一日の授業を終えて生徒を見送り、職員室に戻って残りの仕事を片付ける。そうしている間に太陽は西の空へと沈み、ある程度が片付いたところでトワは帰り支度を始めた。まだ残っている職員に挨拶をして外に出ると空には月が昇っていた。
 東の空にひときわ輝いている星は獅子座のレグルスだろう。満天の星空を綺麗だなと眺めていたトワは暫くしてゆっくりと歩き始める。家に帰ったら久し振りにゆっくりと空を眺めようか。そう考えながら校門を通り過ぎようとした時のことだった。


「相変わらず遅くまで仕事をしてるんだな」


 そんな声が聞こえてきて思わず「え?」と驚きが声に出た。その声自体は聞き覚えがあるものだったけれど、彼は今仕事で海外に行っているはずだった。だがくるりと振り返った黄緑色の瞳に映ったのは暗い夜でもよく目立つ銀色だった。


「よう、久し振りだな」

「クロウ君……!?」


 校門の横に背を預けるようにして立っていたのはトワの予想通り。大学を卒業して間もなく海外に行っていたはずの友人だった。


「どうだ、夢だった教師生活は?」

「まだ勉強することばかりだけど毎日とっても楽しいよ。それよりクロウ君、いつこっちに戻ってきたの?」

「ん? ついさっき帰ってきたとこだぜ」


 二時間くらい前だったかなというのを聞いてトワは再び驚かされる。空港から杜宮までの時間が大体それくらいだ。つまり彼は帰国してそのままここへ来たということになる。おそらく一度家には帰ったのだろうが、本当についさっき帰ってきたらしい友人にトワの中では嬉しさと戸惑いと幾つかの感情が混ざる。


「えっ、もしかしてわたしに何か用事があったの?」


 帰国したばかりなら彼はきっと疲れているはずだろう。それなのにここにいるのは自分に用事があったから以外の理由はない。サイフォンに連絡は入っていなかったけれど仕事中だからと気を遣ってくれたのかもしれない。日を改めなかったということはそれほど急ぎの用事だろうか。
 真剣な面持ちで尋ねるトワにクロウは思わず笑い出した。その声にきょとんとしたトワは「もう、何で笑うの?」と頬を膨らませる。全く怖くないその顔に「悪い悪い」と謝りながらもクロウはまだ笑いが収まらないらしい。もう、と溜め息混じりに零したトワの口元も僅かに緩む。


「確かに用はあるがそういうのじゃねーよ。ま、急用といえば急用かもしれねぇが」

「そうなの? でも急ぎなら連絡をくれても大丈夫だよ」


 気を遣ってくれたのならそんなに気にしなくても良いという風にトワが言えば「今回はお前を驚かせたかったからな」とクロウは話す。全くこの友人らしいなと思いながら急用でもあるというそれはどんな用事なんだろうとトワは考える。
 もしかしてその用事のために帰国してきたのかなと考えるトワの前で絶対分かっていないよなとクロウは思う。流石に忘れているということはないだろうけれど、それに合わせて帰って来たとは考えていないだろう。というより普通は考えないよなと思ったクロウはここへ来た目的の言葉を告げる。


「誕生日、おめでとさん」


 あっ、とトワが小さく声を上げてクロウを見る。そう、今日――三月十六日はトワの誕生日だ。生徒達にも沢山のおめでとうを言われていたトワは何回目かのお祝いの言葉に照れ臭そうに笑う。


「ありがとう。あれ、それじゃあクロウ君の用事って……」

「誕生日は今日だけだからな」


 今日でなければいけない急用だろ、とクロウは微笑む。さらっとそう言ってしまう友人にトワの胸がいっぱいになる。
 確かに誕生日は今日だけだけれど、それこそメールでも電話でも良かっただろう。お祝いをしてくれるその気持ちだけでも嬉しいが、直接伝えてくれたということがその何倍も嬉しくて幸せだなと感じたのもまた事実。何よりクロウに会えたことが嬉しい。ありがとうともう一度お礼を述べたトワの頭にはふと疑問が浮かぶ。


「そういえばクロウ君はいつまでこっちにいられるの?」


 トワの誕生日を急用と言った彼だが、流石にそれだけのために帰国したわけではないだろうからそう遠くないうちに向こうへ戻るのだろう。それならどれくらいこっちにいられるのか気になった。もし時間があるのなら学生時代によく一緒に過ごしていた友人逹に声を掛けてみるのも良いかもしれない。
 大学を卒業してからも友人逹とは度々連絡を取っている。けれどお互い仕事があるのであまり会う機会はない。だから久し振りにみんなで集まるのも良いのではないかとトワは思う。この一年で唯一顔を合わせていなかった一番会いたかった人には今会えたばかりだけれど、せっかくならみんなで集まりたい。そんな風に考えていた時だった。


「ずっといるぜ」


 聞こえてきた言葉に先程まであれこれと考えていたトワの頭が一瞬で固まる。え、と見上げた先には優しげにこちらを見つめる赤紫があった。


「向こうでやりたいことはやってきたしな。帰ってきた、って言っただろ?」


 それは一時的な話だとばかり思っていたけれどまさか本当に。思ったまま声に出してしまったトワにクロウは「こんなことで嘘吐いてもしょうがねぇだろ」と笑った。ここで嘘を吐く理由もないし、嘘を吐いたってこの友人を悲しませるだけだ。そんな嘘を吐いたりはしない。

 やりたいことをやり終えて、いつ帰国しようかと考えたクロウが今日を選んだのはトワの誕生日だから。卒業式の翌日には向こうに飛んでいたから本当に一年振りだ。久し振りに会った彼女はあまり変わっていないようだったがそれも彼女らしい。
 そして、一年経っても何も変わりはしなかったなと思ったクロウはすぐ傍の亜麻色を静かに見つめる。


「……なあ、トワは今付き合ってる相手とかいるのか?」


 尋ねるとクロウを見たトワの顔が瞬時に赤く染まった。どうしたの急に、と返しながら黄緑は右へ左へ移動する。急でもないけれど急にもなるのかと思いながらクロウはそれに「ちょっと気になってな」とだけ答えた。本当はちょっとどころの話ではないのだがそれを口にするのは少々憚られた。


「えっと……そういう人はいないけど」


 どうしてそんなことを聞くのだろうと気になってしまうのは仕方がない。何年も片想いをしている人からこんなことを聞かれるとは思わないだろう。先程からトワの心臓は五月蝿いほどの鼓動を刻んでいる。


「……その、クロウ君は?」

「俺は――好きなヤツは前からいるんだが、もしそいつにそういう相手がいなかったら今度こそ告白しようって決めてた」


 そう言って赤紫が真剣な色を浮かべながらトワの姿を映した。薄く開きかけた唇を一度閉じたクロウは数秒後、ゆっくりと口を開く。


「好きだ」


 たった三文字。けれどその三文字を伝えるまでかなりの時間がかかった。
 本当は一年前、卒業式の後でいつものメンバーとトワの誕生日を祝ったあの帰り道。言ってしまおうかと思ったけれど結局言えなかった。
 だからその時に決めたのだ。こっちに帰った時に自分の気持ちが変わらず、トワにそういう相手がいなかったら。正直自分の気持ちが変わることは考えられなかったが、その時は今度こそ気持ちを伝えようと。


「ずっとお前が好きだったんだ」


 クロウの告白にトワは目を丸くした。今日、彼と再会してから何度驚かされただろう。それらはどれも嬉しいことばかりだったけれど、まさかこんな話しになるなんて。
 たった三文字、いや二文字の言葉。それを言えなかったのはトワも同じ。言ってしまおうかと考えたのはあの日の帰り道。けれど結局言葉に出来なくて思いを募らせたまま更に一年。


「……わたしも、ずっと前からクロウ君が好きだよ」


 トワの返事に今度はクロウが赤紫の瞳を大きく開いた。だがやがて優しげに笑った彼は「そうか」とだけ返した。それにトワも「うん」と微笑みながら頷く。
 出会ったのは高校に入学してから。それから少しずつ親しくなり、いつからか特別な意味で気になるようになっていた。気付いたのはほんの些細な出来事。彼が、彼女が好きなんだと自覚してからここまで幾つ季節が巡っただろう。


「トワ、この後何か用事とかあるか?」

「特にないよ」

「ならもう少しだけ付き合ってくれるか?」


 遅くまで仕事をしていたトワは疲れているかもしれない。けれど久し振りに会った彼女とまだ一緒にいたい。それに誕生日を言葉では祝ったもののクロウはまだ何もしていない。
 ちゃんと祝いたいから、なんてトワからすれば今日彼に会えただけで十分だ。それに加えておめでとうと祝ってもらえて、好きだと告白されて。一日の最後に溢れんばかりの幸せな気持ちをもらった。だからこれ以上何かをしてもらうことなんてないのだが、クロウとまだ一緒にいたいと思ったのはトワも同じ。


「勿論だよ。あ、向こうの話とか聞きたいな」

「じゃあお前の話も聞かせてくれよ」


 言いながらクロウが歩き始めるのに合わせてトワも足を進める。それからお互いにこの一年の出来事を話し始めた。一年前と同じように二人で並んで歩きながら。








好きだったんだ、ずっと

――ありがとう、わたしもずっと前から好きだよ