「先輩」
廊下で呼び掛ける声に立ち止まる。聞き慣れたそれに振り返らずとも相手は分かっている。くるりとそちらを見れば、やはり予想通りの人物がそこに立っている。
「クロウ、どうかしたのか」
「今日は生徒会はないって聞いてましたけど」
敬語で紡がれる言葉は先輩と後輩という関係上、何らおかしなことはない。けれど自分達の間では不自然なそれに「クロウ」と名前を呼ぼうとして、それより先に「一応こっちのが正しいだろ?」と後輩は口角を持ち上げた。それは確かにその通りではあるのだが。
「そうやって人の反応を楽しむのはどうかと思うんだが」
「俺はただ先輩に対する態度を取っただけですけど」
「そう見えないから言っているんだ」
失礼だななんて言うけれど、クロウの性格を考えればそのままの意味とは受け取り難い。かといって深い意味もないのだろうが、あえてこういう言い方をするということは何かしらの含みはあるだろう。それについても大したものはなく、先程リィンが述べたようなものだろうことはリィンにも分かっている。だからこそこの発言である。
はあ、と溜め息を吐いた後にリィンは赤紫を見る。どっちにしろ深い意味がないのであれば、これ以上追及しても仕方がないだろう。
「それより、何か用でもあったのか?」
話を切り替えて尋ねれば「いや」とクロウは否定の言葉を口にした。それに疑問を浮かべたのはリィンだ。てっきり用があったから声を掛けたんだと思ったのだけれど違ったのだろうか。
「今日は生徒会の仕事はないって聞いたのにお前は忙しそうだと思ってな」
その視線はリィンの手元に向けられる。そこにあるのは様々なジャンルの本。歴史に天体、料理や音楽など。タイトルで大方その内容は分かるものの統一性のないそれらに向かう視線を追い掛けて、ああとリィンはクロウの言いたいことを理解する。
「これは生徒会の仕事っていう訳じゃないんだけど、図書館に行ったら司書の先生が大変そうだったから」
「それで、手伝ってるってワケか」
元々は別の用事で図書館に向かったのだけれど、机の上に並べられた本の数々を見て良かったら手伝いましょうかと声を掛けた。それを聞いた司書の先生は最初こそ遠慮をしていたのだが、生徒会にしか所属していないリィンはその仕事がない今日のような放課後は特にやることもない。どうせ暇ですからと話すリィンに司書の先生もそれならとこの本を頼んだ。そして、リィンはその本を届けるべく校舎を歩いていたところでクロウに会ったのだ。
「お前らしいな。普通、こういう時はさっさと帰ってゲーセン寄ったり駄弁ったりするっつーのに」
「別にそれは普通じゃないだろ」
誰でも彼でも寄り道して帰る訳ではない。言えば、高校生なんて寄り道しないで真っ直ぐ帰る方が少ないだろうとクロウは言い返す。本屋に行ったりレンタルショップまで足を伸ばしてみたり、学校帰りにデートをしているような恋人も少なくない。
それはリィンも分からなくはないが、遊んで帰るのが当たり前というのは流石に違うだろうと突っ込んだ。そんなに間違っているとも思えないけどとは勿論クロウの意見だ。
「んで、お前の持ってるその本はどこに届けるんだ?」
話を戻したクロウに尋ねられ、それぞれの本を注文した教師のところに届けるのだとリィンは答える。つい先程も職員室に行ってきたところだ。部活の顧問で職員室にいない教師もいるとはいえ、一番教師のいる可能性が高い職員室へは真っ先に足を運んだ。今持っている本は職員室にいなかった先生達のものだ。
「それって机の上に置いとくんじゃダメなのかよ」
「確認の為にも直接渡して欲しいって言われてるんだ」
クロウの言うことは尤もだが、司書の先生に頼まれた時にこう言われている為にそれは出来なかった。教師を探して学校中を歩くことにはなるが、部活の顧問をしている先生の居場所はおおよそ見当がつく。だからそれほど時間も掛からないだろうとリィンは踏んでいる。それに、こういうことは慣れている。
「そういやお前、昔もそんな依頼受けてなかったか?」
そんなリィンを見て、クロウは思い出したように口にした。昔というのは、二人が士官学院に通っていた世界の話。生徒会の手伝いをしていたリィンは様々な依頼を引き受けてはトリスタの街を走り回っていた。
その中の依頼に教官用図書の配達というものがあった。ケインズ書店のケインズによるその依頼はその名の通り、教官用に注文した本をそれぞれ頼んだと思われる人に届けて欲しいというものだった。引き受けたリィンはトリスタの街にある第三学生寮、それから士官学院にいる教官達へと本を届けた訳だが。
「確かにそういう依頼はあったけど、何でクロウが?」
リィン自身も昔こんな依頼を引き受けたことがあったなと思っていたところではあったが、クロウにそれを指摘されたことには驚いた。クロウも時々手伝ってくれたことがあるが、あの依頼はリィン一人でこなしたはずだ。というか、あの依頼を受けたのはまだ入学して間もない頃だった気がする。
「たまたま見掛けたんだよ。見ただけだから何してたかまでは知らねぇけど、本持って走ってりゃあな」
予想は付く、ということらしい。言われてみればそうかもしれない。同じトリスタにいるのだからクロウが見掛けていたとしてもおかしくはないし、そういうことかとリィンは納得する。
それを横で見ていたクロウは小さく溜め息を吐いた。だがその後すぐ、ひょいっとリィンの手から本を半分自分の手へと移動させた。昔にも何度かあったそれに声を上げるよりも前に赤紫が青紫を捉える。
「じゃあ早いとこ終わらせて帰ろうぜ」
そう言って歩き出すなり「次はどこ行くんだ」と聞いてくるこの先輩……今は後輩なこの人は手伝うつもりなんだろう。これくらい一人でも大丈夫だと言いかけた口は結局何も言わずに閉じ、次に開いた時には「調理室だ」とクロウの質問に答えた。
『あとは生徒会室に届けるだけだし、俺一人でも……』
『それなら俺が持っても良いだろ。俺もトワに用があんだよ』
ついでだからと言って買ったものの半分を持つとクロウはさっさと歩き始めてしまった。他にもさり気なく手を貸してくれたり、暇だからと言って手伝ってくれたこともある。先輩だった時も同じクラスメイトだった時も、思い返してみれば後輩である今も偶然会っては手を貸してくれたことがあった。
(偶然……?)
あれは本当に偶然だったのか、と思ってしまってすぐに首を横に振る。偶然でなければ何だというのか。同じ校舎にいるのだからばったり会ってもおかしくはない。移動教室だったり購買に行く途中であったり。たまたま会ったから手を貸してくれたに過ぎない。けど。
(いつもさりげなく、手伝ってくれるんだよな)
会ったのは偶然でも、何かと理由を付けて手伝ってくれるのはクロウの意思だ。今だってたまたま会ったから手伝ってくれる。それを断ることも出来るけれど、それをしないのは昔クロウが言ったから。だからこうして素直にその言葉に甘えさせてもらうことにする。
(あれ)
不意に浮かんだ疑問は「リィン?」と自分を呼ぶ声に消える。
少し先で立ち止まったままこちらを見る赤紫。リィンは慌ててその隣まで走って謝罪を述べる。
「どうかしたか?」
「いや、何でもないよ」
ちょっとぼーっとしてた、と言えばクロウは何かを言いたそうにしながらもそれ以上は追及しなかった。
そうかとだけ言って再び歩き始めると「この本はあの先生か?」と、片手で本を抱えながらもう一方の手で本を取っては尋ねてくる。リィンがそれに答えると、そのままどの本がどの先生のものなのかという当てっこゲームが始まった。
そうやって何でもない日常を過ごしながら、先程の疑問が頭の片隅に引っかかる。こうして過ごす自分達はあの頃と変わらず、先輩と後輩の立場が変わっても友達として並んでいるというのに。
――これは、何だろう?
その疑問の答えが出るのはまだ暫く先の話。今は疑問を抱えながらも当たり前に過ごせる日常を大切な人と笑って過ごすのだった。
見えない気持ち
(当たり前の日常で感じたモノ、その正体は……)