「ん……」


 微かな声に赤紫の瞳が動く。気が付いたか、と呟いた独り言はあっという間に部屋に消えた。
 程なくして自分のとは違う紫色の瞳が現れるのをクロウはぼんやりと眺めていた。


「ここは……」

「帝都郊外にある掘っ建て小屋、ってところだな」


 きょろきょろと辺りを見回すリィンに答えてやれば、一瞬その体が跳ねた。勢いよく振り返った青紫の瞳に宿るのは、驚愕、困惑、といったところだろうか。


「ク、ロウ……?」

「先に言っておくがARCUSは通信範囲外だぜ」


 当たり前といえば当たり前だ。あれは通信を可能とする設備のない場所では通信機能を使えない。戦術オーブメントとしては使えるが、わざわざ取り上げるほどでもないかと考える自分は甘いのか。どうせこいつはその機能を使わない、などと思うのはリィンの性格を少なからず理解しているためだ。
 使っちまえば良いのに、とは思うけれどリィンは未だに状況を整理できていないらしい。何もない部屋に二人きり。唯一の窓から僅かな光が差し込んでいるだけで碌な照明機器もない。あるのはリィンがさっきまで寝ていたベッドと部屋の隅の机だけ。辛うじて寝泊まりはできるだろうという程度の場所だ。


「何で……」

「さあ? 何でだろうな」


 適当な相槌を打つと困惑を色濃く表に出した瞳に見つめられる。求められている説明は、何故こんな場所に自分たちがいるのかだろうか。それとも誰が何の目的で、といった部分か。
 おそらくそれらを含めた全てが一番正しいのだろう。答えられる人間はクロウしかいない。今ここにいるのがクロウだけだから――ではなく、リィンを連れてきた張本人こそがクロウだから。

 流れる沈黙。リィンは待っているのだろう。唯一、この状況で話を聞ける相手が話してくれるのを。
 敵か、味方か。流石にこんな状況で敵である可能性を考えていないとは思えないが。真っ直ぐすぎる瞳は、眩しすぎる。


「お前を閉じ込めておくには丁度いいだろ?」


 すぐ傍で、息を飲む音が聞こえた。ゆっくりと、下ろした瞼を持ち上げると見慣れない色の瞳とぶつかった。
 こんな顔もするんだな、とクロウは一人呑気なことを考える。させているのは他でもないクロウ自身だが、新鮮だなと思ってしまったのだから仕方がない。


「なん、で……」


 震える声。昨日までは当たり前に同じ屋根の下で暮らしていたというのに。どうしてこんなことを、と聞かれたところでクロウに言えるのは先程と同じことだけ。


「お前を閉じ込めておくためだろ」

「だから、何で」

「お前が欲しいから」


 それ以外に理由なんてないだろうとさらっと言ってのける。
 こんなことは間違っている。絶対におかしい、と言われたらクロウはそうだなと肯定する。そんなことはクロウにだって分かっている。分かっているのに何故、と聞かれたならそれでもお前が欲しいからと答える。


「もう、いいだろ」


 いい加減。ぶっきらぼうに放った言葉の意味なんて知らなくていい。ふざけるなとARCUSでアーツを発動させようが、そこにある太刀を抜刀しようが構わない。構わないから、リィンからそれらを奪うことはしなかった。


「ま、逃げたきゃ好きにしろよ。逃げられれば、の話だが」


 矛盾しているなと言いながらクロウも思った。太刀もARCUSも、手足の自由も奪って、繋いでしまえばそもそもリィンは逃げられない。逃げられないのならリィンはずっとここにいる、いるしかない。
 どんなにリィンが泣き喚こうと、クロウがそれを聞き入れなければいいだけの話だ。たったそれだけで望んだものが手に入る。きらきらと輝く宝石がくすんでしまっても、その宝石であることに変わりはない。何にも変えがたい、たった一つの――。


「…………言ってることと、やってることが無茶苦茶じゃないか」


 やがて、リィンが呟いた。これだけ自由を許しておいて何を言っているんだ、と。


「俺が逃げようとしたら、本当に止めるのか?」


 リィンの問い掛けにクロウは笑う。


「俺がお前を止められないと思うのか?」


 どれだけ実力に差があると思っているのか。鬼の力を使われたら分からないとはいえ、素の力ならばおそらく勝っている。やりあうつもりならそれもいいが、結果は目に見えているだろう。

 しかし、クロウの言葉にリィンは首を横に振った。そうじゃない。真っ直ぐな瞳がクロウを捉えた。


「クロウは俺を止める気がないだろ」


 実力以前の話だと目の前の後輩は言い切った。
 馬鹿なことを、と零したら「クロウは止めないよ」と繰り返された。もしかしたら逃げて欲しいと思っているんじゃないかと、根拠もないことをリィンは並べていく。
 ――いや、根拠はあるのかもしれない。


「それなら試してみたらどうだよ」


 そうすれば全てはっきりする。リィンの言うように、クロウに止める気がないことも。

 閉じ込めておきたい。本当は、全部奪って手中に納めてしまってもいい。
 それをしなかったのは、最後の理性が働いたからだ。ここまでやったのなら理性なんか手放してしまっても良かったが、一瞬躊躇ってしまったせいで捨てきれなくなってしまった。矛盾ばかりで歪な心は、もう大抵のことを気にしなくなったというのに。

 再び暫しの沈黙が訪れる。今度はクロウがリィンの行動を待っていた。
 ちら、とリィンの視線はサイドテーブルに立て掛けられている太刀に向かう。だがすぐにその視線を外すと青紫の双眸はクロウを映した。そして。


「…………もういいよ、クロウ」


 ぎゅっと、リィンはクロウを抱き締めた。
 太刀もARCUSを取ることもなく、ただ困った友人へと手を伸ばしたリィンは優しい声色で続ける。


「これがクロウの望みなら」


 それさえ受け入れるというのか、このお人好しは。
 ここまでくるとお人好しの枠を軽く飛び越えている。普通の人間なら逃げ出す、逃げ出さない理由がない。この場に留まったところで得られるものがないばかりか、多くのものを失うことになるというのに。


「……お前、自分が何言ってんのか分かってんのか?」

「クロウこそ、さっきから矛盾したことばかり言ってるぞ」


 俺に逃げて欲しいのなら初めから止めておけば良かったんだとリィンは微かな笑みを浮かべる。リィンが逃げないことこそが、クロウの望みだろうと。
 確かにそれはその通りだ。けれど、リィンが指摘したようにクロウはこの後輩を手に入れたい反面で彼が逃げることを望んでいた。本当に何もかもが矛盾しているが、リィンに自由を許している時点で今更だ。正しい思考回路などとっくの昔に失ってしまった。そもそもこの世界に正しいことがあるのかさえ。


「俺は逃げないよ」


 言い切ったリィンは次いで「逃げる理由もない」と呟いた。その小さな声は然程離れていないクロウの耳にもしっかりと届く。
 理由がないわけがない、と思ったクロウはそこで何かがおかしいと感じた。最初こそ当然の反応を見せていたリィンだが、いつから――と思い返したところではたと気が付いた。否、気付いてしまった。


「……これじゃあただの同居生活が始まっちまうだろ」

「クロウがいてくれるならそれでいいさ」


 その言葉で確信する。思えば、リィンは殆ど初めから抵抗らしい抵抗もしていない。その時点で既におかしかったのだ。
 友人だと思っていたから信じられないにしたって変だろう。遠い記憶にある、まだ見ぬ未来で敵になるクロウにリィンは正面からぶつかってきた。しかし、今のリィンは。


「これで、歴史は変わるのか」


 ぽつり、零れた言葉をリィンが拾う。


「変えたいんじゃなかったのか」

「いや、俺は終わらせたいだけだ」


 それもある意味、この無限に続く歴史を変えたいと言えるのかもしれない。いつから、どういう原理で世界が同じ時を巡り続けるようになったかなど誰にも分からない。まず世界が繰り返していることに気が付いている人間がいないと思っていた――ついさっきまでは。
 でも、もうお互いに分かってしまった。その上で理解もした。だからこそ、リィンは言った。


「俺は変えたい」


 途中でどんな行動を取ろうと最後は決められた結末にしか辿り着かない世界。この世界が何を求めているかは分からないが、その世界でリィンが望むものもただ一つ。

 何とは言わなかったけれどリィンが変えたいものは想像に容易かった。回された腕が僅かに強まったことが答えだろう。
 クロウは何とも思っていないそれを、すぐ傍の友人はいつだって泣きそうな顔で見ていた。切り捨てられなかった大切な人がこんなろくでなしをいつまでも追い掛けるのは定められた運命だからではなく。


「……いいのかよ。みんな心配するぞ」


 クラスメイトもトワたちも、女学院に通っている妹やユミルにいる両親だってリィンを心配する。リィンがいなくなったら悲しむ人をクロウは何人も知っていた。それでも、リィンを望んだのはクロウだが。


「散々俺たちに心配をかけた奴が何を言ってるんだ」

「俺は最初から――」

「あれだけ俺のことを助けてくれたのに?」


 くすっと笑ったリィンはゆっくりと腕を解いて青紫の瞳にクロウを捉えた。


「あげるよ、全部。その代わり」


 そこから先の言葉は全て奪った。熱く混ざり合う熱をもリィンは享受する。
 いや、違う。欲していたのは、望んでいたのは。自分だけではなかったというだけの、これはたったそれだけのとても単純な話。


「…………お前もバカだな」

「クロウには言われたくないな」

「まあそうだろうな」


 求め合う熱。ずっと、欲しかったもの。けれど手を伸ばすことはできなかった。手を伸ばすよりも前に喪って、それでも世界は何度でも自分たちを引き合わせた。
 世界の望み、自分のやるべきこと、たった一つの欲したもの。カチ、とどこかで見えない歯車が噛み合った。その歯車が誘う道など自分たちには分からないけれど。


「好きだ」


 伝えたくても伝えられなかった言葉が初めて音になる。
 同じ想いで応えた時、再び二つの熱が一つに溶けた。








(やっと、手に入れた)

長い時を経て、漸く望みが叶った




なあ、   。何年も前からずっと
俺は   が欲しかったんだ