「リィンももう卒業か」
早いもんだなと言いながらクロウはコーヒーを飲む。それから卒業おめでとうと少しばかり遅いお祝いの言葉を贈った。ありがとう、と受け取ったリィンははにかむように笑う。
一週間前、リィンは高校を卒業した。卒業証書を受け取り、三年間を共にした仲間と別れの挨拶を交わしたあの日はまだ記憶に新しい。長かったような高校生活も終わってみれば案外短かったのかもしれない。けれどそこでかけがえのない仲間に出会えたことは幸運だったのだろう。そう思ったのと同時にリィンの頭に甦ったのは二年と一週間ほど前に言われた友達は大切にしろよという言葉。リィンにそれを教えてくれたのは二つ上の先輩であり幼馴染みでもある目の前の彼だ。
「大学はウチに来るんだよな。どっか部屋でも借りんのか?」
「いや、今のところは実家から通うつもりだ」
リィンの答えにクロウは目を丸くした。一時間半くらい掛かるだろと尋ねるクロウにリィンは普通に頷く。通えない距離ではないと言われたクロウはそれはそうだけどと眉間に皺を寄せる。
「おばさん逹は何て?」
「俺の好きにすれば良いって言ってくれたよ」
「なら大学の近くで部屋を探した方が良くねぇ?」
その方が楽だろうと言うクロウに幼馴染みはなかなかうんとは言ってくれない。最近は物騒だから遅くなったら危ないだろと言ってもこれくらいなら通学圏内だろうと返される。それに物騒といったら独り暮らしというのもと言われてしまえば返す言葉が見つからない。
でもと声を上げてもクロウは心配性だで片付けられた。そんなことはない、と言えないのが正直なところだから反論も出来やしない。だからそりゃ心配にもなるだろうとあえて肯定した。
「お前、頭は悪くないくせに鈍いところがあるからな」
主に恋愛方面で、という言葉は心の中だけで呟いた。一体これまでに何人の男が自分の気持ちに気付いてもらうことすら出来ずに涙を流したのか。
それを可哀想だとは思えないが鈍い彼女だからこそ余計に心配になる。いつどこで悪い虫が寄ってくるかは分からないのだ。特にコイツの場合は無意識に愛想をばらまくからなと考えて小さく溜め息が漏れた。
「…………クロウには言われたくない」
しかし、そんなクロウにリィンは独り言のように零す。「は?」と間抜けな声を出した後に赤紫に映ったのは不機嫌そうな幼馴染み。
「俺はお前ほど鈍くねーよ」
「鈍いよ」
何が、とはお互い口にしていない。もしかしたら全然話が噛み合っていない可能性もあるが今更それを聞く気にはならない。どちらかといえばはっきり鈍いと断言された理由の方が気になる。
どうするかなと考えながら幼馴染みの様子を窺う。手元のカップに視線を落としている彼女は何を考えているのか。鈍いと言われることをした覚えはないが、自覚があれば鈍いなんて言われないだろう。リィンが鈍いという理由ならば幾らでも挙げられるけれど――と思ったところで向かいから声が聞こえた。
「全然気付いてくれないじゃないか」
うっかり聞き逃してしまいそうなほどの声で言われたそれ。おそらくは独り言だろう。しかし、それを拾ったクロウは固まる。
鈍い。気付かない。それがリィンの自分に対する不満だとすれば。
「……なあ、お前もしかして」
これは自分に都合の良い解釈だろうか。そう思いながらも聞き流すわけにはいかないそれにクロウが口を開くと青紫が赤紫を見上げた。
「クロウは今、付き合っている人はいないんだよな?」
「は? ……まあいねーけど」
「俺が昔クロウに言ったこと、覚えてるか?」
次々とリィンから質問を投げ掛けられる。また急にどうしたんだと思いながらもクロウは自身の記憶を遡り始めた。
昔リィンが言ったこと。幼馴染みである自分達はよく一緒に遊んでいたけれどリィンは何を求めているのか。二人だけの秘密だと約束したことも少なくない。偶然見つけた綺麗な夕焼けの丘、学校帰りの駄菓子屋、こっそり夜に抜け出して星を見に行ったこともあった。けれど、一番印象的なのは。
(まさか)
覚えているのか、十年以上も前の子供の約束を。もしもリィンがあの約束を覚えているのなら、不機嫌そうに鈍いと言われたわけにも納得がいく。そして、先程クロウが問おうとした答えも。
暫し考え込んだクロウはやがて、徐に口を開いた。
「…………ウチ、大学まで三十分だけど。来るか?」
もしそれが正解なら。そう思って口にしたその言葉に青紫は僅かに開かれる。
良いのかと聞かれて今更遠慮をする必要はないだろうと言ったのは建前。最初にそう言わなかった時点で建前としての役割はないようなそれにリィンは顔を綻ばせた。
「行く」
柔らかな声音がクロウの耳に届く。それがあまりに嬉しそうで、ドクンと心臓が鳴ったところで赤紫は窓へと逃げた。左手が口元を覆ったのは条件反射である。これは反則だろうと内心で零した。
そんなに嬉しいのか。青紫をちらと見たクロウは心の中で呟く。かくいうクロウもリィンがYESと答えてくれたことが嬉しくて堪らないが、そこには幼馴染みが昔の約束を覚えていてくれたことと彼女も自分と同じ気持ちだったことも含まれている。
「……おばさん逹に何て説明するか考えないといけねーな」
「クロウの部屋に一緒に住ませてもらうで良いと思うけど」
よく知っている相手なのだからそれで十分だろうと話すリィンにクロウは溜め息を吐く。あのなと口を開いて「いくら幼馴染みでも同じ屋根の下に男女で暮らすんだぞ」とことの重大さを説明するが幼馴染みは不思議そうに赤紫を見る。
「クロウ、俺はまだ二十歳にはなってないけどもう子供じゃないよ」
ああ、いつの間に可愛いリィンはこんなに成長したのか。今も可愛いけれどそれだけじゃなくなっている。子供の成長は早いなと思ったクロウはリィンと二つしか違わないが、あの恋愛にとことんと疎かったリィンがなと感慨深くなる。
これは鈍いと言われても仕方がなかったのかもしれないけれど、リィンだってクロウの気持ちには気付いていなかったのだからお互い様だろう。昔からただ一人に向かっていたそれに気が付かなかったのはどっちもどっちだったらしい。
けれど。ふうと息を吐いたクロウは真っ直ぐに青みがかった紫を見つめた。
「なら尚更ちゃんとしないとだろ」
俺達ももう子供じゃないからな、とリィンが今し方言った言葉をそのままクロウも繰り返す。
そう、もう子供ではないのだから。昔はあまり現実味のなかったそれも今では本当に実現出来るような年齢になった。流石にその意味くらいは鈍い幼馴染にも伝わるだろう。
「順番が逆になっちまったけど、俺はそういう意味でお前と一緒にいたいと思ってる」
結婚すればずっと一緒にいられるんだって。でも結婚は大人にならないと出来ない。それじゃあ大きくなったらクロウのお嫁さんになる。
あれは幼稚園児だった頃だろうか。結婚って何と尋ねた幼い自分に両親が教えてくれたそれを幼馴染に話したのはいつまでも彼女と一緒にいたかったから。すぐに頷いてくれた彼女も同じ気持ちだったのだろう。約束をしようと指切りをしたあの日はそんな未来が必ず来ると信じていた。年を重ねるにつれてそうなれたら良いのにと願望へと変わったそれが十年以上の時を経て果たす時が来るなんて。
幼馴染の顔がみるみるうちに赤くなったのはそれから間もなくのことだ。でもすぐに柔らかな笑みを浮かべた幼馴染はほんのりと頬を染めたままこくりと頷いて答えた。
「……俺も、あの時から気持ちは変わってないよ」
いつも手を引いてくれる幼馴染が好きだった。その笑顔が好きで、いつでも隣で笑っていて欲しかった。子供の頃の好きは十年以上たっても変わらないまま。いや、あの頃以上に。
交わる赤と青の紫。テーブルから身を乗り出すようにして二人の距離を詰めたクロウにリィンは自然と瞼を下ろした。それから唇に柔らかな感覚が落ちる。
「ファーストキスはレモンの味っつーのは嘘みたいだな」
「でも甘かったんじゃないか」
ドキドキと胸が鳴っている。レモンの味ではなかったけれどまるで甘酸っぱいレモンのようだった。普通に考えればレモンを食べていないのにレモンの味がするわけもない。つまりはそういうことなんだなと思いながら二人はくすりとどちらともなく笑う。
「やっぱり今度おばさん達がいる時に一度来る。まずは付き合うところからだけどな」
「うん。母さん達に話したらまた連絡する」
じゃあ今日のところは帰るからと立ち上がるクロウに合わせてリィンも腰を上げる。本当はまだ一緒にいたいけれどアルバイトがあるのだから仕方がない。実家に用事があったついでに卒業祝いに寄ったクロウの一番の目的は、顔を合わせる機会が減った幼馴染に少しでも会いたかったからだと、今なら言っても通じるだろうか。
考えながら玄関先でくるりと振り返ったクロウはいつものように幼馴染の姿を瞳に映す。
「風邪とか引かないように気を付けろよ」
「クロウこそ、バイトばかりで体調崩さないようにな」
「分かってるよ。そんじゃあまたな」
また、と手を振ってパタンとドアが閉まる。何てことはない、昔からよくあるやり取りだ。
でもこうやってクロウがリィンの家を訪ねることは片手分もないのだろう。何せこれからは一緒に暮らすのだ。こんな風に幼馴染を訪ねる必要はなくなる。
そうしたら今度は「またね」の挨拶ではなく「行ってきます」や「お帰り」という挨拶を玄関で交わすことになるのだろう。なんだかそれは恥ずかしくもあるけれど、きっと幸せな毎日なんだろうなとどこまでも続く青を見上げながら思うのだった。
おおきくなったら
結婚しようと、ずっと一緒にいたい幼馴染と約束した
そして、大きくなった少年少女はあの頃と変わらずに手を取り合う
いつまでも一緒にいよう、と