてきたそこにあったのは射的の屋台。コルクの弾が当たっても落ちなければ景品は獲得できないというのがこのゲームのルールだ。狙うのも簡単ではないが漸く当たったと思っても景品を貰えないという経験をした覚えのある人は少なくないだろう。
「俺は結構得意だったな。よく妹達に頼まれたものだ」
「へえ、そうなんだ」
友人達の会話を聞きながらリィンも昔を思い出す。当たっても落ちない景品に肩を落としたリィンに彼は隅を狙うのだと教えてくれた。どんなゲームも器用にこなしていた友が特に上手かったのがこの射的だった。何度か一緒にお祭りに行ったことがあるが、リィンはあの友人が射的で外したところを見たことがない。
隅を狙えば良い、というのも言うほど簡単なことではないと思うけれど「な?」と彼はいとも容易く景品を獲っていた。リィンが射的で獲ったことがあるのはそんな友人に文字通り手を取りながら教えてもらった一回だけ。ゲットしたチョコ菓子はお祭りを回りながら二人ですぐに食べてしまったけれど、お店で買うより特別な感じがしたことをよく覚えている。
「せっかくお祭りに来たんだし、久し振りに何かやってみる?」
「ああ、それも良いかも……」
しれないな、と続くはずだった声が不自然に途切れたことに二人の視線がリィンに集まる。だがリィンはそのことに全く気が付かなかった。それどころか賑やかなお祭りの音もこの時は一切耳に入っていなかった。
リィンの頭を占めていたのは視界の端に映った銀。夜の闇に飲まれることのないその色にリィンの思考は一瞬で奪われ、はっとした時には追い掛けなければと脳が信号を送っていた。
「――ごめん! ちょっと行ってくる!」
「えっ? 行くって……」
「本当にごめん。先に帰ってて良いから」
今度埋め合わせをすると謝ってリィンは走り出した。走るといっても人混みを掻き分けながら進んでいたから殆ど早歩きに近かったけれど、度々足を止めながら白銀を探してはひたすらに走り続けた。
□ □ □
じゃり、と石を踏む音が静かな空間に響く。人気もなく灯りもないそこには歴史を感じさせる本殿がひっそりと構えられていた。すぐそこでは楽しげな音で溢れているというのにここにはそういった雰囲気は一切ない。しかしこの場所こそが本来の姿なのだろう。
さっきまでの賑やかさが嘘のような静寂さに自然と背筋が伸びる。だが、ここまでやってきたは良いもののリィン以外に人の姿は見られない。せっかくのお祭りの日に何もない、というのも失礼だがこのような場所まで来る人はいないのだろう。そうだよな、とリィンの口から溜め息が零れる。
(そもそもここにいるわけがない)
小さい頃によく遊んでいた友人は遠くの街に引っ越した。それにあの後でリィンも父の仕事の関係で引っ越している。昔住んでいた町だったのなら何か用事があって戻ってきていることもあるかもしれないがこの場所で会うことなんてないだろう。
すっ、と視線を上げると丁度夏の大三角が目に入った。暫くすればこの星空には多くの花が咲く。あの日、沢山の花が咲き乱れる空を眺めながらぎゅっと手を握って交わした約束は今も大切にリィンの胸の底に仕舞われている。
(今、何をしてるんだろうな)
昔の約束なんて忘れてしまっただろうか。あれから既に十年、忘れていたとしても無理はない。
会えないわけじゃない。でも当時は携帯だって持っていなかったし、友人が引っ越した街の名前だって聞いていなかった。それでもいつかまた会えるのだと信じていた。要するにリィンもまだ子供だったのだ。
あれから年を重ね、いつかの約束は“また会おう”から“また会いたい”という願いに変わった。大切な友人に、もう一度だけでも会えたら良いのにと。
「クロウ……」
大事な約束をした友の名前が零れて消える。一瞬で消えてしまう花火よりも早く闇に溶けた名に寂しさを覚えたのは何度目か。
ぴゅう、と緩やかに風が通り過ぎてリィンは目を閉じる。日が暮れて暑さが和らいだとはいえ小さな風が運ぶ涼しさは気持ちが良い。けれどそろそろ戻るかと瞼を持ち上げた、その時。
「リィン?」
静寂を破って知らない声がリィンに届く。
――いや、どことなく聞き覚えがあるような低音にリィンは勢いよく顔を上げた。
ゆらり。顔を上げたリィンの視界に映ったのは風に揺られる銀糸。かちりとぶつかった色は深い赤――でもそれはただの赤ではなく青みを含んだ赤紫だとリィンはすぐに気が付いた。
「ク、ロウ……?」
「おう。ってことはやっぱりリィンか」
でっかくなったなと呑気なことを言っている友人の方がどう見てもリィンより大きい。リィンも平均身長は越えているが何を食べればそんなに大きくなるのか。昔も友人の方が背は高かったとはいえそこまで差はなかったはずなのに、ではなく。
「どうしてここに……?」
あるはずのない銀色を追い掛けた先で本当にその色を見つけるなんて。つまりあの時リィンが一瞬だけ捉えた銀色は幻でも見間違えでもなかっただったわけだが、彼がこんなところにいるはずがないのは事実だ。
尋ねるときょとんとした顔を浮かべた懐かしい友はあっけからんと答えた。
「ゼミの課題でな。その帰りに夏祭りがやってたから見に行こうって話になってよ」
そう答えたところでこの場には似つかわしくない無機質な音が響いた。リィンのものではないそれはクロウのものらしく、悪いと一言断って彼は電話を取った。
おそらくだが相手はそのゼミの友人だろう。聞き耳を立てるわけではないが静かなこの場所ではよく声が通る。何やら謝った後で迷子がどうとかいう単語が聞こえてきてリィンは首を傾げた。お祭り会場にいた時にでも見掛けたのだろうか。これだけ人がいれば親とはぐれてしまう子供がいてもおかしくはなさそうだが。
「それで、お前は何でこんなとこにいるんだ?」
パタン、と携帯を閉じる音が響く。どうやら電話は終わったようだ。
そして今度はリィンがクロウに質問された。リィンはここにクロウがいるわけないと思っていたがそれはクロウにしても同じ。だからリィンも正直に答える。
「俺も高校の課題で友達と集まっていたんだ。あれから俺も一度引っ越して」
「そうだったのか。……高校って東高?」
「えっ? そうだけど……」
「なら結構近いのかもな。俺は今T大に通ってんだ」
え、とまたもリィンは聞き返してしまった。T大といえばここからそう遠くはない。この辺りに住んでいたのかと思わず問うたリィンに「大学に入ってからな」と答えたクロウはついでに今は一人暮らしなのだと教えてくれた。遠くに行ってしまったと思っていた友人がこんな身近な場所にいるとは思いもしなかった。
「何なら今度遊びに来るか?」
「良いのか?」
「今更遠慮する間柄じゃねーだろ。それとも会いたいと思っていたのは俺だけだったか」
「そんなわけ――」
「ならいつでも来いよ」
口元を緩めて笑うクロウにリィンは一瞬ドキッとする。瞬間、ドキッ? とリィンは今し方感じたそれに首を傾げた。
今のは何だったんだろうと思ったところで「ほら」と声が聞こえてきて前を見ると、クロウはリィンに向かって手を出していた。意図が分からずに疑問符を浮かべていたら「携帯持ってねーの?」と聞かれてリィンは慌ててポケットから赤い携帯を取り出した。そのまま僅か数十秒でずっと欲しかった連絡先が手に入ってしまった。十年もの間行方が分からなかったというのに、あらゆるものが一気にリィンの中へと入ってくる。
「そういやお前、ダチは良いのか?」
「俺は別れてきたところだから――って、クロウ。さっき迷子がどうとか言ってなかったか?」
流石にクロウを見掛けた気がしたからというだけの理由で友達に謝って追い掛けてきたことは言わないが、そのクロウが友人としていたやり取りで断片的に聞こえた単語のことを思い出したリィンはそのまま別の問いを投げ掛ける。するとクロウはぱちりと瞬きをした後にさらっと答えた。
「ああ、あれ嘘だぜ」
「嘘……?」
何でまた、と思ったリィンにこう言っておけば遅くなっても大丈夫だろとあっさり返された。まさかそれだけのためにあんな嘘を吐いたのかと呆れるが「まあ細かいことは良いだろ」とクロウは笑う。
背が伸びて声も記憶にあったものより低くなり、あれから大きく成長した見た目とは裏腹にそういうところは昔から変わっていないらしい。でも、変わらない友人にほっとした。やっぱりクロウはクロウだな、と思ったリィンの胸が温かくなる。
その時、ドーンという大きな音とともに空に花が咲いた。音につられるように二人の視線は同時に空へと向かう。間もなくして次の花火が夜空を彩る。それから次々とカラフルな花が咲いては消えていく。
綺麗だけどどこか儚い夏の風物詩。それを見るのは去年の夏以来だからおおよそ一年振りだ。けれどこの友人と一緒に花火を見たのは十年振り。
「やっと、あの時の約束を果たせたな」
花火が途切れたタイミングでぽつりと呟くように零された声にリィンの口元が緩む。
「忘れてなかったんだな」
「忘れるかよ」
大事なダチとの約束だろ、と即答してくれることが嬉しい。自分だけがそう考えていたわけではないのだと、少し前の不安が一瞬で消える。代わりに溢れたのはあたたかな幸せ。この友人といる時はいつだってそうだ。
「……来年も、また一緒に見るか?」
尋ねられて振り向くといつの間にか赤紫の瞳はリィンを映していた。
――来年。そうか、もう連絡先を知っているのだから“いつか”ではないのかと理解して、そんな小さなことに喜びを覚える。これからはまたクロウと一緒にいられるのだとリィンは今更実感した。答えは勿論、決まっている。
「約束だな」
遠い日をなぞるようにリィンが笑った。それにクロウも口元に笑みを浮かべて。
「ああ、約束だ」
と、あの日の言葉を繰り返した。その間も空には次々と華やかな大輪が咲き続ける。お祭り会場でもきっと多くの人がこの花を見上げ、道行く人々も夏の風物詩に足を止めていることだろう。
リィンとクロウも再び静かに花火を見上げる。あの日のように。
――そう、あの日のように。
ちら、と見た友の顔に自然と頬が緩む。いつまでもこうしていられたら良いのに、と思うのもあの時と同じだなと心の中で呟いた。
「……そろそろ戻らねーと怒られるか」
けれど腕の時計は一秒、また一秒と確かに時を刻んでいた。
十年前、帰るかというクロウの声につきりとリィンの胸は痛んだ。二度と会えないわけじゃない、けれど友との別れの合図でもあったそれに繋いでいた手を離したくなくなった。この手を離さなければこのまま、幼い二人は綺麗な花火の下でそう思っていた。
でも、今は違う。
この手を繋いでいなくてもまた会える。だからあの時のように胸が痛むこともない。まだ話したいことは沢山あるし一緒にいたいのは山々だが、それは次にしよう。
「そうか。それじゃあ、また」
「おう、また明日」
別れの挨拶をしたら想定とは違う言葉で返って来てリィンは目をぱちくりさせた。それを見たクロウはゆるりと口角を持ち上げる。
十年経ってもこの友人には敵わない。少し前にしたのは今度遊びに来るかという話だったけれど、明日は特に予定があるわけでもない。それならこの誘いに乗らない理由もないリィンはもう一度別れの言葉を言い直した。
「……ああ、また明日」
リィンの返事に満足そうに笑ったクロウは「後で連絡するから」と言って先に賑やかなお祭り会場へと戻って行った。その銀色が見えなくなるまで見送って、ふぅと一息吐いたリィンは友人とは反対の方に向かって歩き始める。
歩きながらつい顔が緩んでしまう。だがそれも仕方がないだろう。明日もクロウに会える、という喜びが未だに心臓をどきどきと鳴らしていた。あの頃も毎日明日が楽しみだった。なんだか懐かしいなと歩くリィンの視界でまた一つ、大きな花が咲いた。
fin