「好きだ」


 洗い物をしていたところで急に掛けられた愛の言葉。一瞬だけ手を止めたリィンはちらりと視線を後方へと向ける。するとこちらを見ていたらしい赤紫とぶつかった。そしてリィンと目が合うや否やクロウはふっと優しい笑みを浮かべた。


「好きだ、リィン」

「……どうしたんだ、急に」


 愛の言葉を贈られるのはこれが初めてではない。これまで何度もクロウからその言葉を受け取り、リィンもまたクロウに伝えたことがある。その中にはこんな風に何の脈略もなく伝えられたことも幾度とあった。
 今回もおそらくはそういった類なのだろうと思いながら何となく尋ねてみたら「言いたくなっただけだ」と予想通りの返事が来た。丁度最後の一枚を洗い終えたリィンはキュッと蛇口をひねるとシンクの傍に掛けてあるタオルで手を拭いた。それから向かった先は当然、クロウが座っているソファだ。空いていた一人分のスペースに腰を掛けると微かにクロウの表情が和らいだ気がした。


「好きだ」

「知ってる」

「お前が思っているよりずっと、お前が好きだ」

「それは俺にしても同じだと思う」


 とっくにこの気持ちは一方通行ではなくなっている。目に見えない気持ちの大きさを明確に推し量ることは出来ないけれど、たった二文字の言葉に込められた想いが途轍もなく大きいことはちゃんと心まで届いている。
 お互い相手が考えているよりも大きいと思っているそれもきっと、ここまで伝わっている。目に見えなくても心が感じているから。


「俺もクロウが好きだよ」


 ちゃんと、届いただろうか。
 僅かに抱いた疑問の答えはすぐ目の前にあって、やっぱりどんなに大きな想いもきちんと受け取ってくれているのだと実感した。そのことに心が満たされる。多分、クロウもそうなのだろう。


「……お前のそういうとこも好きだな」

「そういうところ?」

「俺が好きなとこ」


 何を当たり前なことを、と思ったのが分かったのか。くすりと笑ったクロウが「愛されてんなって実感するだろ?」なんて言うから、やや間を置いてからそっくりそのまま言葉を返すとリィンも笑った。
 むしろ今は逆だろうとリィンは思うのだが、そうやって分かってくれるところも好きなのだとクロウはまた一つ愛を囁いた。そこでリィンは数分前に尋ねた質問の答えを思い出した。成程、と漸くあの言葉の本当の意味を理解する。


「褒めても何も出ないぞ?」

「良いぜ。勝手に貰うから」


 つーかもう貰ってる。クロウがそう答えた理由は想像に難くなかった。ソファに座っているだけで何もしていないリィンがクロウにしたことなど数えるほどしかないのだから。
 夕食を終えてから洗い物をしている間にこの恋人は何を考えていたのか。いや、考えていたことは今のクロウを見れば一目瞭然だ。でもそれを唐突だと言ってしまうのは違う気がする。何て事のない日常の中でもふと、思うことがあるのはリィンにしても同じだ。それだけが理由の時もあるし、それ以外にも理由がある時もある。今回の場合は後者なのかなと思ったのはただの勘だ。


「クロウ」


 呼んで手を伸ばしたらあっという間に二人の距離はゼロまで縮まった。相手の考えていることが分かるのもお互い様ということだ。


「珍しいな」

「したくなったんだ」


 リィンが答えれば「そうか」とクロウは目を細めた。ほどなくして今日さ、と耳に馴染んだ音が降って来てリィンは赤紫を見る。


「ライノの花が咲いてたんだ」

「ライノの花? この辺りにもあったのか」

「みたいだぜ」


 ライノと聞くとあの白い花が咲き乱れていたトリスタの街を思い出す。あんなに沢山のライノの花が咲いているのをリィンはトリスタに降り立って初めて目にした。あの時は綺麗だなと暫し見惚れてしまったものだ。
 そんなライノの花はトリスタで学生時代を過ごした二人にとっては馴染み深いものであった。また、二人が出会ったのもそのライノの花が咲く季節だった。懐かしいな、と続けて思い出したのは掛け替えのない友と出会った時のこと。


「俺が見掛けたのは一本だけだったが、そろそろ咲き始めるみたいだな」

「そうか。もう春が近いんだな」


 二人で一緒に春を迎えるのは六度目だろうか。士官学院で出会った次の年は共に迎えるどころの話ではなかったけれど、その翌年は一度は喪い掛けた友とまたライノの花を見ることが出来た。それからは毎年、二人でこの季節を迎えている。


『おかえり、クロウ』

『…………ああ、ただいま』


 白い花弁が舞う中で届けた言葉、届いた想い。あの瞬間の胸が苦しくなるほどの喜びは忘れられない。本当に、心の底から思った。彼がここにいてくれて良かったと。また一緒にここに来れて良かった、と。


(そうか)


 だから。リィンはライノの花との思い出を振り返りながら目の前の友人が考えていたことが漸く全部分かった気がした。


「今度の休み、お花見に行かないか?」

「お、良いな。その頃には丁度見頃になってそうだ」


 お花見なら酒も用意しておかないとな、というところは相変わらずだ。でも、せっかくのお花見なのだからそれくらいは良いだろう。どうせなら美味しいものも沢山作って花を楽しむ方が二倍も三倍も楽しめるに違いない。勿論、大切な人と一緒である時点で一人で見るより何倍も幸せな時になる。


「なあ、クロウ」


 ――来年も再来年も、一緒にお花見をしよう。
 そう言ったら「じゃあ毎年するか」とクロウが言うから「そうだな」とリィンも頷いた。今までも外に出た時に春の訪れを見つけて暫しのお花見をしたことはあったけれど、これからは毎年の恒例行事にしても良いかもしれない。そうやって春の訪れを楽しむのも悪くない。


「好きだよ、クロウ」


 なんとなく、言いたくなって自然と言葉が零れる。胸がぽかぽかとあたたかい。幸せだな、と思いながら出た言葉にクロウはやっぱり笑った。


「俺も好きだ」


 癖のある漆黒の髪も。太陽の光で輝く髪も。自分にはない色を持つ透き通るような瞳も。優しいところ。真面目なところ。さり気ない気遣いをしてくれること、お人好しなこと。長年振るってきた太刀による肉刺で硬くなった右手も、二つの獲物を使い分ける大きな左手も。どんなこともちゃんと気付いてくれて、同じだけの想いをくれて、いつだって隣にいてくれる。傍で笑っていてくれる。
 他にも沢山。とても言葉で並べられないほどの全てが。全部が全部、好きで、愛おしくて。どうしようもないほどの想いが、溢れ、伝わる。重なり合った唇から溢れんばかりの想いと熱が流れ込む。


「……本当、愛されてるな」

「そっちこそ」


 言って、どちらともなく笑った。幸せだ、とても。このありふれた日常に二人でいられることが。彼がいてくれることが。たったそれだけで、こんなにも。

 ひとしきり笑ったらこつんと肩に重みが乗る。それに合わせてすぐ横の銀を追い掛けると「ありがとな」と声が聞こえてきて、口元を緩めたリィンは「俺の方こそ」と静かに目を閉じた。
 穏やかな夜はゆっくりと流れる。今日も明日も、大切な人と共に。








い、

伝えて、伝えられて、また一つ幸せが満ち溢れた