しまった、と思った時には遅かった。
 視界が歪むと同時に頭が揺れ、反射的に目を瞑る。そして次に目を開いた時には見知らぬ景色が広がっていた。


「ここは…………」


 注意深く辺りを見回すが、リィンを巻き込んだと思われる何かの存在は掴めなかった。薄暗い森は不気味さを漂わせている。
 これも悪霊の仕業なら、おかしな空間に迷い込んでしまったのも不思議ではない。問題は、今の自分はあの頃のように戦う術を持っていないことだ。


(狙いは……俺の霊力か)


 護身用に持ち歩いておけ、と言われて昔を思い出しながら作った護符は一応ある。この状況では正直心許ない武器だがないよりはマシだ。
 胸ポケットからそのうちの一枚を取り出し、ゆっくりと息を吐く。
 一際大きな力を宿しているそれは、もしも何かあった時は迷わず使えと馴染みの神主に渡されたものだ。これはこういう時にこそ使えと言われるような気はしたが、今はまだそのタイミングではないだろう。


「進むしかない、か」


 ぽつりと落ちた独り言はあっという間に消えた。まずは状況を把握しなければ、と一歩踏み出そうとしたその時。


「リィン!!」


 耳に届いた、聞こえるはずのない声に足が止まる。
 まさかと思いつつも振り返った先で見覚えのある色が視界に映った。


「ク、ロウ……?」


 違う。いや、確かにクロウではあるのだがどこか違和感を覚える。
 どうしてだろう、と考えたのはどうやらこちらだけではなかったらしい。ぶつかった瞳がぱちりと瞬く。それからじっと見定めるようにリィンを見つめた。


「リィン、だよな」

「あ、ああ」

「少し小さくなったか?」


 唐突な発言につい「そんなわけないだろ」と言い返してしまったが、やはりこの人もクロウなのだろうか。そう考えた時、空気がびりっと震えるのを感じた。
 反射的に振り向くとそこには謎の物体――おそらく俺たちをここへ連れ込んだ悪霊の姿があった。ちっ、と隣で舌打ちが零れる。


「話は後だ。戦えるか?」

「護身用の護符が三枚だけだが」

「拘束系は?」

「あまり長くは持たないと思うけど」

「少しの間でいい。あいつの動きを止めてくれ」


 言われた通りにリィンは一枚の札を取り出して素早く唱える。その横でクロウに似たその人も胸元から取り出した札を構えた。


「鎖よ、悪しき者を封じる枷となれ」

「宙に集いし水よ、ひとつとなり氷河と化して降り注げ」


 霊力を込め、発動したリィンの術式によって悪霊の動きを縛る。その頭上からクロウが唱えた術式で巨大な氷が悪霊を目掛けて降り注ぐ。そこへ更にクロウは続けた。


「大地の水よ、龍となり昇り喰らい尽くせ」


 地面から六本の水流が噴き出し、それらはまるで意思を持っているかのように動き出す。狙いはもちろん、あの悪霊だ。
 しかし、こちらの攻撃から逃れるようとする力が指先の札からひしひしと伝わってくる。このままでは押し切られると判断したリィンはそこへもう一枚札を重ねて霊力を込める。


「守護の力よ、悪しき者を縛る力となれ!」


 持ち主を護るための力を宿した一番強い札。それは村を守護していた神様の力が込められた特別な札だ。その悪しき者から世界を護る力を変化させ、縛る力へと変えれば。
 そう考えたリィンの狙い通り、悪霊の動きを止めていた鎖は加わった力によって二重三重の鎖によって縛られる。これなら。

 暴れる悪霊は強固になった鎖に縛り付けられ、荒れ狂う三匹の龍に襲われる。瞬間、声にならない悪霊の叫びが森に響いた。
 これで終わる。そう思ったところで隣の霊力が膨らむのを感じた。


「今ここにある全ての力を以って滅せよ」


 クロウがそう唱えた時、一際甲高い声が鼓膜を震わせた。

 そして、次の瞬間。
 全てが消えてなくなった。


「悪い、助かったぜ」


 辺りに充満していた陰の気が消え、森の様子が変わっていく。清く澄んだ気配が広がり、本来の姿に戻っていくのを感じる。
 振り向いたクロウにリィンは首を横に振った。


「こっちこそ、力を貸してくれてありがとう」

「じゃあお互い様ってことで」


 そんな風に話をまとめた彼をリィンは改めて眺める。
 彼はリィンに縮んだかと聞いたけれど、目の前の彼もリィンの知っているクロウより少し背が低いような気がする。つまり、お互い知り合いよりも年齢が低いのかもしれない。


「そういやさっきの話だが、やっぱりお前もリィンなんだよな?」

「ああ。クロウも俺の知っている人とは少し違うみたいだ」


 違うと分かるのに、同じだと感じるところもある。それが不思議だ。


「あ、すみません。つい――」

「あー気にすんな。つーか俺も同じだから今更だろ」


 失礼なことをしてしまったと謝ろうとしたが、言い終える前に止められてしまった。初対面なのに敬語を忘れてしまったのは、目の前の彼もクロウだからだろう。


「しかし、妙なことになったもんだな」


 言いながらクロウは辺りを見回す。リィンもつられて視線を動かすが、見えるのはどこまでも続く森だけ。これではここがどこかも分からない。
 そもそも、目の前にいる人の存在を考えるとここが本当に自分の知っている世界なのかも怪しい。別の世界なんて考えたこともなかったが、この状況であり得ないとも言い切れないだろう。


「クロウも、突然ここに呼ばれたのか?」


 森を見ていたクロウの視線がリィンへ戻る。


「呼ばれたっていうより、引き寄せられたんだろうな」


 まあ、俺だけでよかったが。
 小さく呟かれたそれが誰のことを指しているのか、リィンにはなんとなく想像できる気がした。きっと、世界が違っても特別な存在に変わりはないのだろう。


「とりあえずこの辺りを調べてみるか。動けるか?」

「ああ、大丈夫だ」


 答えた瞬間、柔らかな光が辺りに広がり始めた。
 ひとつ、ふたつ。淡い光の球が宙を舞う。どこか見覚えのある光景だが、あれとは違うはずだ。でも、これもまた特別な力なのだろう。


「時間みたいだな」


 どうやらクロウも同じ考えのようだ。もしかすると似たような経験があるのかもしれない。
 出会いも突然だったが、別れも突然やってきた。
 本来ならあり得ないことだが、リィンがよく知るクロウとそっくりな彼ともう少し話してみたかった。そう思いながら視線を戻したところで赤紫の双眸とぶつかった。


「あまり無茶するなよ」


 同じだな、と。やっぱりそう思う。
 そこに込められた優しさがリィンの知る人と重なる。


「クロウも無茶はしないでくれ。きっと悲しむ」

「分かってる。だからお前がいて助かった」

「俺も、クロウがいてくれてよかった」


 一人だったら多少の無茶はしただろう。こんなことになった時点で心配はかけているだろうけれど、被害を最小限に抑えられたのはクロウがいてくれたから。


「また、会えるかな」


 悪霊に引き寄せられたことが原因なら二度目を望むのは変な話だ。
 それでも――。


「会えたらいいな」


 そう言って笑うクロウにリィンも小さく笑みを浮かべる。
 やがて光は自分たちを包み込み、ゆっくりと気配が遠ざかっていく。


「またな」


 その言葉を最後に、世界は白に溶けていった。







出会えたことに、そっと感謝を込めて