「ホットケーキが食べたい」


 ぽかぽかと暖かな昼下がり。のんびりとした休日を過ごしていると不意に同居人が呟いた。


「えっと……作れば良いんじゃないか?」


 独り言なのか、それとも自分に対して言っているのか。判断のつかなかったリィンはとりあえずそう返した。だが「まあそうなんだけどよ」と言うクロウはソファーに座ったまま動く気配はない。
 これは暗に作ってくれと言っているのだろうか。考えたリィンはでもまだ何も言われていないからなと思いながらテーブルの上の栞を手に取る。


「時々あるだろ。こう何かが急に食べたくなる時」

「まあ、否定はしないけど」

「ホットケーキが食べたくなることもあるだろ」


 そこに同意を求められても困るのだがないことはない、のかもしれない。だがそれは今クロウが食べたいものだろう。言えば段々食べたくなってこないかと聞かれて漸くクロウの話の意図を理解する。


「…………やっぱり作れば良いんじゃないか?」

「ありゃ、駄目だったか」

「ホットケーキくらいそんなに手間でもないだろ」


 リィンが作るにしてもクロウが作るにしても準備を含めて十五分も掛からないのではないだろうか。それくらい作るのは構わないといえば構わないけれど、料理なら苦手でもないのだから食べたいのなら自分で作れば良いとも思う。
 多めに作ってくれるのならそれはそれで戴くが、と思って本のページを捲ろうとした手が止まる。これは既に手遅れになってしまっているのではないか、とリィンは声に出さず自問した。別段お腹が空いているわけではないけれど、作るのなら食べたいくらいの思考にはなってしまっている。それに気が付いたリィンは小さく溜め息を吐いて結局さっき手に取った栞を目の前のページに挟んだ。


「お、どうした?」

「……クロウのせいで食べたくなった」


 どうやら見事にクロウの思惑に嵌まってしまったようだ。そのことが些か悔しくもあるがああも繰り返されたら仕方がないだろう。誰にでもなく心の中で言い訳をしたリィンは確か材料はあったはずだよなと考える。
 こうなったら自分が作ってしまおうか。そう思ったのは先程リィン自身が言ったようにホットケーキを作ること自体は大した手間でもないからだ。こうやって考えている間にも作ってしまった方が早いと思ったのだが。


「…………何でそんなに嬉しそうなんだ」


 ふと目に入った恋人は何故かにこにこと笑みを浮かべながらリィンを見ていた。そんなにホットケーキが食べたかったのか、と思ったが流石にそれは違うだろう。
 思いながら返事を待っていると「いや、別に?」とやはり楽しげに返される。別にと言うわりには、と考えようとしたところでクロウはソファーから立ち上がった。


「よし、じゃあ作るか」


 そう言ったクロウにリィンの頭上には疑問符が幾つか浮かぶ。てっきり作るのが面倒だとか作って欲しいという話だと思っていたのだが違ったのか。実際、途中からは明らかにリィンも食べたくなるように話を進めていたはずだけれど。


「作る気はなかったんじゃないのか?」

「作らないとは言ってないだろ?」


 確かにそれはその通りだが、作らないと言葉にしていなかったとはいえ作る雰囲気など微塵もなかっただろう。勿論クロウが自分で作るというのならそれは良いのだが、時々この恋人が何を考えているのか分からないことがある。いや、時々どころの話ではないが今日はまた何を考えているのか。
 数分前の態度が嘘のようにクロウは軽い足取りでキッチンに向かう。冷蔵庫の開ける音は卵と牛乳を取り出しているのだろう。ガチャガチャと金属がぶつかる音が聞こえるのは必要な調理器具を並べているからか。

 手伝おうか大人しく待っていようか。手伝いに行っても邪険にされることはないだろうけれど、と考えたリィンは読みかけの本をテーブルの端に置いてクロウが戻って来るのを待つことにした。ホットケーキを作るだけなのだからわざわざ手伝うほとのこともないだろう。
 そう思ったリィンはクロウがてきぱきと料理をする姿をリビングから眺める。手際の良い恋人はフライパンを温めながらホットケーキのタネを作り、それからじっくりと焼き上げていく。

 およそ十五分ほどが経った頃だろうか。こんがりときつね色に焼けたホットケーキを手にクロウはリビングへと戻ってきた。


「ほらよ」


 綺麗な円型のホットケーキが三枚積み重なったお皿がリィンの前に置かれる。それをありがとうと受け取ってから一度立ち上がったリィンはコーヒーを淹れた。ホットケーキは作ってもらったからせめてこれくらいはと置いたそれにクロウも短く礼を述べる。
 向かい合わせに座り、いざ食べようかというところでことり。音がして顔を上げるとこちらを見つめる赤紫にぶつかった。


「昨日は個別に依頼を受けただろ?」


 その土産、とクロウはそれをリィンの前まで軽く滑らせたところで手を放した。そこで漸く見えたビンの中には黄金色の蜜がたっぷり。小瓶に貼られているラベルはリィンも以前ケルディックの大市で見たことがあった。


「これって、確かアルモリカ産の蜂蜜だよな……?」

「昨日の依頼人が貿易商をしているらしくてな。よかったらって依頼の礼にくれたんだ」


 そうだったのかと言いながらリィンは小瓶へと視線を落とす。アルモリカ村といえば蜂蜜で有名だ。リィンも一度だけ食べたことがあるが程好い甘さでとても美味しかった覚えがある。
 もしかして。ここにきてリィンはクロウの本当の目的に気が付いた。


「だからホットケーキか」

「蜂蜜には合うだろ?」


 ホットケーキが食べたい、のではなく。どうやら蜂蜜を食べるのにホットケーキを作ろうかという話だったらしい。ついでにいうのなら自分が食べたいのではなくリィンに食べさせたかったのだろう。クロウは今し方土産と言ってそれを差し出したのだから。それで人が食べたくなるようにしていたのかとここへきて漸く全てが繋がる。
 わざわざ回りくどいことをしなくても良かったのではないかと聞けば、たまには良いだろとクロウは笑う。所謂サプライズだと話す恋人に勧められてリィンはビンから蜂蜜をスプーン一杯掬う。いただきますと両手を合わせ、一口大に切ったホットケーキを口に運ぶ。


「……うん、美味しいな」


 口の中に広がるさっぱりとした甘さ。ふんわりとしたホットケーキにもよく合っている。そのまま二口、三口とどんどん食が進む。
 やはりアルモリカ産の蜂蜜は美味しいなと思いながら、またクロウが作ってくれたから余計にそう感じるのかなとも思う。使っているものは同じでも自分で作るのとクロウが作るのとではいつも全然違う気がする。リィンとしてはクロウが作ってくれる料理の方が美味しく感じるのだが、それはクロウが作ってくれているからならばもしかしたらクロウにとっては逆なのかもしれない。

 ぱくぱくとホットケーキを食べる恋人をクロウは愛おしそうに見つめる。やっぱりこれで正解だったな、と心の内で呟きながら幸せそうなリィンを眺めるクロウの手は止まったまま。
 そんなクロウの視線にリィンが気が付いたのは八等分にしたホットケーキを二切れほど食べ終えた時だった。


「クロウ? 食べないのか?」


 温かいうちに食べた方が良くないかという風にリィンが尋ねる。真っ直ぐに自分を映す青紫に食べるぜと答えながらクロウはそっと目を細めた。


「けど、こういうのも良いなと思ってな」


 何てことはない休日。特に用事があるわけでもなく、ただ恋人と家でのんびり過ごすだけの時間。好きな人と時間を共にして、愛しい人が喜ぶ様子をただ眺める。
 昨日、依頼のお礼にとこの蜂蜜を貰った時。クロウが想像したのは今目の前あるようなリィンの表情だった。リィンが喜びそうだな、きっと幸せそうに食べるんだろうなと。想像して、じゃあどうやってリィンのその表情を見ようかと考えた結果がこれだった。そしてリィンはクロウの想像通りの反応を見せてくれた。この何でもない穏やかな時間が幸せだなと、クロウはそう感じていた。


「…………これからはずっと、一緒だろ?」


 当たり前のように流れているこの日常が実は特別なものであることくらいリィンもよく分かっている。一緒にいられる、ただそれだけのことが何よりも特別であることも知っている。
 目が覚めてすぐ横に大切な人がいる。朝起きて「おはよう」と言い、寝る前には「おやすみ」を。他愛のない話をしながらご飯を食べて二人で依頼をこなして。ただいまとおかえりをお互いに言い合って。安いからと食材を多めに買ってしまってどうしようかと悩んだり、くだらないことで笑い合ったり。


「……そうだな。これからはずっと一緒、か」

「少なくとも俺はそうだと良いと思っているよ」

「誰がお前を手放すかよ」


 やっと手に入れたんだから。
 声に出さず言葉が重なる。どちらともなく笑い合った二人は「食べるか」と手を進めた。そういえばと思い出したように切り出すのはこの日常に溢れるとりとめのない話。








そこに溢れる幸せの数々。かけがえのない毎日も今や当たり前の日々に

(いつだって隣にはお前がいる)