それを知ったのは、ほんの偶然だった。
「明日は久々のオフだな。たまにはどっか遊びに行くか?」
遊撃士協会に舞い込んできた数々の依頼を分担してこなし、漸く一通り片付いた今日。この一週間ほど連日働きづめだった二人は久し振りの休みをもらった。
久し振りの休みとなれば、やりたいことはたくさんある。ここ一週間で溜まっている家のことを片付けるにも丁度いいが、単純に体を休めるために家でのんびりするのも有りだろう。だがここのところ仕事ばかりだったことを考えると、気晴らしに出掛けるというのも選択肢としては十分有りだ。そしてクロウが提案したそれにリィンは少しだけ考えて、自分を映す赤紫の瞳を見つめた。
「それなら、クロウと一緒に行きたい場所があるんだけど」
その一言にクロウは僅かに首を傾げる。程なくして珍しいなと言われたのは、行きたい場所があると答えればいいはずのそれにあえてクロウと一緒に行きたいという一言を付け加えたからだろう。
「できれば明日一日、付き合ってくれないか?」
「そりゃあ構わねぇが、改まってどうした」
何かあるのかと疑問に思われるのも仕方がない。別に明日でなければいけない理由はないけれど、どうしてもクロウと行ってみたい場所があったのだ。
本当は、リィンから言い出すことではないと分かっている。それでもあの日、偶然にも知ってしまったそれはずっとリィンの頭の片隅に残っていた。あの時聞いた、友の話も。だから。
細く、長く、息を吐く。
それからゆっくりと、リィンは青みがかった紫の瞳に友を映した。
「ジュライに、行かないか?」
「おかえり」
- 伝えたい、もう一つのこと -
さー、と波の音が響く。何度も、何度も。砂浜を行ったり来たりする水面を眺めながら、どれくらいの時間が流れたのだろう。
「どうせなら海に入れる時期のがよかったんじゃねぇか?」
ゆらゆらと揺れる海を眺めながらクロウが呟く。その目はじっと深い蒼を見つめていた。ちらっと友の表情を窺ったリィンもまた、すぐに視線を海に戻して答える。
「それも楽しいだろうけど、単純にクロウとこの街に来たかったんだ」
水泳の授業で何度かプールには入っているが、実際の海で泳ぐのはまた違うのだろう。山育ちのリィンはこんな広い海で泳いだことがないからそれはそれで興味がある。
だけど、今日はもっと別の目的があってこの場所を訪れた。これが偶々海に入れる季節だったのなら軽く海にも入ったかもしれないが、肝心なのはクロウの故郷であるこの街に友と一緒に来たことだ。
「クロウ。今日は付き合ってくれてありがとう」
「日帰りの旅行で大して案内もしてやれなかったが、満足したか?」
「ああ。すごく楽しかった」
それならよかった、とクロウは小さく笑った。その表情にリィンの心はほんのりと熱が灯る。
ジュライに行きたいと話した時、クロウは驚いた顔をした。だけどすぐに了承して、日帰りなら朝一の列車で行くかと予定を立てた友はジュライに着くなり街を案内してくれた。
ジュライのソウルフードといわれるフィッシュバーガーを食べ、目に留まった雑貨屋に立ち寄り、ちょっとだけカジノにも寄って行かないかなんていう話もしながら最後にやってきたのがこの海だった。昼間の蒼い海は太陽の光を浴びて色を変え、どこか哀愁を漂わせているのはこの夕焼けの影響だろう。
「……この景色は、変わらないもんだな」
ぽつり。呟かれた声はざーという波の音にあっという間に飲まれて消えた。けれど、隣にいたリィンの耳にはその言葉がしっかりと聞こえていた。
帝国への併合を機に変わってしまったという街並み。それでも懐かしかった、と数年前に士官学院の実習でこの地を訪れた彼は言っていた。今日もクロウはリィンに街を案内しながら一見いつも通りだったが、その瞳が様々な色を浮かべていたことにリィンは気が付いていた。それはきっと、以前空の上で聞いた話そのものだったのだろう。
「なあ、クロウ。あと一ヶ所だけ、俺の我儘に付き合ってくれないか?」
二人の間に生まれた暫しの沈黙を破って、リィンは問い掛ける。間もなくしてこちらを振り向いたクロウは数秒の後にわざとらしく溜め息を吐いた。
「一つでも二つでも、我儘くらい好きなだけ言えよ。甘えてもらえるのは恋人の特権だろ」
何も遠慮はするなとクロウは言う。いつもだったらそれならクロウも、と言うところだが今日のところは素直にその言葉を受け取ることにした。
「それじゃあ行こう」
「行くって、おい、リィン……!?」
どうしても、クロウと行きたい場所があった。
本当はこっちから言うことではないだろうし、多少の躊躇いもないわけじゃなかった。でも。
誰もいない砂浜でその手を取ったら両目を大きく開きながらクロウが声を上げた。いつもならこんなことはしないけれど、列車の時間もあるからと言い訳をして砂浜を駆けた。
場所は然程遠くない。あの日、夕日が沈む海を眺めながら歩いた記憶を辿りながらリィンはクロウの手を引いた。
□ □ □
明日は休みだからどこかに行くかと尋ねたら、ジュライに行きたいとリィンは言った。
突然その名前が出てきたことには驚いたが、どうしてその名前が出てきたのかはすぐに分かった。何せジュライは以前リィンにも話した俺の故郷だ。どこかに出掛けるのならジュライに行きたいと言われる理由も分からないわけじゃなかった。
だからリィンの言葉に頷いて故郷を再び訪れた。
十三の時にここを出て以来、もう戻ることはないと思っていた場所に二度も帰ることになるなんて思いもしなかった。見慣れない街並みに複雑な気持ちがないといえば嘘になるが、どこか懐かしさも感じる街をリィンと一緒に回るのは結構楽しかった。多分、俺一人では訪れることはなかっただろうからリィンが行きたいと言ってくれたことに感謝した。
「おい、どこまで行くつもりだよ」
ここまできたら今日はとことんリィンに付き合うつもりだった。だが、いつもなら絶対に外で手なんか繋がないリィンが自分の手を引いて走り出したのも意外だが、今日見て回った場所とは違うどこかへリィンが向かおうとしていることにも疑問が生まれる。
「ごめん、あと少しで着くから」
「あと少しって……」
中心地から離れているこんな場所に何か観光スポットがあった記憶はない。それはクロウがここで暮らしていた時の記憶だけではなく、今のジュライの地図を見た時の記憶も含めた話だ。
一体リィンはどこを目指しているのか。全く見当がつかなかったが、当のリィンは迷いなく足を進めていた。こうなったらリィンが目的地に着くまで黙って付き合うしかないだろう。
「ここは…………」
そう思って数分が経った頃、漸くリィンが足を止めた。そして目の前に飛び込んで来た景色に思わず声が零れ、途切れた。
「クロウと一緒にジュライに来たかったのは本当だ。でも前に一度だけ、ジュライに来たことがあるんだ」
掴んでいた手を離したリィンがゆっくりと足を進める。その時は仕事で、それも少し立ち寄っただけだから殆ど街を見ることもできなかったけれど。そう言いながらリィンの手が鉄の門に触れた。
「この場所を知ったのも、偶然だったんだ。当てもなく歩いていた時に見つけて、偶々近くを通り掛かった人がこの家のことを教えてくれた」
蔦が絡まった門はリィンが力を加えたことでギィと音を立てながらゆっくり開く。その門を見れば分かる通り、実際長年手入れがされていない庭も草木が伸び放題でお世辞にも綺麗とはいえないような惨状だった。おそらくは建物の中も埃で大変なことになっているだろう。
この家の家主は十年近く前に亡くなり、それから誰も住んでいないのだから当然といえば当然だ。おそらくリィンが聞いた話というのも――その時、リィンがくるりと振り返った。
「勝手に聞いてごめん。余計なお世話かもしれないけど、どうしてもクロウと来たかったんだ」
青紫の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめ、ふわり、柔らかな笑みを浮かべた。
「おかえり、クロウ」
おかえり。
脳裏に過ったのは、幼い頃に何度も聞いた唯一の家族の声。時々遅くまで遊んで怒られたこともあったけれど、それでも最後は「おかえり」と大きな手で迎えてくれた。十三で故郷を去った時に捨てたはずのそれは、その故郷にも残っていないはずだったのに。
「…………全部、捨てたはずだったんだが」
祖父とも思い出も、大切な故郷も、いつの間にかまたできていた多くの繋がりも。あの日を境に手放したはずのものは、どういうわけか結局この手に残っていた。
いや、それを捨てさせてくれなかった友がいた。一時の繋がりだと思っていた関係はこうして今も、たくさんの人と繋がっている。中でも特に、クロウ自身が捨てきれなかったその繋がりは今も目の前にある。
「最初から、クロウは全部大切にしてたよ」
「それはお前だろ」
「クロウだって同じだ」
本当にこいつは、と思いながら一歩踏み出すと同時にその体を腕の中に収めた。
もう、ここでその言葉を聞くことはないと思っていた。そしてこの場所でその言葉を二度と口にすることはないとも思っていた。でも。
「……ただいま」
「おかえり」
ぎゅっと抱きしめると、リィンもまた自分の手をクロウの背に回して優しく答えた。祖父とは違うそのあたたかさは、その祖父と同じくらい大切なものだ。
でも、当たり前だがその意味は少しだけ違う。いきなりジュライに行きたいと言い出した本当の訳はこれだったのかと今になって理解した。所々気になっていたリィンの言い回しにもここへきて漸く納得がいった。本当に、人のことばかり考えているお人好しの恋人が愛しくて堪らない。
「ありがとな」
心の内で抱いていた感謝の気持ちを言葉にすると、リィンはゆるゆると首を振った。
「それはこっちの台詞だ」
「いや。お前が言い出さなきゃここに来ることなんてなかっただろ」
仮にジュライに来ることがあったとしてもこの場所に来ることはきっとなかった。故にありがとうと伝えたら、少ししてからリィンが肩口で小さく頷いた。その様子を横目で見て、次いでこの目が映した懐かしい景色に心がじんわりとあたたまる。
――帰って、来たんだな。
この街に足を踏み入れた時とは違うその感覚に静かに瞳を閉じると、風に乗って潮の香りが届く。日常と非日常はいつだって隣り合わせだが、今ある日常を守るために自分たちは帝国各地で遊撃士として活動している。
「リィン」
呼べばすぐに声が返ってきた。その声にゆっくりと体を離し、自分にはない色を宿したその瞳を見つめて告げた。
「今度は俺に付き合ってくれ」
次にここへ戻って来れる日がいつになるかは分からない。けれど、今回は日帰りのため行けなかった場所がまだ幾つもある。リィンを連れて行ってやりたい場所は一つだけではないが、やっぱりそこにはリィンと一緒に行きたいと今日、改めて思った。だから。
「ああ。いつでも付き合うよ」
だからまた来よう、と柔らかな笑みを浮かべたリィンにつられるように口元が緩んだ。好きだな、という気持ちが溢れたのは間もなくのことだった。
それを当たり前のように受け入れたリィンは、ほんのりと頬を染めながら笑った。その表情を見てやっぱり胸の内は愛しさで溢れそうだった。
「その時は泊まりで来ようぜ。日帰りだと全然時間が足りねぇわ」
「そうだな」
楽しみにしているとはにかむ恋人と、今度はちゃんと会いに行くから。
心の中でそう告げて「そろそろ行くか」と懐かしい地を後にした。蒼い海が赤に染まる中を二人は何てことのない思い出話をしながら並んで歩いた。
「ただいま」
お前と一緒に帰って来て、よかった