その大きな手は俺に色々なことを教えてくれた。その大きな手が好きだった。温かくて優しくて、時には怒られて拳骨をもらったことなんかもあったけど。色んな遊びや生きていく上で必要なこと、他にも沢山のことを教えられた。
 その手に撫でられると温かくて、その手が見せてくれるものはキラキラ輝いていて。特別に見えるそれを教わって覚えて、自分のものにして。そして、俺は……。


「…………ロウ、クロウ」


 自分を呼ぶ声に沈んでいた意識がゆっくりと浮上していく。そのまま重い瞼を持ち上げると、窓から入ってくる眩い光に思わず目を細めた。
 ああもう朝か、と呑気なことを考えながらのろのろと体を起こす。また随分と昔の夢を見たなとぼんやりした頭で思いつつ、視線をずらせばとっくに起きたらしい同居人は既に着替えも済ませていた。ついでに自分を呼びに来たということは朝食の支度も終わらせたのだろう。


「あー……悪ィ、今起きる」


 まだ何も言われてはいないけれど、いつまでも起きてこないからわざわざ様子を見に来たのだろう。それが分かっているから先に謝った。しかし、青紫色の双眸はじっとこちらを見つめたまま。


「リィン……?」

「クロウ、もしかして体調悪いのか?」


 言われてそういえば少し怠い気もするなと思う。ああでも昨日の夜の時点でちょっとした違和感は感じていたんだ。どうせ気のせいだろうと片付けてしまったわけだが、あれが既に風邪の前兆だったんだなと一人で納得する。風邪を引いた理由はほぼ間違いなく昨日の依頼だろう。
 昨日は落し物を探す為に川の中を探し回った。その上気温が少しばかり低かったのも悪かったのか、結果として風邪を引いたらしい。ちなみに昨日はお互い単独で依頼を受けていた。


「いや、これくらい問題ねぇよ。さっさと朝飯食って行くとしようぜ」

「でも顔も赤いし、熱があるんじゃないか?」


 こつん、とごく自然な動作で額と額を合わせるその行為にクロウの思考は停止する。だがリィンは特に気にした様子もなく、額を離すなり「やっぱり熱があるみたいだ」と指摘してくる。多分、リィンにとっては何らおかしくない行為なのかもしれないが。


「…………なあ、お前にとってはそれが普通なのか?」

「えっ? あ、すまない! 昔は妹によくやってたから……」


 それでついやってしまったんだと、大方予想していた通りの答えが返ってくる。そんなことだろうとは思ったけれど、誰彼構わずこんなことをやるのは流石にやめて頂きたい。
 回らない頭で「これ、誰にでもやるんじゃねぇぞ」と念のために注意をすると、慌てた様子で「誰にでもはやらないよ、クロウだったから」などと返ってきて思わず頭を抱える。リィン的には弁解したつもりなんだろうが、天然でこういうことを言うのも今だけは止めて欲しいと思ってしまう。嬉しいけれど。


「クロウ、やっぱり辛いんだろ? 今日の依頼なら俺一人でも大丈夫だから、クロウは休んでてくれ」


 今お前が心配したのは風邪とは全く関係ないところなんだけどと訂正する気にもならず「そうさせてもらうわ」と答えるのがやっとだった。最初こそ本当にこのくらいなら大丈夫だと思っていたのだが、依頼の内容からしてもリィン一人に任せても問題ないのは確かだ。ここは素直に厚意に甘えさせてもらうことにする。


「朝食は食べられるか? 食べられそうなら何か消化の良い物を……」

「普通に食べられるからそんな気にすんなよ。風邪なんて一日寝てりゃあ治るだろ」


 大げさすぎると暗に伝えてもリィンは心配そうにこちらを見る。心配そう、ではなく心配しているのだろう。滅多に風邪なんて引かないけれど、誰だって風邪を引く時は引くもんだ。子供じゃないんだからたかが風邪でそこまで心配することもないのにと思いながらふっと小さく笑みを浮かべる。


「心配しなくても今日はちゃんと寝てるし、何かあったら連絡する。だから悪いけどそっちは任せるぜ?」


 言えば、リィンも「ああ」と頷いてくれた。それを見て俺は漸くベッドから体を下ろし、リィンの作ってくれた朝食を二人で食べた。その後は出掛けるリィンを見送って、リビングに戻るなり使った食器を片付けてから再びベッドに入った。

 風邪なんて引いたのはいつぶりだろうと記憶を辿ってみるが、途中で考えるのを止めた。くだらないことを考えるより体を休めるのが先だと思い直してごろんと体を横にする。ごほごほと咳を零しながら、また迷惑掛けちまったなと思っているうちにゆっくりと意識は沈んでいった。



□ □ □



 自分で選んだ道だから立ち止まってなんかいられない。後戻りは出来ない、進むしかない。自分の信じる道を進んで、その先にあるのは何だろう。欲しかったものは手に入らない、大切だったものは戻って来ない。分かってる、けどそれでも目指すものはたった一つで。
 その為なら俺は何だってやってやる。全てを捨てて生きていくと、決めたんだ。もう、俺にはそれしかないから。俺にとって唯一の、大切な。


『クロウ』


 大切な、家族。その人に色々なことを教わって、その人の背中を見て生きてきた。俺にとって家族であり、また師匠とも呼べる人だった。俺はその人が大好きだった。


『すまない、クロウ……』


 嫌だ、嫌だ嫌だ。そんな風に泣いたのはあの時が最後かもしれない。市長の仕事で忙しかった祖父さんに我儘を言って困らせてはいけないと幼いながらに思っていた。それで逆に迷惑を掛けてしまったことや心配させてしまったこともあった。でも、いつだって祖父さんは最後にその大きな手で優しく頭を撫でてくれた。
 あの時も伸ばされた手を俺はぎゅっと握りしめて、それから暫く泣き続けた。そしてそのまま俺の時間は止まってしまった。敵討ちなんて祖父さんが望んでないかもしれないけど、俺にはそれしかなかった。故郷も友達も全部捨てて、大切なものなんてないはずだったのに。


『戻って来てもらうぞ、クロウ!』


 ばっさりと切り捨てて終わるはずだった。だけどそんな俺を追い掛けるような奴が現れた。何度切り捨てようとしても追い掛けて、追い続けて。必死で伸ばされた手にとうとう掴まった。
 その手もまた温かかった。遠い昔に捨てたはずの、失ったはずの温かさがそこにあった。



□ □ □



 ゆるりと瞼を持ち上げる。今何時だ、と思いながら外を見れば太陽が東から西へと移動している。空もすっかり橙色に染まっていて、どうやら一日中ベッドの上で過ごしていたらしいことを悟る。それだけ体が休息を求めていたのだろう。
 けどいい加減に起きるかと体を動かそうとした時、そこにある重みに気が付いた。いつの間に帰って来たのか、リィンの姿がそこにあった。


(いつ帰って来たんだ……?)


 すーすーと規則正しい息を立ててリィンはベッドの横で眠っていた。おそらく、帰って来てからずっとここで看病をしていてくれたのだろう。額に乗せられていたタオルを手に取ると、既に冷たさはなくなっていた。いつ帰ってきたのかは分からないけれど、まあ当然といえば当然だ。
 しかし、リィンが帰って来たことに全く気付かなかったのかとクロウはそのタオルを見つめる。どちらかといえば人の気配には敏い方なのだが、それだけリィンに気を許しているということなのだろう。ほんの数年前の自分だったら考えられないことだよなとすぐ横の黒髪に視線を落とす。


(それだけ、特別なヤツってことだな)


 この後輩に出会って色々なことが変わった。コイツに出会わなかったら今の自分はなかっただろうし、こんな平和な世界で生きていることもなかったかもしれない。人との出会いは一期一会なんて言葉もあるけれど、リィンと出会ったことが自分にとっては本当に大きなことだったと思う。
 そっと艶のある黒髪に触れると、んんっと小さく唸る声が聞こえてくる。そしてゆっくりと現れる青紫。ぼんやりした青紫がこちらを見つけるまで、たっぷり三秒ほど。


「悪ィ、起こしたか?」

「いや……。クロウこそ、もう良いのか?」

「おう。お蔭様でな」


 体温は測っていないけれど、今朝のような体の怠さはもう感じられない。一日しっかり寝ていたことで熱も下がったのだろう。これもリィンが一人で大丈夫だからと今日一日休ませてくれたお蔭だ。
 クロウの返事にリィンは「そうか」とほっと息を吐いた。依頼のことと看病をしてくれたことに礼を述べると、これくらい構わないと言ってリィンは口元に笑みを浮かべた。


「こういう時くらい素直に頼ってくれ。いつもは助けられてばかりだしな」

「そんなことねぇだろ。むしろ俺の方が助けられてることも多いんじゃねーか?」


 それは流石に言い過ぎだろうと返されるが、そうでもないんだけどなとはクロウの心の中だけで呟かれた。言っても先程のようにリィンは否定するだろう。だがクロウは本気でそう思っている。
 今まで、どれほどリィンの存在に助けられてきたか。勿論、それらもクロウの心の中だけに留めておくけれど、助けられているのはこっちだと言い切っても良いくらいだ。自分達がまだ士官学院生だった頃も、敵対していた時も、そして今も。


「なら、一つだけ頼んでも良いか?」


 そう思いながらも、頼ってくれと言ったリィンの言葉を素直に受け取ってクロウは尋ねてみた。それにリィンはすぐ「ああ」と頷いてくれる。
 そんなリィンにちょいちょいと手招きをすると、首を傾げながらも徐にこちらへ近付いてくれる。そして、隣までやってきたリィンの腕を引くなりクロウはその体を自分の腕の中に収めた。


「ちょっ、クロウ!?」

「お、やっぱあったけぇな」


 驚きの声を上げるリィンの後ろでクロウは呑気なことを言っている。病人とはいえ、既に熱の下がっているクロウの力は普段と変わりない。元々の体格差も有り、リィンが抜け出そうとしてもそう簡単には抜けられない。加えてクロウが力を加えているとなれば抜け出すのはほぼ不可能だ。
 はあ、とリィンは溜め息を一つ吐いて後ろのクロウを振り返る。


「一応聞くけど、寒気がするとかじゃないよな?」

「風邪はもう大丈夫だって。ただ、こういう時って人肌が恋しくなったりするだろ?」


 寒いから暖かさを求めたのではなく、人肌が恋しくなって温もりを求めた。普段はこんなことなんてしないけれど、風邪を引いたからという理由を付ければ許されるだろう――というのも変な話だが。風邪に託けて甘えてみるのも有りだろうと思った結果である。
 言えば、リィンもそれ以上は何も言わずに好きにさせてくれた。手の届くところにある人の温もりはやはり温かい。どこか懐かしい感覚を思い出すのは、記憶の奥底に眠っていた夢のせいだろう。

 暫しの間、クロウはリィンはぎゅうと抱きしめていた。リィンがそこから解放されたのは、その頼みごとを聞いてから二、三分ほどの時間が流れた頃のことだった。
 漸く解放された青紫がこちらを振り向くの認めると、クロウは口元に小さく笑みを浮かべた。


「サンクス。これで風邪も完全に治ったかもな」


 これだけで風邪が治るわけがないとか、そんなわけないだろとか。いつもなら返ってくるであろう言葉が返ってこないことを不思議に思う。だが、ただじっとこちらを見る青紫の双眸には覚えがあった。そう、確か今朝もこんな風に青紫はこちらをじっと見つめていた。


「リィン……?」


 こちらが名前を呼び終わるのとリィンが動くのはほぼ同時だった。今度はリィンの方からその腕をクロウの背に回した。それに驚かされたのはクロウだ。


「お、おい……!?」

「さっきも言ったけど、こういう時くらい頼ってくれても……甘えたって良いだろ」


 先輩だとかそういうこと関係なしに、と言いながら抱き締めるリィンは温かい。まあ元先輩というだけで今は同じ職場の同僚だ。といっても年上ではあるのだが、同輩になった時からそんなものはあってないようなものだ。
 それでも年上は年上で、甘えるよりは甘えさせる方が多いのは確かだが、まさかこんなことを言われるとは思いもしなかった。今朝も風邪を引いているとすぐに気付いたし、どうにもこの後輩には色んなことに気付かれてしまうらしい。それも俺が風邪を引いているからなのか、コイツがよく見ているからなのかは分からないけれど。


「……そんなこと言って、後で後悔しても知らねぇぞ?」

「病人相手に後悔も何もないだろ。今日はこのまま寝て、ちゃんと風邪を治さないと」

「もう治ったって言ってんのに」

「油断は禁物だからな。今日は大人しく寝てること、良いな?」


 子供にでも言い聞かせるかのようなそれも昔は妹に言っていたのだろう。言われなければ大人しく寝ていられないような子供ではないのだが、ここは素直に従っておくことにする。へいへいと適当に返事をしながら言われた通りにごろんと寝転がれば、見慣れた天井が視界に映る。
 まあ、これもリィンらしさだろう。そういうところも含めて……と思ったところでふと、思いついたことが一つ。まだ横にいるリィンを見上げると、クロウはそのまま口を開いた。


「なあ、あともう一つ頼んでも良いか?」


 聞けば「何だ?」と疑問形で返される。ごく自然に返されたそれは病人に対してのものだろうが、先程の甘えても良いという言葉でつい頭に浮かんでしまったのだ。それなら、と。
 クロウは口角を持ち上げて、そのもう一つの頼みごとを口にした。


「たまにはリィン君から好きって言って欲しいんだけど?」


 言った途端、リィンの顔が赤く染まる。それは風邪とは何の関係もないだろうとすぐさま返されたけれど、こういう時くらい甘えても良いって言ったのはお前だろと都合の良いようにクロウは言い返す。
 それは甘えるとも違うんじゃないのか、とはリィンの心の内である。確かに言ったけれどと思いつつ、ちらりとそちらを見ればニヤニヤと楽しげな笑う赤紫とかちあう。そういう意味で言ったんじゃないと切り捨てれば良いものを、それが出来ないのがこの真面目な恋人であることをクロウは当然知っていた。


「なあ、リィン」


 その言葉を促すように優しい声色が名前を呼ぶ。開きかけては閉じてを何度か繰り返していたリィンは、その声にとうとう負けた。


「………………クロウ、好きだ」


 漸くその言葉を口にすると、照れ隠しなのだろう。ほらこれで良いだろと言って立ち上がったリィンは、大人しく寝てろよとだけ言い残して部屋を出て行った。おそらく、そのまま夕飯の支度でも始めるのだろう。起きた時にはオレンジ色だった空も今はすっかり暗くなっている。


(本当、幸せだな)


 残されたクロウはリィンの出て行った扉を見て微笑む。次はこうやって頼むんじゃなくて、自分から言ってもらいたいななんて思いながら窓の外を眺める。そこには幾つもの星が光り輝いていた。今も当たり前のように目印にしているそれを自分に教えてくれた人もこの中にいるんだろうか、なんていつか聞いた話を思い出しながらそっと瞳を閉じる。



(……祖父さん、俺)


 また大切な人が出来たんだ。そんで、ソイツと共に歩んで行くと決めた。ソイツのお蔭で広がった世界を、二人で一緒に。お互いに守ったり守られたりしながら。今度こそ迷わずに進んで行くよ。
 だから心配しないでくれ、と心の中で告げて再び瞼を持ち上げる。キッチンの方から聞こえてくる音に耳を傾けながら、大切なその人が戻るまで本でも読んでるかと近くにあった一冊を広げることにした。







あの大きな手と同じ温かさをくれる人が、今も隣に