「お前って本当に温泉マニアだよな」
秘境の温泉、という雑誌の記事を前にこれはどこにあるのか。どんな効能があるのか。真剣に読みながらいつか行ってみたいと恋人が話すのを聞いていたクロウがぽつりと呟く。
「マニアって、まあ温泉は好きだけど」
「ただ温泉が好きってレベルは越えてるだろ」
リィンはそんなことはないだろうという表情を浮かべるが、これは誰がどう聞いても重度の温泉好きだ。各地の温泉を回るのが好き、という趣味を持った人がいたとしてもリィンと並べるほどの温泉好きはそう多くないだろう。中にはリィンのようにあそこにはこういう成分が入っているからいい、ここは場所も景色も最高だと語り合える人もいるのだろうが絶対に少数派だとクロウは思う。
「そういや昨日は手紙も届いてたんだよな」
「ああ、エリゼからのやつか」
「相変わらず仲がいいよな」
今度のそれはリィンも否定しなかった。そちらについてもただ仲のいい兄妹というレベルを超えているが、可愛い妹のことが大切だというのは仕方がないことでもあるのだろう。仕方がない、で片付けてしまっていいかは悩むところだが全く気持ちが分からないわけじゃない。
とはいえ、リィンが温泉マニアであることも今に始まったことではない。そんなリィンに付き合って温泉に行くことも嫌いではない。むしろそれ自体は悪くないと思っている。だが。
「……クロウ?」
呼ばれて、隣を見ると青紫の瞳が不思議そうにクロウを見つめていた。
「何でもねーよ。じゃあ今度の休みはここに行ってみるか」
自分でも実にくだらないと思ったクロウはさらっと話を戻した。リィンが妹を家族として好きなことも趣味として温泉が好きなのもとっくに知っているし、それらは決して悪いことではない。家族思いであることも趣味を極めることもいいことだといえるだろう。
誰に対してもはっきりと、好きと言ってもらえることが羨ましいなんて。
(くだらないよなーホント)
そもそも自分たちの関係は大っぴらにできることでもない。仮に大っぴらにできることだったとしても好きな食べ物と好きな相手の話をどこでも堂々と話せる人間もいれば、好きな食べ物はともかく好きな相手のことを話すのは恥じらう人だっているだろう。比べるものでもない。
ただ、あまりにもリィンが楽しそうに温泉のことを話すから。ちょっとくらい、みんなの前でそういう話をしろっていうわけじゃないけれど、たまには自分にも好きの一言くらい言ってくれてもいいのではないかと。
「ここからだと日帰りもできなくはないが、行くなら泊まりがいいよな。そっち方面の依頼でも入ってくりゃあ丁度いいんだが」
「クロウ」
何故かもう一度、名前だけを呼ばれてクロウは雑誌に落とした視線を再びリィンに戻した。するとリィンはじっとクロウの目を見つめ、それから僅かに目を逸らしたもののすぐに青紫はクロウを映した。
「俺は、クロウと一緒に行きたい」
唐突に言われてクロウの頭には疑問符が浮かぶが、話の流れでリィンが何の話をしているのかは分かった。
「だから一緒に行く予定を立ててるんだろ?」
「そうなんだけど……」
妙に歯切れの悪いリィンはやがて、ふいっと顔を背けた。そして。
「クロウと一緒がいいんだ」
そう口にしたリィンの耳は赤く染まっていた。そんな恋人の反応を見れば、クロウだってリィンが言おうとしたことを理解する。理解して、つい笑みが零れた。
「そうだな。俺もお前と二人で行きてーな」
「……二人で行くに決まってるだろ」
こちらを見るリィンの顔は赤い。可愛いなと心の中で呟きながら「分かってるよ」と柔らかな黒髪をくしゃっと撫でた。
同じ好きでも色々あるのは当たり前。誰が見ても分かるほどはっきりと表には出さずともこれほどまでに想われているのなら十分だ。やっぱりくだらないことだったなと思ったクロウは改めて雑誌に向き直った。
「ほら、善は急げって言うだろ。早いとこ予定立てようぜ」
行きたいんだろ? と問い掛けると、リィンもクロウとの横から雑誌を覗きながら近い未来の旅行計画に意見を出し始めるのだった。
fin