「あら、偶然ね」
依頼を終えたタイミングで声を掛けてきたのは眼鏡を掛けた女性。当然向こうはこっちを知っているから声を掛け、こちらも向こうのことはよく知っていた。
――いや、よく知ってはいたけれどその行動の全てが読めるわけではない。何を考えているのかなど分かりやしない。今日だって会っていきなり「そういえば、猫は好きだったかしら?」などと聞いてきたのだ。思わず「は?」と聞き返してしまったのは何もおかしくないだろう。
「だから猫よ、ネコ。可愛いでしょう?」
「いやまあ、嫌いじゃねーけど」
それなら良かった、と言われる意味も分からない。しかもその魔女は「じゃあリィン君にもよろしくね」と言って早々に去って行ったのだ。あまりに唐突過ぎて思わず何だったんだと零してしまった。
だが、その意味を知るのはそう遠くない未来だった。
魔女――ヴィータと別れて一時間。家に戻った俺に「クロウ!?」とあからさまに驚いた声を上げた恋人の頭には見慣れないものがあった。
猫はお好きですか?
三角の形をした耳。おそらく耳だと思われるそれはリィンの髪と同じく真っ黒で艶やかな色をしていた。更に、後ろにはゆらゆらとこれもまた漆黒の尻尾らしきものが揺れている。
「…………俺は良いと思うぜ」
「違う……!」
猫耳フェチではないけれど可愛い恋人が猫耳を付けている姿は悪くない。そう思ったところでリィンに否定される。別にそういう趣味があったとしても俺は引かないけれど。意外だなと思う程度だ。趣味なんて個人の自由なのだから周りがとやかくいうことでもないだろう。
「俺はそういうのも嫌いじゃないから安心しろよ」
「だから違うって言ってるだろ! 人の言うことを聞いてくれ」
って言われてもな、と視線は自然と頭の上にある猫耳へと向かう。何がどう違うのか。にゃんにゃんセットなんていうものが市場に出回っているのだからそれなりの需要はあるのだろう。自分が身に付けるだけではなくこっちにも付けて欲しいとかそういう話なのか、と思っていたところで冷たい目が向けられていることに気が付いて俺は青紫を見る。
「じゃあ何でそんなモンを付けてるんだよ」
「俺だって好きで付けてるわけじゃ……」
ない、と続くと思われたそれはそこで止まる。そのまま気まずそうに視線を逸らされたら気にならない人間なんていないだろう。言いたいことがあるなら話を聞こうと思ったけれど、これは本当に何かあるのかと考えたのはリィンが明らかにおかしいからだ。
「分かった。ちゃんと聞くから話せよ」
先を促してやれば再び青紫の双眸がこちらを向く。その時、ぴくっとこちらの声を拾うかのように頭の耳も反応した――気がした。
「何かあったのか? 本当に趣味でも俺は気にしないぜ」
「……とりあえずそこから外れてくれ」
どうやら本当に困っているらしい同居人にもう一度分かったと頷いて続きを待つ。するとリィンは戸惑うように視線を彷徨わせながらもやがてクロウを見てゆっくりと口を開いた。
「今日、クロチルダさんに会ったんだ」
そしてリィンが口にしたのはクロウも一時間ほど前に会ったばかりの魔女の名前だった。リィンにもよろしくと言っておきながら自分も会っていたんじゃないか、と思ったところで何となくリィンが言い辛そうにした理由を察した。
というより、リィンが彼女の名前を挙げた時に思い出したのだ。あの魔女がいきなり猫は好きかと尋ねてきたこと。そしてリィンによろしく、と言った時の魔女の笑顔を。
「それで、良かったらってそれを貰って」
そう言ったリィンが指差したのは一見何の変哲もないクッキーだった。しかし、リィンが今こういう状況であることを考えれば何かしら入っていたのだろう。流石に体に害があるものではないだろうが、こうなっている時点で害があるものともいえるのかもしれない。
「……お前な、知らない人に物を貰っても食べたら駄目だって教わらなかったか?」
「知っている人だろ」
「アイツは別だ」
何してくるか分からねーんだからと言えばそれは失礼だろうと咎められたけれど、実際それで被害にあってんだろと言い返せばリィンも言葉に詰まったようだ。本当に何を考えているか分からない、おそらくは面白そうだからでちょっかいを掛けてきたであろう魔女に溜め息が出る。面白そうという理由であると考えれば、効果は一定時間で切れそうなものではあるけれど。
ゆらり。揺れた尻尾が視界の端に映る。揺れる、のはリィンが動いたからではない。
「…………つまり、それは本物なのか?」
それ、とは勿論リィンの頭の上にある耳と後ろの尻尾だ。本物なわけがないと普通なら思うところだろう。しかし、これはあの魔女に貰った怪しいクッキーが原因だという。にゃんにゃんセットのように身に付けているわけではなく、こうなっているのだとすれば。
答えに迷ったリィンが視線を逸らした。それを見て興味本位でその耳に触れたらビクッと肩が揺れた。
「意外と……でもねぇけど、ちゃんと柔らかいんだな」
「クロウ……!」
「良いだろ。減るもんじゃねーし」
言えば青紫に睨まれる。だがそれを可愛いと思ってしまったのはこの猫耳が原因だということにしておこう。こんなものを付けているリィンが悪い――というのは可哀想かもしれないけれど、不用意にあの魔女から貰た物を食べたこいつも悪い。一番悪いのはこの友人にそんなものを渡してきた魔女だが、本当にただ面白そうだからという理由しかなさそうなところが厄介だ。
と、考え事をしていたところで「いつまで触っているんだ」とリィンに逃げられた。逃げられたといっても同じ部屋にいるのだからすぐに捕まえることは出来るのだが、こうも警戒心を向けられるのはどうにかしたい。
「どうせ寝て起きる頃には元に戻ってるだろうし、その間は楽しもうぜ」
「……そういう趣味があるのはクロウじゃ」
「違うけど、嫌いではないって言っただろ」
猫になったなら猫じゃらしも好きなのかと取り出してみたがこちらは反応なし。どうして持っているんだと呆れられただけだ。もしもの時には必要になるかもしれないだろと答えてやればどういう時だと返って来たが正にこういう時だろう。尤も今回は意味がなかったようだが、そうなるとリィンに起こっている変化はただ猫耳と尻尾が付いているだけなのか。原理は分からないけれどそこについては考えたところで無駄だろう。
「ま、見た目しか変わってねぇなら一日家で大人しくしてりゃあ良さそうだな」
「そうだといいけど……」
「いざって時は俺が養ってやるよ」
「それだと色々困るだろ」
もしも本当に一日や二日で効果が切れなければあの魔女を探すつもりではあるが、別に冗談で言ったつもりはない。それならそれで良いと思ってしまうことは魔女の思惑通りな気がして複雑でもあるけれど。
「ところで、さっきから一つ気になってることがあるんだが」
「……どうかしたのか?」
尋ねるとやや間を置いてリィンが聞き返す。そのことにやっぱり変だよなと思う。
「その猫耳、もう一度触らせてくれって言ったら俺のこと嫌いになるか?」
「えっ? 嫌いにはにゃ……」
言った瞬間、リィンは口元に手を当てた。そのまま目を逸らされる。それで確信した。会話のテンポがいつもと違うわけだ。
「嫌いには?」
「………………」
「やっぱそこまでされたら嫌いにもなるか」
「……分かってて聞いてるだろ」
どうやらリィンの身に起こった変化は見た目だけではなかったらしい。その他に“な”と言おうとすると“にゃ”と言ってしまうといったことになっているようだ。
どんな呪い、魔法、正解は分からないがピンポイント過ぎるだろう。猫だからと言われればそれまでだが、見た目と違って“な”のつく言葉を言わなければ良いだけだからここまで気を付けていたに違いない。その結果、会話のテンポが普段と変わってそこに違和感が生まれたわけだが。
「さあて、流石の俺でもお前が考えてることは言ってくれなくちゃ分からないぜ?」
「………………」
「嫌いになるほど嫌ならもうやらねぇよ」
「…………嫌いに、にゃるわけにゃいだろ」
言い終えたリィンの顔は赤い。可愛いなとは思ったけれどもう嫌だと呟くのが聞こえて「悪かった」と頭を撫でたら青紫が不意にこちらを映した。
「せっかくクロチルダさんがくれたんだからクロウも食べたらどうだ」
「だから俺はそういう趣味なんてねぇって」
「人の好意は受け取るべきだろう」
あれは好意じゃなくてただ面白がっているだけだと言いながらすぐそこに置いたままになっていたクッキーを手に取った。ワンテンポ遅れたリィンはクッキーを手に入れることが出来なかったわけだが、思い切ったことをしようとするなと目の前の友人を見る。
「お前はともかく、俺の猫耳なんて面白くもなんともねぇだろ」
「それは俺だって同じだろ」
お前は別と言えば「クロウも別だ」とリィンが言う。ただ巻き込みたいだけだろとリィンの考えを指摘してやるとやってみないと分からないと返された。
さっきまで気を付けていたというのにもう開き直ったのか。そこまでして俺の猫耳なんて見たくないだろうと思いながら、俺だって巻き込まれるのは御免だと危ないクッキーはゴミ箱へ放り投げて処分させてもらった。あ、と声を漏らしたリィンに睨まれるが悪いのは俺ではない。
「どうせここには俺しかいねぇんだから気にせず普通に過ごせば良いだろ」
「……さっき人のことをからかったのはクロウだろ」
「だから悪かったって。もうしねーよ」
本当かと疑いの眼差しを向けられるから本当だとしっかり言葉にした。それを聞いて少し考えるようにしたリィンは「もし約束を破ったらどうするんだ?」と聞いてくるのだから全く信用されていないらしい。別に普段の行いは悪くないと思うんだけどな。
「あー分かった分かった。じゃあお前は俺にどうして欲しいんだよ」
「…………頼みを一つ聞いてくれる、とか」
答えまで時間が掛かったのは単純にそこまでは考えていなかったんだろう。自分から言い出したというのに、でもそれもリィンらしいかとは思った。その頼みというのも何も思い浮かばなかったから言っただけで具体的な中身はないのだろう。
むしろ、リィンに頼みがあるのならいつだって聞いてやりたい。かといって、ここでわざとからかったりしたらまた怒られるだろうしそれこそ信用がなくなりそうだ。
「ならそれで決まりだ。これで文句ねぇな?」
「…………まあ」
まだ不満はありそうだけれどこれ以上ここで言い争っても仕方がないと思ったのだろう。とりあえずこれで話はひと段落だ。
さて、一日が終わるまで残り六時間十五分。可愛らしい姿になった恋人とどう過ごそうか。
猫は好きかと聞かれたから、嫌いではないと答えた
というより猫は普通に好きだ
でも、どんな猫より黒い毛並みのこの猫が好きだと
(――言ったら、流石に怒るかもな)