無数に広がる光の海。幼い頃は深い海にぐっと手を伸ばし、眩い光を掴もうとしたこともあった。
たくさんの星の中の、ほんのひと欠片。もしも、本当に手にすることが叶っていたのなら。こんなにもこの輝きに焦がれることはなかったのかもしれない。
「スッゲー星だな」
静かな夜にコツコツと音を立てながらクロウは甲板を歩く。地上で見た時より近そうに見える星々は、けれど遥か遠くに存在している。手を伸ばしたところで全く届かないだろう。
だが、手を伸ばせば届く距離で佇んでいた友人はクロウの声にゆっくりと振り返った。刹那、緩やかな風が癖のある白銀を揺らした。
「流れ星でも探してたのか?」
これだけの星があれば、一つくらい見られるだろう。
そう問いかけたクロウにリィンは小さく笑って空を見上げた。
「残念ながら、まだ一つも見つかってないけどな」
「ま、簡単に見つかっちまったら願い事し放題になっちまうしな」
気長に待つしかないだろうと掴んだ手摺りに体重を預ける。上半身を乗り出した先で輝く一際強い光をクロウは頭の中で自然に結ぶ。
夏の大三角で知られるこの星は七夕伝説で有名な織姫と彦星。確か今年の七夕は晴れていたはずだから二人は天の川を渡って念願の再会を果たせたことだろう。
――あれから一ヶ月と少し。
変わらない星空と違い、地上は一転して世界の終わりへと進み始めた。回り始めた黄昏の歯車は一つずつ、確実に、世界を闇へ沈めていく。クロウもリィンもその歯車の一つとして今も大きな渦の中にいる。
「星に何をお願いするつもりだったんだ?」
やっぱり一発でかいのを当てたいとか? と、尋ねれば「それはクロウの願い事だろ」とすかさず突っ込まれた。いやいや素直になれよという一言で引き出せたのは呆れたような溜め息一つ。
世界が傾きつつあってもリィンの生真面目なところは変わらない。それは長所であると同時に短所だろう、とクロウは前々から思っている。しかし、長所と短所というのは元来そういうものだ。
「クロウはどうなんだ」
「そりゃあ次のレースで一発当てる、だろ!」
先程指摘された通りの答えを口にしたら「やっぱりクロウの願いじゃないか」と隣でリィンが呟く。
それに対して「分かってねーな」と言いはしたもののそれをリィンが理解する日はきっとこないのだろう。最初に聞いたのはクロウだが、リィンが自分のようにギャンブルにハマる姿はあまり想像できない。
「ま、星が願いを叶えるって話は言い伝えに過ぎねーけどな」
くるりと体の向きを変えたクロウは手摺りに凭れ掛かるようにして星を眺める。七夕の願い事も、流れ星の話も。星に願えば叶えてくれるという話で有名だが、その真実は違う。そのことをどれくらいの人間が知っているだろうか。
「星が消えるまでの時間に三回願い事を唱えられるほど強い願いなら現実になる、っていう話だったか」
どうやら真実を知っていたらしい友人の言葉にクロウはふっと口元を緩めた。
「そのために日頃から努力してるならいずれ叶うからな」
「努力は報われる、か」
「そういうこと」
このことを踏まえて考えれば、さっきの願いは星に頼むには相応しくないといえる。そのために研究を重ねるという方法もないわけではないが、ギャンブルを娯楽の一つだと考えているクロウはこれまでのレース結果や馬の調子から予想はしてもそこまでだ。やはり願い事としては不適切といえよう。
「んで」
そこまで話したクロウは一度言葉を区切り、自分と似た色の瞳を捉えた。
「お前の願いは?」
空から星が降ってくる、一秒程度の時間。たったそれだけの短い時間に三回も唱えることができるような、強い願い事を。
リィンはまず間違いなくその胸に抱いている、と。クロウは確信していた。
「………………俺、は」
僅かに視線を下げ、微かに零れ出た音が途切れる。薄く開かれた唇は程なくして結ばれ、瞳が揺れたことをクロウは見逃さなかった。
「別に、お前のそれが悪いとは言わねぇよ」
でも、それもとっくに分かっていたことだ。
思ったまま口にしたその言葉にリィンは「え?」と顔を上げた。意外だ、と思われる程度にはリィンも自分の悪癖を自覚しているのだろう。もちろん、クロウとてそのことに納得しているわけではないが。
「今の状況を考えれば仕方ない部分もある。お前も――俺も、な」
あ、とリィンの声が静かな夜に落ちる。そのまま二人の間には暫しの沈黙が流れた。
仕方がない、なんて言っても納得できることではない。だからこそ、世界へ諍うために自分たちは前に進もうとしている。この世界を終わらせないために。
けれど、中にはどうしても避けられないこともある。当然努力はするが、努力だけではどうにもならないことも確かにあるのだ。故に、自分たちは最悪の可能性も頭に入れている。
「なあ、リィン」
一体どこまでが世界に定められていたのか。そんなことは分からないし、知りたいとも思わない。だが、自分たちが共に世界の命運に関わっているというのなら。
「俺もお前と同じ理由でここにきた、って言ったらどうする?」
ぱちぱちと丸くなった瞳が瞬く。驚きに開かれた瞳をクロウはただじっと見つめていた。
「…………クロウが?」
「ああ」
聞き返された問いに即答する。それからまた暫しの間、夜の静寂が二人の間を流れた。けれど、今度のそれは程なくして破られた。
くすっ。
小さな笑い声とともに「意外だ」と口に出した友人に「俺にだってそういう日もある」とクロウは素直に答えた。答えなければ、意味がない。
「人間なら誰だってそういうことはあるだろ。お前だけじゃねぇよ」
「……そうか、そうだな」
「だが、仲間がいるのに全部を一人で抱え込む必要もないだろ?」
俺も人のことはいえないが、そう思いながら続けたそれに「そうだな」とリィンの赤い瞳がクロウを真っ直ぐに映した。
「ありがとう、クロウ」
その瞳にはもう、ここで会った時に微かに見え隠れしていた色は消えていた。優しげに細められた深紅にクロウはそっと息を吐く。
「礼を言われることをした覚えはねーよ」
「俺が言いたくなったんだ」
そうかと返したクロウに「ああ」とリィンは短く頷く。そこに宿っているのは出会った頃から変わらない、強い輝きだけ。
眩しいほどの輝きは手を伸ばしたところで決して届くことのない、遠いものだとばかり思っていた。
しかし、案外そうでもないのかもしれないと深紅から視線を外したクロウはアルタイルとベガを見上げた。諦めて、手を伸ばすのを止めてしまったのはきっと間違いだったのだ。
それを声に出していたのなら、その通りだとこの友人は笑うのだろう。何せリィンはクロウが知る人間の中で一番諦めが悪い。そうでなければ今頃、二人で星を見上げることもなかったに違いない。
――でも。諦めきれなかったのはこっちも同じか、とクロウは静かに手摺りから背を離した。
「明日も早いんだろ。そろそろ戻ろうぜ」
寝不足なんて言い訳にならねぇぞと歩き始めたクロウの隣に程なくしてリィンも並ぶ。明日もよろしくなと持ち上げられた拳をこつんと合わせて二人で扉を潜った。
きらり、輝く星を背に。二人で共に歩みゆく。
伸ばした手の先に
(見つけた光を、今度はもう――)
「そうだ、クロウ。前にいいお店を見つけたんだ」
部屋に戻る最中。思い出したようにリィンが言った。落ち着いた雰囲気で値段もお手頃、それでいて料理も美味しい上に酒の種類もそこそこあるらしい。
「へえ? なかなかよさそうな店だな」
「だから今度……落ち着いたら、二人で一緒に飲みに行かないか?」
そして、リィンが持ち掛けた小さな約束にクロウはふっと笑った。
「そうだな。なら、そん時は俺が奢ってやるよ」
今更だが卒業祝いと就職祝いだ。そう話したクロウに「それは楽しみだ」とリィンは顔を綻ばせた。
それはとても些細な
けれど自分たちにとってはかけがえのない、未来への約束