「なあ、俺暇なんだけど」
背中に重みを感じたかと思うとすぐにそのような声が降ってきた。だから構えとでも言いたげなそれにリィンはちらりと後ろを振り向く。
「今は課題をやっているから――」
「課題なんて後でやりゃあ良いじゃん」
終わるまで待ってくれ、と言うより先に遮られる。課題より俺の方が大事だろうと言い切られても困るのだが、言ったところで分かってはもらえないような気がするのは気のせいではないだろう。
なあ、と背中から抱き着くような体勢で尋ねてくるのは大学生になって一人暮らしを始めたリィンの唯一の同居相手だ。頭の上には人とは違う三角の耳があり、後ろではゆらゆらと白銀の尻尾が揺れている彼は入学して間もない頃に近所で出会った猫。一緒に暮らすようになったのは一ヶ月ほど前のことだ。家に来ないかと尋ねたリィンに「まあそれも良いか」とやってきたこの猫はふらふらと外に出掛けることも多いが、こんな風にやたらと構ってくる日もある。どうやら今日はそういう気分の日らしい。
「確かにクロウのことは大事だけど、課題も学生の俺には大事なものなんだ」
「お前のことだから余裕を持ってやってんだろ。今やらなくて良いなら後にしろよ」
それは、とリィンは若干返す言葉に詰まる。確かにこの課題は明日が提出期限というわけではない。期限は一週間後、たとえ今日はやらなくても期限に間に合わないということはないだろう。その間に他の課題が増えたとしてもどうにかならないこともない量だ。
だが、だからこそ今終わらせてしまいたいというのがリィンの考えでもあった。あと少し、一時間もすれば終わるからこそ後回しにせず今終わらせたいと、思っているのだけれど。
「リィン」
赤紫の双眸がじっと見つめる。課題なんていつでも出来るだろうと言うのなら、それこそクロウと遊ぶことは一週間後でも二週間後でも出来る。クロウが突然出て行く、なんて言い出さなければ。
――と、思ったところで急に背中の重みがなくなった。それ不思議に思ったリィンが首を傾げながら銀色を目で追う。くるりと前に回ったクロウはシャーペンを持っていた手を持ち上げたかと思うと。
「ク、クロウ!?」
ペロ、といきなりその手を舐めた。驚いて手の力が抜けたのと同時にコトンとシャーペンが落ちる。しかしクロウは全く気にせずにリィンの手に舌を伸ばした。
「クロウ、何を……!」
「変な臭いがする」
臭い? とリィンの頭上には疑問符が浮かぶ。心配になって空いていた左手で臭いを確認してみるがこれといって鼻に付くものはなかった。ついでに今日の出来事を思い返してみるが特に心当たりもない。
だが犬ほどではないにしても猫の嗅覚も人間の十万倍は良いといわれているのだ。つまりクロウも人には分からない何かを感じ取ったのだろう。けれどこのまま舐められ続けるのも困るとリィンは先程より強めにクロウの名前を呼ぶ。
「……何だよ」
不機嫌そうな顔で赤紫が見上げた。今忙しいんだけどと目で訴えられるが、リィンは止めてくれとそのまま思ったことを声に出した。しかし「ヤダ」とだけ答えたクロウは再びざらざらとした舌でリィンの手を舐めた。
「お前は俺のモンだろ」
それなのに他のヤツの臭いがするなんて、と開いた手のひらを舌が這う。え、と思わずリィンの口からは驚きの声が零れた。
そういえば、猫にも縄張り意識があると聞いたことがある。いや、縄張り意識というのは基本的に場所を指すものだ。クロウのこれを縄張り意識というのは違う気がするのだが。
「……俺は、クロウのものなのか?」
「違うのかよ」
混乱する頭で確認するようにクロウの言葉を繰り返すと間髪を入れずそう返ってきた。さも当然であるかのように言われたそれはリィンにとっては少々意外だった。
クロウは元々外で暮らしていた野良猫だ。こうして共に暮らすようになるまでに何度も会っているがいつも決まった場所や時間に会うことはなく、今だっていつどこで何をしているのかは分からない。急にいなくなっていつの間にか戻って来るなんてよくあることだ。
勿論、リィンはクロウに家から出るなとは言わない。クロウにだってやりたいことはあるだろう。一緒にいてくれて、ここがクロウの帰る場所になっているのならそれで良いと思っている。嫌われているとは思っていないし、ここで暮らしてくれるということはそれなりには好かれているのかなとも思っていた。でもまさか、こうも言いきられるなんて。
「それじゃあ、クロウは?」
気になって問い掛ける。リィンがクロウのものだというのなら、クロウは誰のものなのだろうか。
誰のものでもないという答えが一番無難かもしれない。そう思いながら尋ねたリィンの手から漸くクロウの顔が離れる。そして目の前の白猫はにっと口角を持ち上げた。
「俺が欲しいのか?」
やはりリィンのことを自分のものだと言いながらも自分はリィンのものだとは言わなかったが、楽しげに笑うクロウにリィンもまた疑問で返す。
「欲しい、って言ったらくれるのか?」
猫は気ままな生き物だ。どうだろうな、とクロウが答えるのは何となく予想が出来ていた。それでもクロウはここにいてくれる。これが一つの答えだろう。
それに、自分のものだと言ってくれるということは好かれていることに違いはない。だから良いかと思ったリィンを赤紫が見つめていることに気が付いたのと唇に何かが触れたのはほぼ同時だった。
「どうしてもっていうなら、俺もお前のものになってやっても良いぜ?」
でもお前は俺のモンだから外で他人の臭いなんか付けてくんなよ。そう言ってクロウはリィンの右手を解放するとそのまま隣の部屋に戻ってしまった。
突然のことにリィンはぽかんとする。だがどうやらさっきので白猫は満足したらしい。一人になった部屋でリィンはそっと自分の唇に触れる。
(俺のもの、って…………)
猫にも縄張り意識があったはずだと思った時から僅かな疑問も頭に浮かんでいた。リィンはクロウのことが好きで、クロウも自分を好いてくれるのなら嬉しいと思ったのは確かだ。しかし、これではまるで。
(何か別の意味にも聞こえるのは、気のせいだよな……?)
この時のリィンは知らなかったが、猫は独占欲が強い生き物でもあるらしい。
翌日の昼。親しい友人達とテーブルを囲んでいたリィンがその猫の話をしたところ、それは縄張り意識が強いのではなく独占欲が強いのではないかと友人の一人が指摘した。よっぽどリィンのことが好きなんだねと言われたリィンの顔が再び熱くなるのは十数時間後の話。
ねこのきもち
(お前は俺のモンだから、俺の帰る場所もここなんだ)
(だからお前がどうしてもって言うのなら)
俺はどこにもいかない